至福の時
「…中佐。ブラウン中佐」
ダガーの呼び声にブラウンははっとして面を上げた。
グラスの中のブランデーを見つめているうちに、いつの間にか幼い頃の回想に浸ってしまっていた。ダガーが心配そうにブラウンを見ている。
「すまんな。少しばかり寝不足気味なところに、旨いブランデーを流し込んだものだから、思いのほかアルコールが回ったようだ」
「お疲れのようですね。お身体は大事ないですか?」
「よしてくれ。俺は身体の心配されるほど年は取っていないぞ」
ブラウンが顰め面して掌を上下に振ると、ダガーは困ったように目を瞬いた。
「すいません」
「ダガー、そこは謝まるとこじゃない。全く、我ながら嫌になる。素直にありがとうと言えんのだからな。このまま年を取ったらどれだけ捻くれた爺さんになるのやら」
「…はあ」
「そんな話はさて置き」
ブラウンは手に持ったグラスを軽く揺すってから、ダガーに凛とした視線を投げた。
「権力の中枢にいる人間達が何を考えていようと私の任務は変わらない。次の戦闘に向けての準備を粛々と進めるだけだ」
「……」
「本音を言うと、ウォーカーが厭戦を口にしたあの時、これは戦争終結の一歩になるのではと、思わず心が躍ってしまった」
ブラウンは椅子からずり下がるように力なく腰を落として足を組んだ。
「だがな、休戦協定を言い出した軍事同盟軍は言葉とは裏腹に、破竹の勢いで戦闘準備を進めている。特にロシアはプロシアの国境近くに戦車を集結させるという甚だしい挑発行為を行っている。宿の件以来、沈黙しているウォーカーも、ウォシャウスキーに追従すると考えていいだろう。…だから、連邦軍も、停戦解除後の戦闘に向かって歩を進めるしか道はない。
無駄に浮かれた後の失望感っていうのは、結構辛いものがあったよ。それで、色々と考えた」
視線の置き場をグラスに戻したブラウンを、ダガーは黙って見つめていた。
酒が入ったせいで、ブラウンは己の口から漏れる弱音に気が付いていない。それとも、わざと萎えた口調をしてまで、腹心の部下である自分に伝えたい事柄があるのか。
「誰かが、この戦争を終わらせなければならない。いくら限定された地域での戦争だからって、これ以上兵士の、人の命が失われるのは、どの国にとっても多大な損失だ。
連邦軍の上層部にその気がないのなら、自分で行動を起こすしかない。一発逆転の秘策があると、ヘーゲルシュタイン少将を説得してこの計画を練った。少将に私の真意は伝えていないけどね」
ブラウンは、ラスト・プランの作戦内容を聞くヘーゲルシュタインの不機嫌極まりない表情を思い出した。
本来ならば、アメリカ基地攻撃作戦など愚策と罵倒されて、すぐさま切り捨てられていよう。
それでも、ヘーゲルシュタインが、恐ろしく無謀な作戦に首を縦に振らねばならなかったのは、連邦軍とプロシアが、ロング・ウォー始まって以来の難局を迎えているからだ。
自負もあった。自分は、ヘーゲルシュタインに一番信頼されている部下だからと。だからこの一か八かの作戦が認可されたのだと。
だがそれも、クーデターが起こる前の話だ。
全ては支配者どもが生き残る為の駆け引きに利用される道具に過ぎない。
これまでの戦争も、これから始まる戦争も。そして、上層部に利用されているブラウンも、同じように部下を利用する。命令という言葉を使って。
「それで、この電撃作戦を、ラスト・プランと命名したのですね」
「そうだ。ヴァリル、君は作戦内容を聞いた時点で理解していただろう?」
ダガーはゆっくり頷いた。真剣な面持ちのダガーから、ブラウンは瞳を逸らした。
やるせない表情をしてそのまま下を向いてしまった鉄色の瞳と、閉じて動かなくなったブラウンの口を一瞥し、それから無言のまま下を向いている上官に、ダガーは強い視線を当てたまま瞳を動かさない。
鳶色の瞳が話の続きを促しているのを感じて、ブラウンは面を上げた。
「さっきも言ったが、かなり難易度の高い作戦だ。アメリカ軍の猛攻撃を受けながら作戦を遂行することになるだろう。敵のホームグラウンドで作戦が失敗すれば、生きて帰れる保証はない。もし、その時が来てしまったなら、アメリカ軍に生体スーツを渡さない処置を取って欲しい」
「自爆せよということですね?」
ダガーの問いに明確な決意を持って、ブラウンは言葉を口にした。
「そうだ」
ダガーの視線はブラウンに注がれたままだ。上官の非情な言葉を聞いても、僅かに瞳を動かしたけで、表情を変えることなく深く頷いた。
「アメリカ軍は我々が彼らの基地を急襲するなどとは、夢にも思わないでしょう。彼らの基地のなかにうまく潜り込んで、存分に暴れてやりますよ」
「頼もしいな。それでこそ我が軍の精鋭中の精鋭、チームαの隊長だ」
ブラウンは口角を少し引き上げて微笑みを作った。
「アウェイオンでアメリカ軍の最新兵器の攻撃に我が軍がどれだけ持ち堪えられるかで、ラスト・プランの成功の確率が違ってくる。私はこの作戦を成功させるために、戦域に出て総指揮を執る。だから君達も、この作戦を必ず成功させてくれ」
「了解しました」
「一介の軍人に過ぎない人間がロング・ウォーを終結させようだなんて、大層な驕りにしか聞こえないだろう。だが、私は本気だ。こんな上官を持ってしまって、ヴァリル、君には本当に難儀を掛けるが」
「いいえ、ウェルク。あなたは、正しい」
ブラウンを見つめたまま、ダガーは僅かに微笑んだ。
「誰かが、ロング・ウォーを終わらせなければならない。俺はラスト・プランの主要を担う誉れある兵士として、作戦に全力を尽くします」
「ありがとう、ヴァリル。ラスト・プランが成功すれば、君は英雄として戦史に名が残るぞ」
「俺じゃない。ウェルク、あなたの名が歴史に刻まれる」
ダガーの言葉を聞いて、ブラウンは複雑な笑みを浮かべた。
「我々連邦軍は、生体スーツの他には新兵器を所持していない。アメリカ軍の走行ロボット兵器やドラゴン、それからマクドナルドというサイボーグに対して、我が軍の兵士の殆んどが、従来の武器で立ち向かわなければならない。アウェイオン以上に過酷な戦いとなるだろう。戦闘作戦の実質責任者である私の名が刻まれる場所があるとしたら、奇跡的に生き残れた兵士の悪夢の中だけだろうよ」
「同じですよ。俺だって、戦域の前線で、どれだけの兵士を犠牲にしてきたか」
ダガーは口を引き結んだ。自分が誰かを犠牲にしてきたのは、兵士になるずっと前からだ。
だから、彼は言ったのだ。地獄で待っていると。
「自分の命など惜しくない。だがな、もし、今度の戦いで生き残れたら、また君とこの酒の残りを飲みたいんだ。随分と矛盾した話で恐縮だが」
ブラウンは、中身が半分になったブランデーの瓶を持ち上げて、目を細めて眺めた。
「生還してくれ、ヴァリル。戦争が終われば時代は変わる。身分に関係なく、誰もが本音で話せる時が必ず来るよ」
「そうですね」
ブラウンが望むような平和な世界がこの世の訪れることになったら、一体自分はどうやって生きいていけばよいのだろう。
幼い頃から武器の扱いを傭兵達から骨の髄まで身体に叩きこまれた。
戦うことしか能のない人間に、安息な暮らしが訪れるとは到底思えない。
それでも。今こうやって穏やかにブラウンと酒を飲み交わし会話する時間は、ダガーの人生にとって数少ない至福の記憶となるのだろう。
ダガーは瞳と口元を柔和に緩ませた。
「俺もその酒が気に入ったんです。こうやってまた中佐と飲み交わしたい」
「その言葉、信じているぞ」
ブラウンとダガーは静かに杯を合わせると、グラスの底に残っていたブランデーを同時に飲み干した。




