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青の戦域    作者: 綿乃木なお
第三章 時代は踊る
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脱出・3


 カチャリと音がして、扉が開いた。

 ヤノシュは呆気に取られた表情でハインラインに目をやった。


「一応、国政を担う議員の執務室だぞ?人に見られちゃ拙い書類とか置いてないのか?」


「卿が需要書類をこの部屋に置いておくことはない。というか、彼が国会運営の為の重要書類に目を通すことはない。ベックは父親から上級貴族議員の地位を受け継いだが、君の言う通りでぼんくらでね、まるで政治には興味はない。書類は彼の一等秘書官に全て行くように手配されているからね。だから、ベックがこの部屋の鍵を掛け忘れていても、何の問題ない」


「酷でぇ話だ。まるっきり税金泥棒じゃないか」


 ベック卿の執務室に身を滑り込ませた二人は急いで扉の内側から鍵を掛けた。これで一時的に身は隠せる。

はあっと、深く息を吐いて、二人同時にずるずると分厚い絨毯の上に腰を落とした。


「おい、ヤノシュ。次はどうするんだ」

 

 時間はない。老兵が騒げばすぐに兵士が動き出す。議事堂内を虱潰しに探されると、貴族の執務室に潜んでいる自分達など他愛もなく見つかってしまうだろう。


「少しは自分の頭で脱出経路を考えたらどうだ?俺はお前の召使いじゃないんだぞ」


「何を言っている。お前が脱出を請け負ったんだろう?平民党の新鋭議員殿」


「ったく、これだから貴族ってやつは」


  ヤノシュは忌々し気に顎をしゃくって、窓の方に顔を向けた。


「この窓から外に出るしかないな」


「窓からだって?」


  ハインラインの顔が緊張で強張った。


「貴族議員執務室の窓の正面は芝生だけの庭だぞ。それも結構広いときている。ここから外に出たら、議事堂の敷地から出るまで何処にも身を隠す場所がない。照明で明るく照らされた芝生の上を突っ切ってみろ。不審者の何者でもない」


「よく見ろ。丸見えにはならんさ」


  ヤノシュは指先を窓に押し付けた。


「照明の光が届いていない場所が結構あるだろう?あれが俺たちの脱出経路だ。あの暗がりに身を隠しながら走るんだ。警備兵に気付かれる前に全速力で駆け抜けて、連邦議事堂の敷地から出る」


「銃を携帯した警備兵は門前にもいるんだぞ。前と後ろで挟み撃ちになる可能性がある」


「そうだとしても、ここまで来たら、あとはもう運に身を任せるしかないだろうよ」


 躊躇するハインラインを置いて、ヤノシュが開けた窓から飛び出した。


「あっ、おい!待ってくれ!運に身を任せるだって?くそっ、何が頭脳明晰だ」


 丈の長いズボンの裾を踏まないように両手で布をたくし上げたまま、ちょろちょろと走り出すヤノシュの滑稽な後ろ姿に毒づきながら、ハインラインはヤノシュの後を追った。

 ハインラインの前を走る小さい影はやたらと速くて、なかなか追いつけない。勢いよく走る二人の足音を柔らかい芝が吸収してくれるのは幸いだった。


「おいっ!園庭中央を走っている奴がいるぞ!」


 走り出した途端、怒鳴り声が頭上に降って来た。

 こちらは暗がりに身を潜ませて走っているつもりでも、議事堂の高所から見張りをしている警備兵からは丸見えだったらしい。


「止まれ!止まらんと撃つぞ!」


 警備兵の恐ろしい警告がハインラインとヤノシュの後ろから迫ってきた。


「どうする?!」


 ヤノシュに追いついたハインラインが甲高い声を上げる。


「止まっても、撃たれるだろうから、このまま、逃げる!」


 ヤノシュは息を切らしながらも、声を張り上げた。


「あと、少しで、外だ」


 ひゅんっと、耳元で風が切れる音がして、足元の芝が小さく抉れた。


「発砲されたぞ!」


 ハインラインが悲鳴を上げた。


「いいから、走れ!止まるな!走れ―!」


 叫ぶヤノシュとハインラインは並んで走った。

 パシッパシッと、銃弾が後ろから飛んでくる。恐怖で口から心臓が飛び出しそうだ。死に物狂いで足を動かしていたヤノシュが突然地面に突っ伏し転がった。


「どうした!!撃たれたのか?!」


 ハインラインがヤノシュに駆け寄った。


「問題ないっ!転んだだけだっ!」


 倒れているヤノシュを起こそうと芝生に膝を付くと、後ろから複数の人間が走ってくる微かな振動が伝わってくる。ぶかぶかの兵服に足を取られてもがいているヤノシュをむんずと掴み上げ、ハインラインは脇に抱えた。

 そのまま全速力で走り出す。あと少しで議事堂の敷地の外だ。


「止まれ!」


 前方からライフル銃を構えた若い兵士が駆けて来て、ハインラインの前に立ちはだかった。後ろから追いかけてきた兵士と完全に挟み撃ちになってしまった。

 ハインラインは足を止めた。

 ヤノシュを抱えたまま仁王立ちで、自分を取り囲んだ警備兵を睨み付けた。


「無礼者!不審者ではない!私はハインライン、この国の首相だ!!」


 大きな声で一括すると、兵士達はハインラインの顔を訝しげに見つめた。

 目の前にいるのが本物のプロシア首相だと分かると、途端に顔を青くして慌て出した。構えた銃をすぐに下ろして、ハインラインに最敬礼のポーズを取る。


「し、失礼致しました!首相殿!しかし…何故、こんな所に居られるのですか?」


 あからさまに狼狽えた様子で警備兵が聞き返す。ノイフェルマンのクーデターでハインラインがその地位を追われたことを、この兵士達はまだ知らないようだ。


「それにその、首相殿が、脇に抱えておられます小柄な男性は、一体、どなたで?」


「火急の用だ。そこをどけ!」


 再び一括すると、警備兵は困惑しながらも「はい(イヤー)」と素直に頷いて、ハインラインの前から自分の身体を退けた。


「よろしい」


 ハインラインは神妙に頷くと、口を閉じることを忘れてその場に凍り付くように立っている兵士の前から脱兎の如く走り出した。

 そのままの勢いで正面の門まで一気に辿り着く。門の前で一旦足を止めてから、腕からずり落ちそうになるヤノシュを抱え直して悠然と歩き出した。

 門扉の両脇に立っている二人の兵士が酷く驚いた表情で、徒歩で近づいてくるハインラインの顔に困惑し切った視線を泳がせている。

 それはそうだろう。いつも運転手付きの首相専用高級車で中央のゲートを出入りしているハインラインしか、彼らは見たことがないのだから。


「警備、ご苦労」


 威厳に満ちた表情で二人の兵士に労いの声を掛けながら、ハインラインは足早に議事堂の敷地の外に出た。

 暫く呆然としていた警備兵達が我に返って、首相の様子がおかしいと、ようやく無線のスイッチを入れる頃、ハインラインはヤノシュを抱えたまま、夜の闇に姿を消していた。



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