ニコラスの憂鬱
フィオナに自室で休息を取るように念を押してから、ニコラスは自分の研究所に向かった。
自分の、というのには語弊がある。厳密に言えば、ニコラスが受け持っている仕事は全てユーリーによって進められている研究だ。
アメリア・バートンは勿論のこと、ララ・メイ、シン・ワンリンは、ユーリーとは独立した機関で自分の研究に打ち込んでいる。
ニコラスはユーリーの研究補佐にしか過ぎない存在だ。
だから彼らの前に出ると、自分の凡庸さを見せつけられる格好になって、どうしても委縮してしまう。
ガグル社の未来を担うと謳われた天才科学者達と行動を共に出来ると分かった時には、天にも昇る気持ちだったのに。
自分の運命を変えたあの日。
脳裏に焼き付いて離れないこの記憶は、これから先もずっとニコラスを苛み苦しめるのだ。
「ガグル社を出る。一緒に来い」
データ解析を終えて、ユーリーに報告しに行った時だった。
ユーリーは、たった一人で、椅子に座っていた。
夜も遅くて、広い研究室は殆んど照明が落とされていた。小さなライトで手元の半分を照らしながら、物思いに耽るような表情で頬杖を付いて、ユーリーは本の活字に目を落としていた。
こんな時間にユーリーが本を読んでいるなんて珍しい事もあるもんだ。ニコラスは思った。
いや、それよりも、こんなに暗いところで字が読めるのかなと首を傾げたが、そんな些末な疑問はどうでもよくなった。
何故ならユーリーは、ニコラスが返事をしたのと同時にその本を床に放り投げて嬉しそうに自分に手を差し伸べたから。
あの時、自分に見せたユーリーの笑顔にニコラスは驚嘆し歓喜した。
(だって、ユーリーに自分の能力を認められたと、あの時、そう思ったから)
でも、違ったのだ。
有頂天になったツケは大きかった。
高揚した気分はアメリカ軍の研究室に来てからすぐにへし折られた。アメリカ軍にはニコラスと同等の、否、それ以上の優秀な人材がいくらでもいたのだ。
彼らはガグル社の天才達をすんなりとバックアップして、研究開発を邁進させた。研究主任補佐官という役職をユーリーから与えられたものの、ニコラスの能力は他の四人とはあからさまに乖離していた。
ガグル社から来た天才科学者は四人。
その認識が広がるのに大した時間は必要なかった。アメリカ軍の研究者は、次第にニコラスをユーリーの添え物として扱い始めた。
ユーリーやアメリアとは違い、ニコラスは平均的な遺伝子を持たされて生まれてきた人間だ。
ガグル社の中でニコラスのような人間が必要だとも思えないが、ユーリーの説によると、一定の平均値が存在しないと生物というのは絶滅に向かうのだそうだ。
「お前は選ばれて生まれて来たんだ。何も卑屈になることはない。堂々としていればいい」
ユーリーはそう言ったが、それが体のいい慰めだと、ニコラス自身が十分に理解していた。
確かに自分のような平均値の人間が数多くガグル社には存在していて、恐ろしく手間の掛かる基礎実験に没頭している日々を送っている。
それこそが先進的な研究を支える重要な仕事なのだとユーリーは唱える。
お前の仕事に、誇りを持てと。
だから、来る日も来る日も同じ作業に苦痛を感じているとは、ニコラスは口が裂けても言えないのだ。
最初から分かっていた。凡庸な人間が居場所を移動させたところで変わる事など一つもない、と。
覚悟はしていた。それでも、現実に叩きのめされた。
救いはただ一つ。フィオナの存在だ。
(あの子がいるから、僕は、自分を保てている)
それでよく、ユーリーにフィオナを甘やかし過ぎだと怒られる。
幼い頃ならともかく、フィオナはもう十三才だ。幼児期、自分に依存していたフィオナに、今はニコラスが依存している。己の価値をフィオナに注ぐ愛情に見出している。
(頭では分かっているんだ。いつまでもフィオナを自分に縛り付けてはいけないって)
それでもフィオナを慈しみの中に包んでおきたいのは、彼女が未完成の少女だから。
ニコラスは非力だ。だけど、フィオナに対する愛情がこの世の誰に劣るというのだ。
(戦場に立てば、フィオナはニドホグと過酷な戦いに身を投じなければならない。殺し合いだけの冷酷な世界に)
だから、もう少し、あの子の傍にいてあげたい。
ユーリーの実験室でフィオナは生まれた。
フィオナは人間とは比べ物にならない優れた身体能力を持っている。
巨大なニドホグを自由自在に操る少女の骨は鳥のように軽く、チタン合金のように丈夫だ。肺はイルカのように空気をため込めるし、象の如く頑丈な心臓は、身体の隅々まで瞬時に血液を送り込む。フィオナの骨格を覆う薄い筋肉は成人男性の約十倍の能力を発揮できる。
小枝のように細い手足と華奢な身体に隠された怪力がどれほどのものか、誰も想像出来ないだろう。
自然界には存在しない、この世でたった一人の複合遺伝子人工生物。それが、フィオナだ。
フィオナは人間の形をしているがヒトではないと、ユーリーは言った。
フィオナの創造主であるユーリーの言葉に間違いはない。フィオナは人間を、地球上で進化した生き物全てを超越した生物だと。
(だけど、僕には、そうじゃない)
十三年間、この気持ちは変わらない。ふにゃふにゃの柔らかい赤ん坊だったフィオナを両腕に抱き、己の胸に、あの子の心臓の鼓動を感じたその時から。




