年老いた牧師
「ケビン。ケビン坊ちゃま」
艶めかしく手招きをしながら、若い女がウォーカーを呼んだ。
ブロンドの、見目の派手な女だ。目の前でひらひらと踊る女の細くて長い指先を飾る赤い爪は、ウォーカーがこの世で一番嫌いなものだった。
「さあ、こちらへいらっしゃい。休憩時間は終わりです。お勉強の時間ですよ」
次は倫理と称した牧師のお説教だったな。ウォーカーは眉を顰めた。
退屈過ぎて、あくびを噛み殺すのに苦労する授業だ。ボードゲームに熱中していたウォーカーの気の進まない表情を見ても、世話役である女は、お構いなしにウォーカーの手を捕まえて引っ張った。
嫌だ、もう少し遊んでいるんだと駄々を捏ねたいのを必死に堪えて、ウォーカーは女に手を握られたまま、大人しく学習室へと歩いて行く。
彼女は父のお気に入りだ。逆らったら良くない事態を引き起こすのも分かっていた。
「さすが、坊ちゃま。私の(マイ・)小さな(リトル)副大統領。本当に、いい子ね」
嬉しそうな微笑みをウォーカーに向ける女に、ウォーカーは純粋そうな笑顔を作って返した。
自分がいい子だとは思っていない。今だって、若くして死んだウォーカーの母親の後釜に大きな尻をねじ込んだこの女に、糞喰らえと叫んでやりたくてうずうずしている。あんたにそんな愛称で呼ばれる筋合いはないねと、唾を吐きかけてだ。
(僕ははこの女にマイ・ヴィープと呼ばれてやに下がっている誰かさんとは違うんだ)
「お利口さん」に見せるのは、自分の周辺にいる大人達を安心させる為の演技だ。
特に父親を。
いい子を演じるのはストレスの溜まる。ウォーカーは大人から見えない所で思う存分我が儘を振るう暴君になった。
遊び相手に選ばれた子供達には災難だったろう。だが、賢い彼らはウォーカーの傍若無人さを誰にも訴えなかった。その為に選ばれたのだと、彼ら自身が理解していたからだ。
ケビン・ウォーカーが将来アメリカ副大統領に就任し、アメリカ軍を率いてアメリカの将来を担う地位に就くのを。自分達とは一線を画す人間であると。
自分達は王となる子供にあてがわれたおもちゃに過ぎないという事を。
「人には尊厳を持って接しなければなりません。何故なら人は皆、神の子だからです」
「はい。神父様」
教師の言葉に神妙な顔をして頷きながら、ウォーカーは胸の内でぺろりと舌を出していた。
尊厳とやらがこの世に存在するのなら、どうして未だに戦争が続いているのか。
世の矛盾を平気で口にする年老いた男がウォーカーは嫌いだった。
教師である前にこの老人はプロテスタントの牧師だ。
彼は聖書に書かれた理想を語る事しか許されない。牧師は神に仕えるのが仕事なのだから。
それでも、エンド・ウォーで生き残ったアメリカ人の末裔である自分達が、牧師の宣う神に救われているとはとても思えない。
老人の一言一句が、子供の幼い心にも恐ろしく欺瞞に聞こえた。
だから、父親がこの老人を自分の教師の一人に加えたことを、理解出来なかった。
ウォーカーは牧師の説法を辛抱強く聞いていた。
自分の為にではなく、尊敬しなくてはならない父の為に。
自分達の最高権力者、アメリカ副大統領を失望させない為に。
「人は生まれた時から神の前では平等なのです。如何なる時にもその身分は変わらない」
子供心にも大層な戯言だと思った。それでもウォーカーは牧師に「はい」と素直に返事をした。嬉しそうに光る年老いた男の瞳が、世話役の女ものと同じだった。
(いいぞ、その調子だ。良い子のケビン。従順な振りを通して、下らない授業を早く終わらせちまえ!)
本当にそう思っていたのに。
胸の奥がムズムズしてどうしようもない。ウォーカーの幼い心は限界を超えてしまった。
今まで封じていた言葉を、ウォーカーは衝動的に吐き出した。
「もし本当に生まれながら人が平等だと言うのなら、ぼくがアメリカ副大統領になるって決まっているのは、何故ですか?」
(しまった。この質問は失敗だ)
良い子のケビンを押し退けて、本当の自分が出て来てしまった。
穏やかだった牧師の表情が険しくなるのを見て、ウォーカーは椅子の上で身を縮めた。
「いい質問だ。真理を突いている。ケビン、君はまだ幼い子供なのに。大したものだ」
牧師の顔が優し気にほぐれたので、ウォーカーは安堵した。
反抗的な言葉を咎められて父に言いつけることはしないだろう。褒められたのもウォーカーの気を大きくさせた。
「牧師さま、教えてください」
「エンド・ウォーだ」
厳かな声で牧師は言った。
「神は我々を試されているのだよ。あの最終戦争からずっと。ケビン、君は、迷える子羊である我々を神の国に導く者として、この世に生を受けた。君の父上もだ。ウォーカー一族が、その重責を担ったのだ。それ故、君はこのトランシルバニア・アルプス・アメリカ基地で、生まれながらにして最高の地位に就く事を許されている。神から賜りし地位に。だから皆が、君に期待しているのだよ」
牧師は微笑みながらウォーカーの頭を撫でた。
今日はこの辺でお終いにしようと告げられた時、ウォーカーは自分がこの退屈な授業を早く切り上げさせたことに気が付いた。
ボードゲームに戻れることに有頂天で、その時の牧師の抽象的な言葉には無関心だった。
あの老人は、なかなか気の利いた言葉を放ってくれたものだ。
思い出す度に、にやりとせずにはいられなかった。
謎掛けを含んだ言葉は、喜び勇んでプレイルームに駆けて行った子供の頭の隅にしっかりと植え付けられていた。
牧師の言葉はまるで魔法の呪文のように、事あるごとにウォーカーの頭の中で再生された。
あの言葉がウォーカーを育み、五代目のアメリカ副大統領としてこの世に存在させているとっても過言ではない。
神がいるのかどうかは別として、牧師はウォーカーの行く道を示した。そこに迷いはなかった。
ウォーカーは、父とは全く異なる指導者となった。
晩年の父は、牧師の宣う神の言葉とやらを妄信していた。
アメリカ人とロシア人、敵対するプロシア人、ヨーロッパ独立連邦共和国の人々、貴族も兵士も一般人も、棄民から構成されるプロシアの傭兵も、全ての人類は神の子であり、すべからく平等であると。
博愛思想は自分の胸の内で唱えておけばよかったものを、父はことあるごとに口に出した。それが原因で、アメリカ軍は上層部から求心力が失われていった。
信念を失った指導者の為に己の命を懸けるのは愚かしい行為だと誰かが言い始める前に、ウォーカーは父親を自らの銃で粛正した。ウォーカー一族に代々伝わる銀の拳銃で、父の心臓を撃ったのだ。
一人息子に銃を突き付けられた父の顔には驚きも絶望もなかった。
ただ、穏やかに目を細め、口元を緩めただけだった。
大国の重責を背負った指導者の表情はどこにもなかった。深い皺に切り刻まれた老人は疲れた顔を上げ、ウォーカーを見つめた。
そして、息子だけに聞こえる小さな声で呟くと、父は目を閉じ、胸の上で十字を切った。
父が両手を組んだ直ぐ上、胸の中心を、ウォーカーは撃ち抜いた。
心身共に病み老えた大統領が、心臓発作で突然病死することは、誰の損失にもならなかった。父の遺体に泣き縋るブロンド女は別として。
父の後を継いで、アメリカの副大統領と軍の最高司令官を兼務することになったウォーカーは、直ちに軍の引き締めを図った。
トランシルバニア・アルプスのアメリカ基地から逃げ出そうとする人間を容赦なく捕らえ投獄した。
忠誠を誓うか、さもなくば、死か。
逃亡しようとした者には二つの選択を与えて、実行に移した。
もし牧師が生きていたとしたら、ウォーカーの犯した罪に嘆き、慟哭し、恐れ戦いただろう。
幸いにも、ウォーカーの父親よりも遥かに年上だった老人は、神に従順だと信じて疑わなかった教え子の大罪を目にする前に、天国に召されていた。
開けましておめでとうございます。(ちょっと遅い)
今年も頑張って執筆していく所存ですので、どうぞよろしくお願いします<(_ _)>




