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青の戦域    作者: 綿乃木なお
第三章 時代は踊る
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「当時のヨーロッパの指導者たちは、アメリカ人がこのままヨーロッパに永住してしまうのを恐れたのでしょう。強大な力を持つアメリカ軍に支配されてしまう事態に恐怖した」


「我々には帰るべき国がある。それを彼らに信じて貰えなかった悲劇がそこにある」


(誰がその言葉を信じるというのだ?エンド・ウォーの一因を作った国からの招かれざる来訪者の言葉を?)


 ユーリーはウォーカーに相槌を打つことで同意の意思を示しながら、全く別の事を考えていた。

 あの男はよくやったものだ、と。

 ヨーロッパの恐怖と疑心を、アメリカの驕りと欺瞞を巧みに利用して、生き残った技術者を結束させて新しい国家をこの地に創り上げてしまったのだから。

 そこには従来の政治も軍隊も存在しない。

 あるのは技術の集約のみ。そして、その進化と加速。

 ウォーカーと同じように殺したいほど憎んでいる男だが、その功績には賛美を送らねばならない。

ユーリーは薄く開いた唇に笑みを浮かべてから、自分の指を広げ顔の半分に当てて己の表情を隠した。あの男と同じ顔で笑っていると自覚したからだ。

 それは、ユーリーの正面に座っているウォーカーには面白くない笑顔だろう。

 

 ファン・アシュケナジ。アメリカを裏切った男の顔。

 

 案の定、ユーリーを見つめるウォーカーの表情が、硬く冷たいものに変化していた。その瞳の奥に隠れているアシュケナジへの憎しみの炎が、蛇の舌の如くちらちらと姿を現す。

 

 ユーリーとアシュケナジ。

 

 瞳と髪の色、容姿は同じでも、中身は全く違う人間だ。アシュケナジの方がユーリーよりもずっと年上で、顔の造作や体形の肉の付き方も加齢に伴い変化してきている。

 それでも今、ウォーカーの目には、同一人物としか映っていないのだ。頭で理解しようとしても、感情がそれを許さない。

 

(全く持って、人間というのは厄介だ)

 

 思い出したくもないのに、ニコラスの悲し気に沈んだ表情が脳裏に浮かんでしまった。


(くそっ)


 ユーリーはウォーカーに気が付かれないように微かに舌を打った。


「ウェルク・ブラウンに会った」


 ウォーカーは、ユーリーの顔に目を据えたまま、静かに口を開いた。


「ウィーンの城で、連邦軍との休戦協定会議に出席した時だ。彼は連邦軍付きの記録係だった。あの茶番劇を顔色一つ変えずにタイプしている姿は見ものだったな。偏屈男のヘーゲルシュタインに随分と見込まれているようだ。まさかあんな席で、あの男に会えるとは思っていなかったよ。私には信仰心の欠片もないが、これぞ天の采配だと神に感謝したよ。だから、個人的に会う機会を作った」


「それで、会って、どうでした?」


 細めた目をゆっくりと瞬きしながら、ウォーカーに話の先を促す。


「見た目はいかにも質実剛健の厳ついプロシア軍人だが、喋ると意外と品が良くて物腰が柔らかだった。頭の回転も恐ろしく早い。ヘーゲルシュタインが懐刀として重宝しているのが理解出来る。」


「魅力的に見える人物ほど、食わせものであることが多いそうですよ」


 ユーリーはそう言って歪んだ笑みを浮かべた。


「それを承知の上で、アシュケナジの名を出した。ヨーロッパの何処かに潜んでいる奴を探し出して拘束しろとね。奴を我々に引き渡せば、アメリカはロシアとの軍事同盟を解消すると明言してやったよ。人一人捕まえるだけでロング・ウォーが終わってしまうと知って、彼は非常に驚いていたな」


 あからさまに目を瞠るユーリーを、ウォーカーは興味深げに眺めた。


「風か雲かと言われるくらいに所在の知れない男ですよ。ガグル社でも、彼がどこにいるのか知る者はいない。不可能に近い難題を敢えてウェルク・ブラウンに吹っ掛けた理由は何です?」


「確かに、所在の知れないアシュケナジを拘束するなど不可能だ。だが、奴から姿を現すとしたらどうだ?アシュケナジがヨーロッパ中に放っている忠犬どもによって、私とブラウンが接触した事が奴の耳に届いたなら?奴も、この世界に無関心ではいられなくなるかも知れないぞ」


「ブラウンを使って、アシュケナジを誘き出そうと?」


 ユーリーが訝し気に眉を顰めた。


「まあ、そういう事だ」


 ウォーカーは声を低くして、顎の先に思案気に指を這わせた。


「ブラウンがアガタの息子ならば、奴は必ず姿を現す」


 アガタ。

 ガグル社で幾度となく耳にした女の名前。

 アシュケナジと共に、ガグル社の中枢にいた人物だ。

 ユーリーは努めて冷静な態度で「なるほど」と、ウォーカーに頷いた。

 アメリカ軍の諜報能力を侮っていたわけではないが、自分が思っている以上に彼らは情報収集に長けているようだ。


「ブラウンが、アガタの息子ならば」


 ユーリーはウォーカーの言葉を丁寧に反芻した。


「確かに、アシュケナジが表に出て来る可能性は高いですね」


「共和国連邦の上層部ほど、ガグル社の恩恵を受けて優雅に暮らしている。軍となると猶更だ。連邦軍の兵士はガグル社が製造する武器でロング・ウォーを戦っているといっても過言ではない。ヨーロッパ人はアシュケナジに首根っこを掴まれた赤子同然だ。彼らには何の期待もしていないよ。ただ、この時代の(ことわり)を知らないで戦争に駆り出されている大勢の人間には、同情を覚えないでもないが」


「随分と優しい言葉を口にするのですな」


 辛辣なユーリーに、ウォーカーは皮肉な笑みを返した。

 やはり彼独特の冗談だったようだ。

 面白みのないやり取りの間、ウォーカーの目は未だ憎しみを保ったまま、ユーリーに向けられていた。ユーリーはその瞳を無味乾燥に見つめ返した。

 ウォーカーと言う男の事は、好きでも嫌いでもない。

 利害が一致して結託しただけの間柄に、己の感情を絡めるような愚かしい事などしない。

 だが、いくらアシュケナジと自分の顔が酷似しているからといって、積年の恨みを込めた仇視のこもった表情をウォーカーから向けられるのにもさすがに飽きてきた。


「ところで、停戦はいつ解除されるのですか?」


 気まずい空気を払拭しようと、ユーリーは話題を変えた。


 ウォーカーの両目がはっとしたように見開かれ、表情からこわばりが消えた。目の前にいるのが裏切り者ではなく、アメリカ軍に恩恵をもたらす男だというのを思い出したらしい。


「ウクライナ西部にあるリボフ基地の補給が済み次第、停戦は解除されるだろう。休戦協定なんて、ウォシャウスキーの戯言さ。奴は今度こそ実力行使でポーランドを奪い取る気だ」


「ウォシャウスキー将軍は、次の戦いで軍事同盟軍が青の戦域を制圧出来ると考えているのでしょうね」


「そうだ。連邦軍の要であるプロシア軍は今、壊滅的な打撃を受けている。立て直しに躍起になっているだろうが、停戦解除までに到底間に合わんだろう。プロシア軍が使い物にならないとなると、ヨーロッパ大陸で、ロシア・アメリカ軍事同盟軍の快進撃を止められる国は残っていない。悲願達成が目前で、ロシ

アの老将軍は鼻歌が出るほど上機嫌だ。将軍のお付きの者が困惑しているらしいぞ」


「ウォシャウスキーの鼻歌など、想像するだけで背筋がぞっとしますが」


 ユーリーは朗らかに言うと、にっこりと微笑んだ。青年特有の清々しい笑顔に、今度はアシュケナジを想像させるものはなかった。


「長い年月を戦いに明け暮れているご老人に楽しい夢を見せて上げるのも、我々同盟を結んでいる者の務めでしょうからね。短い夢でしょうが」


「そうだな。あと少しの辛抱だ。君も、私も」


 ウォーカーの厳しい表情が崩れて、穏やかなものに変わった。

 ユーリーの顔から離れた視線が、基地の灰色に塗られた壁を通り抜けていく。

 ウォーカーの瞳は今、まだ見ぬ故郷のアメリカ大陸の上を鳥のように飛んでいるのだろう。

 ユーリーの瞳も、己の欲する場所を探して脳内の風景の中を羽ばたく事がある。

 昔見た映像に捕らわれた心が、視覚野に残った記憶の風景をぐるぐると飛び回っているだけなのだが、アメリカ副大統領の気持ちは痛いほど理解出来る。


「あなた方アメリカ人は、西の果ての故郷に戻る」


「そうだ。その為に、一世紀以上もの長い期間、黒海に隠してある原子力潜水艦を細心の注意を払ってメンテナンスして来たのだからね」


 ウォーカーは、それは嬉し気に顔を綻ばせた。

 この場にウォシャウスキーがいたら随分と困惑するような無邪気な笑顔だろうと、ユーリーは思った。


「君たちは東の果ての島に向かう。東西に長く連なる四つの島にね」


「そうです。エンド・ウォー以前(ビフォア・エンドウォー)、あなた方の属国だったというその地を、我が故郷にする」


「再度、確認するが」


 ウォーカーは傾げた首を右手の指で押し戻すように支えながら、ユーリーに問うた。


「君の生まれたガグル社の本拠地ルクセンブルクを含めて、このヨーロッパが再び地獄の業火に焼かれることになっても、君は、本当に、何の後悔もしないのだね?」


「何回確認しても同じことですよ。副大統領殿」


 ユーリーは首を仰け反らせながら冷酷な笑いを口元に浮かべて言った。


「私の生きる場所は、この地にはない」


「そうか。ならば、共に進むとしようか。血の海から始まる未来の道をね」


 ウォーカーなど好きでも嫌いでもない。だが、この男の退屈な話に長年付き合って来て、今やっと共感する言葉に出会えた瞬間に、ユーリーの心は僅かに高揚した。


「何も厭うものなどありませんよ。新しき時代を迎える為の生贄は、どの時代にも必要だ」


 自分が再びアシュケナジと同じ表情で笑っていると、ユーリーは気が付いていた。

 だが、目の前の男が、先程のようにユーリーの顔を憎しみの目で見つめることはなかった。

 ユーリーの冷徹な表情が微妙に揺らいだのを、ウォーカーは見逃さなかったのだ。

 彼が自分に共感したのならば、人の心とは、本当に愚かなほど安易なものだ。



 ユーリーとウォーカーの笑い声は、陰鬱な協和音となって、暫し部屋に響き渡った。


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