深淵・4
「殺してくれ」
狂気に蹂躙された脳から、束の間、正常な精神が顔を覗かせる。
焦点の合った視線がダガーの瞳を捕らえた。正気に戻ると、アシュルは同じ言葉しか口にしなくなった。殺してくれと。
「お願いだ。ヴァリル。俺を殺してくれ」
「苦しいのは分かる。アシュル、今だけ、耐えてくれ。薬が効けば必ず良くなる」
ダガーの言葉に、アシュルは暗い笑みを浮かべるだけだった。
「この状態から、俺が回復すると?俺は、全部知っているんだ。脳の神経細胞が次第にダメになっていって、最後は、自力で呼吸も出来なくなる、って」
そうなる前に狂い死にするか。アシュルは呟いて、喉元を引くつかせた。
「この点滴にはガグル社製の薬が入っている。これが効いてくれば、ずっと楽になる。本当だ、だから…」
ダガーは横たわるアシュルの全身に目をやった。
頭から足の先まで頑丈な拘束具に全ての自由を奪われ、ベッドに仰臥するだけの肉体。内出血が酷い腕に、無慈悲に刺さる点滴の針。
副作用がかなり強いが、もうこの薬を処置するしかない。
これが効かなければ、他にはもう打つ手はないと、ボリスが言った特効薬。
アシュルの症状を見ている限り効いているのかどうか分からない、最後の命綱だ。
剥き出しになった胸部には心拍数と血圧を測る電極のコードが取り付けられている。
データを取るだけの何の意味もなさない装置をアシュルの身体から引き毟りたい衝動を、ダガーは必死で堪えていた。
外してはいけないとボリスに厳命されているのを無視して、ダガーはアシュルの頭と上腕、腹に巻き付いている拘束ベルトを取り外した。
ぐったりとした彼の上半身を起こし、その頭を自分の胸に抱いた。ベルトに擦れて皮下出血で痣だらけになったアシュルの腕をそっとさする。
「大丈夫だ。必ず良くなる。頑張れ。お前は強い」
アシュルの痛ましい姿に、自分ですら希望を持てないというのに。
アシュルが死んでしまうのが怖くて、ダガーは馬鹿みたいにお粗末な言葉を吐き続けた。
安っぽい励ましに辟易したのか、アシュルの口元が力なく歪む。額に浮かぶ大量の汗が、薄暗い照明の中で薄く光った。
「その残酷な嘘が、優しさのつもりなんだろう?ヴァリル、お前は、そうやって、いつも俺を苦しめてきた」
腹の底から絞り出すアシュルの声に狼狽えて、ダガーは口を閉じた。
「アシュル?一体、どうしたんだ」
「死ぬ前に、お前に言っておくことがある」
血走った目がぐるりと動いて、ダガーを睨む。今まで一度も見たことのないアシュルの悪鬼の如き形相に、ダガーは思わず息を飲んだ。
「覚えているか?初めて俺と出会った時の事を」
もう二十年以上前だ。ダガーが窃盗団を組む相手を探していた時。
アシュルは、胸にボロ布の塊を抱きしめて、ごみの散乱する汚い路地裏に悄然と佇んでいた。ボロ布は、絶え間なく鳴き声を上げていた。
最初、ダガーは少年が子猫を抱えているのだと思った。
覗き込むと、汚い布に包まれていたのは、小さな、本当に小さな…。
「俺が抱いていた赤ん坊は、実の妹だった」
「いもうと…」
「そうだ。それを捨てろと、あんたは言った」
泣き喚くふにゃふにゃの赤ん坊を、ダガーより年下の少年は、自分の小さな胸にしっかりと掻き抱いて、泣き腫らした目でダガーを見つめた。
「俺たちは、母親が死んで、酒浸りの父親に捨てられた。妹は生まれたばかりだった。乳を貰えずにひもじくて泣く赤ん坊を、俺は、どうしたらいいか分からなかった。だから、俺は、あんたの言う通りにした」
赤ん坊を捨てろ。
アシュルと赤子に交互に目をやってから、ダガーは言った。
生まれたての赤ん坊を、親なしのお前が、どうやって世話するっていうんだ?
お前も、赤ん坊と一緒に、餓死しちまうぞ。
赤ん坊を捨てて、俺と一緒に来い。
「だから、捨てた」
アシュルの震える喉がひきつけを起こすように上下する。
笑っているのだと気が付くのには、少し時間が必要だった。
「俺は、死にたくなかった。だから、妹を、捨てた」
真っ赤に充血したアシュルの目がダガーを捕らえる。涙と一緒に溢れ出す怒りからダガーは目を逸らせない。
「俺の命は、妹を犠牲にして得た命だ。たった一人の血を分けた妹を、見殺しにして」
「…仕方なかった。生きられない、命だった。」
「ああ、そうさ」
アシュルの黒い瞳が黄昏の色を濃くしていく。
「あんたの言う通りだ、ヴァリル。あんたは正しい。だから俺は、ここまで命を繋いでこられた。だけど、いつも自分を責めていた。妹はあと少しで死んでしまう運命だった。なのに、どうして、あの子が息絶えるまで抱いていてやらなかったのかって。あの子には、たった一人の兄しかいなかったのに。どうして俺は!」
ぼろぼろと零れ出るアシュルの涙を、ダガーは息もつかずに見つめた。
「その罪が、ずっと俺を苛んできた。そして俺は今、罰を受けている。狂気のなかで終わらない夢を見ている。妹の夢だ。抱っこをせがんで、裸の赤ん坊が俺の身体をよじ登ってくるんだ。身動きが取れないくらいの大量の赤ん坊が。名前を呼んでやりたいが、あの子には名前がない。名前すらない」
「そうだ。俺がそうさせた。名前を付けたら捨てられなくなるからだ。それが、お前の為だと思った。だけど、そうじゃなかったんだな」
ダガーはアシュルの頬に手を置いた。
「だからもう、終わりにさせてくれ、ヴァリル。お前の手で。お願いだ。お前にしか頼めない」
アシュルの虚ろな瞳は、再び押し寄せる黒い狂気に覆われて、次第に光を失っていく。
「どうか、この、苦しみから、開放して、く、れ」
「分かったよ。アシュル。妹の所に行って、あの子に名前を付けてやれ」
(そうだ。アシュル。お前の罪は俺が作った。お前が苦しむ必要はない)
ダガーの指が、汗と涙で湿ったアシュルの頬から喉元へと滑り落ちた。
「ありが、とう。ヴァ、リ、ル」
これが最期だ。彼が自分の名を口にするのは。
アシュルの首に両手を添える。その行動の意を解したアシュルが薄く微笑んで、震える手をダガーに差し伸べる。
アシュルが微かに唇を動かす。
声なき言葉に、ダガーは耳をそばだてた。ダガーは目を細めて口元に笑みを浮かべ、アシュルに向かってゆっくりと頷いた。
力を込めたのは一瞬だった。
嫌な音と共に、ぱたりと、アシュルの腕がベッドに落ちた。見開いたままの瞳が闇に塗り潰されて光を失っていく。
微かに震えるダガーの指先が、アシュルの薄い瞼をそっと撫でる。
閉じられた瞳から一筋の涙が零れて、ダガーの指先を濡らした。
「俺も、後から、必ず行くから」
ダガーは動かなくなったアシュルの身体を抱き締めながら、その耳元で囁いた。
「妹と待っていてくれ、アシュル。地獄で」
終
第三章に続く




