脱出・2
ハインラインは、自分の足元に倒れた年老いた二人の兵士を気の毒そうに見下ろした。
ヤノシュの言われるままに老兵の一人を殴った。残りの一人はヤノシュが後ろから羽交い絞めにして失神させた。
図らずも年寄りに狼藉を働くことになって気落ちするハインラインの隣で、ヤノシュが薄汚れた薄いシーツを器用に裂いて端と端をせっせと結んでいる。そうやって作った紐で、兵服を毟り取られて下着姿になった老兵の両手両足にぐるぐると巻き付けていく。
「ヤノシュ、何もそこまで、お年寄りを縛り上げる必要はないんじゃないか?」
猿ぐつわを噛まされた老人達のぐったりした顔を眺めながら良心の呵責を滲ませるハインラインの声に、ヤノシュは鼻を鳴らして顔を上げた。
「お人好にしも程があるぞ、ハインライン。食事係のこいつらが銃を携帯していなかったから、そんな暢気な事を言っていられるんだ」
もごもごと喋るヤノシュの口にはいつの間にかコッペパンが咥えられていて、驚くほど器用に咀嚼されて口の中に消えていく。
まるでにんじんを食べているウサギの口みたいだ。ハインラインは手と口をせわしなく動かすヤノシュをぼんやりと眺めていた。
「確かに爺さんだが、れっきとした兵士だぞ。不意を突いたから倒せたようなもんで、まともにやり合ったら俺達より強いかも知れん。このシーツはボロだから、力を入れたらすぐに裂けてしまうだろうし。念には念を入れなきゃな。それにしても…」
兵士の拘束を終えて自由になった手で一口大になったパンを口の中に押し込んでから、ヤノシュはハインラインに顰め面でパンを渡した。
「あんたはぼんやり突っ立っているだけで何の役にも立たん男だな。空腹で倒れないように、腹ごしらえ
ぐらいはしておけよ」
ハインラインは顔の前に突き出された固いパンを受け取って、恐る恐る齧ってみた。
ぱさぱさに乾燥したパンの味と食感は、生まれて初めて口にするものだった。
唾液で柔らかくしてから必死に嚥下する。
ヤノシュを見ると、浅鉢のアルミの容器に入れられたスープをスプーンでカチャカチャと騒がしい音を立てながら、すごい勢いで掻き込んでいる最中だった。
ハインラインはパンを二つに割ってからスープに浸して柔らかくなったパンをスプーンで切り分けた。水と塩だけで煮込んだらしいジャガイモは原形を留めないくらい煮崩れている。
スープでふやけたパンとどろりとした液体を一緒に口に入れると、やはり味も舌触りも最悪で、なかなか飲み込めない。
「なんとまあ、お上品な食べ方だこと。日が暮れちまうぞ!」
苛々しながら足踏みするヤノシュに急き立てられるように、ハインラインは何とかスープの半分を胃の中に流し込んだ。
老兵の一人が意識を取り戻し始めて、小さな呻き声を上げた。
「行くぞ」
ヤノシュが留置所から飛び出した。ハインラインもすぐに後を追う。
階段の鉄柵の扉は老兵から奪った鍵で難なく開いた。留置所に行くだけの通路に人影はない。二人は並んで狭い廊下を静かに歩いた。
老兵から奪った兵服を着込んでいるので、普通の兵士が一見しただけではノイフェルマンの命令で拘束されたプロシア首相と平民党議員とは分からないだろう。
だが、どちらにも服のサイズがまるっきり合っていない。
兵服の袖丈とズボン丈が恐ろしく短い長身の兵士と、ぶかぶかのズボンをたくし上げながら歩く寸当らずの兵士。滑稽な様相の二人組が他の誰かに見咎められたら一巻の終わりだ。
「取り敢えず、留置所からの脱出は成功だ」
「そうだな。それで、これからどうやって議事堂の外に逃げ出すんだ?このまま廊下を歩いているだけだと、我々の顔を知っている奴に見つかるのは時間の問題だぞ」
「我々じゃなくて、あんたの顔だろうが、ハインライン“元”首相殿。貧乏地区選出の新人議員の顔なんて、誰も知っちゃいないさ。もっとも、牢屋からあんたと一緒に逃げ出したとあっては、俺もまた取っ捕まっちまうさ。今度捕まれば、議事堂の地下の留置所なんかじゃなくて、軍の監獄行きだ。ノイフェルマンがくたばるまで日の目を見られんぞ」
皮肉を並べ立てるヤノシュの口が、面白くなさそうにへの字に歪む。決して冗談を言っている訳ではないようだ。
「お前の話し方には苛々させられるが、その考えには賛成するよ」
ハインラインは周囲に注意深く目を走らせながら頷いた。
「どの地区出身だろうとプロシア連邦議員には変わりはない。だからヤノシュ、お前も私と同じようにノイフェルマンによって議員の地位をはく奪されて、ただの平民に戻されているだろうな。軍刑務所に連れて行かれたら、それこそお終いだ。あの冷徹なノイフェルマンの事だ。俺は利用価値があるうちは生かされておくだろうが、お前みたいな小物はすぐに処刑されてしまうだろう」
「あんただって随分と俺を立腹させる喋り方だぞ、ハインライン。だが、まさしくその通りだよ」
ヤノシュは不愉快な顔でハインラインを睨み付けた。
「それに、俺は、小物で終わる気はさらさらないんでね」
「だったら、この状況を早く打開しないといけないな。もうすぐ中央廊下に突き当たる」
ハインラインは焦った声を出した。
「人通りが多くなる。いつまでものんびり歩いている訳にはいかないぞ」
古いシーツで縛った老兵も、完全に意識を取り戻している頃だ。
ヤノシュは必死で思考を巡らせた。中央廊下。そうだ、あの広い通路に入る手前には…。
「ハインライン、今、何時だ」
ヤノシュに言われてハインラインが腕時計の針に目を走らせた。
「もうすぐ十八時になる。それが、何か?」
「中央廊下は大会議室に近い。その手前の通路には、古参の上級貴族議員の執務室が並んでいる。留置場も飯時だったが、貴族のディナーの時間はもっと早いんだろう?奴らがこの時間まで執務室で仕事をしている可能性は?」
「まず、無いな。殆んどの上級貴族議員は、国会運営など表向きの仕事だ。本業は、ベルリンの一等地にある大邸宅でのパーティーだ。そこでの己の利する根回しが互いに共有されて、いわゆる政治っていうやつに名を変える」
「奴ら、本当に腐っているな。だが、それが、今の俺たちに逃げ道を作ってくれるって訳だ」
怒りで片頬をひくひくと震わせながら、ヤノシュは口の両端を思い切り引き上げて、歪んだ笑いを浮かべた。
夜と呼んでもいい時刻になっている議事堂は、人の行き来があまりない。
薄暗がりの狭い廊下から貴族議員の部屋が並ぶ広めの廊下に、二人は急いで足を向けた。
天井には豪華なシャンデリアが釣り下がっていて、ハインラインとヤノシュしかいない廊下を燦々と照らしている。身なりがおかしい男二人にはかなり違和感のある場所だ。
「上級貴族の執務室に入るぞ。鍵はこれで開ける」
ヤノシュがポケットから留置所の扉の鍵を開けたヘアピンを出す。
「ちょっと、待て」
ハインラインは今にも鍵穴にピンを差し入れてガチャガチャやりそうなヤノシュを止めて、執務室の扉を一つ一つ確認するように歩いて行く。
一体、何をしているのかとヤノシュが首を傾げていると、あった、これだと、一つの扉を指差して足を止めた。
「ベック卿の執務室。別名、昼寝部屋だ」
「ベック卿?ああ、あの、賭け事にしか興味のないっていう、ぼんくら貴族議員の。で、その男の執務室を俺に開けろと?」
「いや、そのヘアピンの出番はないと言いたいだけさ」
ハインラインはベック卿の執務室の扉の取っ手を持って静かに押した。




