地下留置所
第三章あらすじ
平民議員ヤノシュと共に議事堂の留置所に拘束されたハインライン。
ヤノシュの知己によって留置所から脱出し、彼の隠れ家で妹のミアと出会う。
モルドベアヌ・アメリカ基地では、ユーリーとウォーカーがロング・ウォーに勝利した後の行動を話し合っていた。
ヤガタではダガー決死隊が編成され、アメリカ基地へと向かう。
瀕死の戦域連邦軍を援護する為、新たな生体スーツ三体を引き連れたユラ・ハンヌがガグル社から派遣されてくる。
ブラウン、ミニシャと共に作戦を立てるハンヌだが、実はある目的の為にヤガタを訪れたのだった。
第三章です。ストーリー構成上、主人公はちょっとお休み。前半、ハインラインとヤノシュがコンビになって登場します。バディものは書いていて楽しいですね。
四章から戦闘再開します。長い目で見てやって下さい。
水滴が落ちる。
蛇口のどこかが緩んでいる。
一定の間隔で、ポタンピチャンと、黄ばんだ洗面台の中に小さな音を立てる。
ここは連邦議事堂の地下留置所。
エンド・ウォー以後、短くはない歳月を経て、混沌の時期を脱したプロシア国が議会制を復活させた時期に作られた。
当時は意見の相違に白熱し過ぎて、議事堂内で備品を壊しながら暴れる血の気の多い議員がいたようで、暴漢と化した議員を閉じ込める為だと聞いている。
だが実際は、明り取りの窓一つない湿気のこもった留置所に収監するのは人権侵害に当たるとして、一度も使われたことはない。
ハインラインが収監されるまでは。
ハインラインは焦点の合わない瞳で、部屋の中を見渡した。
傷だらけの古い床。煉瓦で作られた年代物の壁は所々がカビで黒く汚れている。廊下側は扉共々、鉄柵の檻だ。天井からぶら下がる裸電球が黄色い光をハインラインの顔に落としている。
自分が腰を下ろしているパイプベッドは絶えずぎしぎしとうるさい音を立てている。
マットレスは生まれて初めて目にする薄さだし、その上に敷かれた灰色に変色しているシーツはいつ洗ったものなのか分からない。
足元に畳んであるごわごわの毛布など、触る気にもなれなかった。
(まさか、プロシアの首相である自分が、こんなところに閉じ込められるなんて)
バイエルンの生家の広大な庭の片隅にあったポンプ小屋が、この部屋くらいの大きさだったのを、ハインラインはぼんやりと思い出した。
幼い頃、従弟や妹達とかくれんぼに使った小屋。
少女たちの可愛いドレスが埃で汚れて、一番年上だったハインラインが母親に怒られた。
エーベルト、こんな汚いところに入っちゃいけません!と。
何も考えずにただ遊び回っていられた時代の至福の記憶に、口角が自然と持ち上がる。
どうすることもできない苦難に陥ると、人間、現実逃避に陥るらしい。。
「…首相」
誰かが呼んだ。
「ハインライン首相殿」
(うるさい。話し掛けるな)
喋ろうとしても口を動かす気力もない。
それなのに、今置かれている状況などお構いなしの甲高い声が、ハインラインの名を呼び続ける。
「エーベルト・フォン・ハインライン首相殿!」
「うるさい!!静かにしてくれ!」
ハインラインは弾けるように立ち上がると、目の前の男に怒鳴った。
「私の名前を口にするな!」
二列に並んだパイプベッドの上で両膝を抱えた小柄な男が、驚いた表情でハインラインを眺めた。
「びっくりしたぁ。そんなに怒らなくたって、いいじゃないですか」
「自分の名前を不躾に連呼されたら、誰だって腹ぐらい立てる!」
ハインラインは自分の正面に座っている男、エルミア・ヤノシュを睨み付けた。
「ヤノシュ君、だったかね?私は、クーデター首謀者のノイフェルマン中将に地位を剥奪されたんだ。もう首相の身分ではないよ」
「そういう事になってしまいましたねぇ。お気の毒なことで」
ハインラインは腰掛けているパイプベッドから立ち上がって、正面にちんまりと座っている痩せた小男を見下ろした。
「首相ではなくなったが、私は伯爵の地位にある貴族だ。貧困地区出身の下級平民のくせに上級貴族に向かって随分と無礼な口を叩く奴だな。貴族不敬罪って知っているか?」
「エンド・ウォー以後、ドイツがプロシアと国の名前を変えた時に、貴族制復活と共に作った最低の悪法ですよ。プロシアに住んでいたら、子供だって知っています」
「そうだ。上級貴族が無礼を犯した下級以下の平民に暴行を加えても罪にならない、最低最悪の法律だ。だが今の私にとっては、非常に都合の良い法律だ」
ハインラインは右手を固く握り締めた。ベッドにちょこんと座る小男に向かってげんこつを振り上げると、ヤノシュは慌てて、頭を両腕で庇う姿勢を取ってから甲高い声を上げた。
「暴力反対!殴らないで下さい!別にあんたを怒らせるつもりはなかったんですよっ」
ヤノシュは痩せた小さな身体を縮めて、情けない声で哀願し始めた。
少年のようなヤノシュの身体に鉄拳の制裁を加えるのに躊躇して、ハインラインは振り上げた拳を下ろした。怒りのままにこの男を殴ったら、自分が悪者になってしまう気がしたからだ。
「怒らせるつもりはなかったと、どの口が言ってる?ヤノシュ、お前のような性悪の人間が、どうやって連邦議員になれたんだ?貧困地区出身の人間が、どこの大貴族に取り入った?」
「あんたこそ、失敬な物言いばかりじゃないか、ハインライン。俺が何に見える?お前と同じ人間だぞ!身分なんて糞喰らえってんだ!言っておくが、俺はあんたと同じプロシア総合連邦大学出身だ。法学部、国際法律科の先輩だぞ。少しは敬えよ!」
「…君、私より一つ年上だったのか」
ハインラインは驚いてヤノシュを下ろした。




