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青の戦域    作者: 綿乃木なお
第二章  絶望のインターバル
65/303

ゼウスという男 ※


 ウィーンは祭りが多い。

 特に五月の花まつりの時期、表通りは華やかな喧噪で満ち溢れる。

 妹のエリカと母は着飾って意気揚々と祭りに出掛けていった。父も祭りの運営と自分の仕事を掛け持ちで、夜遅くにならないと帰ってこない。暫くの時間、家には自分一人でいることになる。

 ブラウンは父の書斎に行き、一冊の蔵書を取り出した。

 父の蔵書の中でも装丁が一際豪華な本だった。それなのに、美しい緑色の革張りの表紙には文字の一つも刻印されていない。その不釣り合いさに、幼心にも興味を覚えて手に取ったのだ。

 偶然開いたページにブラウンは息を飲んだ。今まで見たことのない不思議な造形をした細密画が描かれていたからだ。

 知らない単語がぎっしりと並んだ本の内容など、幼いブラウンにはどうでもよかった。ただ、絵に魅了されて、家族の目を盗んでは書斎に行き、時々その絵を眺めていた。

 いつもの薄暗い書斎ではなく、お気に入りの絵を太陽の下で見たかった。本を庭に持って行き、芝生の上に寝転んで、いつものページを開いた。

 突然、にゃあと声がした。猫だ。隣の垣根の下から猫が顔を覗かせていた。

 

 ブラウンの好奇心は、いつも眺めている本の絵から急速に猫へと移動した。

 猫は垣根の下からするりと庭に入って来た。トラ縞の可愛い猫だ。

 ブラウンに向かって再びにゃあと一鳴きしてから、猫は垣根に潜って姿を消した。猫の後を追ってブラウンは垣根から隣家の庭に顔を出すと、隣の家の広い庭の片隅に大きな椅子に腰かけた男がさっきの猫を膝に抱いていた。

 初めて見る男だった。ブラウンの父よりいくらか年嵩に見えた。

 垣根から顔を出して覗いている少年に、男は優しく微笑んで、こちらに来るように大きく手招きした。

 生垣には木と木の間に細長い隙間があった。

 大人だったら頭すら入らないとても狭い隙間だ。成人してからは偉丈夫で通っているが、幼い頃のブラウンは小枝のように細くて小柄な子供だった。

 猫に触りたい一心で生垣を潜り抜けた。

挿絵(By みてみん)

「こんにちは…。初めまして」

 

 生垣の隙間から隣の家に無断で入り込んだ決まり悪さにもじもじしながらも、ブラウンは男に挨拶した。


「君の名前は?」

 

 男がブラウンに尋ねる。


「ブラウンです。ウェルク・ブラウン」


「ウェルクか」

 

 男が目を細めた。


「私はゼウス。人からは、そう呼ばれている」


「ゼウス、おじさん」


 男は口の両端を持ち上げたまま、ブラウンの手を取って猫の背中に置いた。

 ブラウンは男の膝で丸まっている猫をそっと撫でた。背中と脇腹を撫で、耳や尖った顎、それから前足の肉球を触ってから、ブラウンは重大なことを思い出して「あっ」と叫んだ。


「どうしたのかね?ウェルク」


 優しい口調でゼウスが首を傾げた。


「家に戻らなきゃ。芝生の上にお父さんの大切な本を出しっぱなしにしてあるんです」


「お父さんの本?どんな本かな」


 ゼウスの声は自分が撫でている猫みたいに温かく柔らかだ。ブラウンはすっかり気を許していた。


「挿絵がとっても不思議な本です。細かくて難しい字が一杯並んでいて、何が書いてあるのか僕には読めないけど」


「不思議な挿絵?」


「うん、そう。高い塔みたいなのと、車輪みたいなおもちゃの絵が描いてある。学校の図書館にある図鑑を調べたけれど、どこにも載っていない。僕の知っている限り、お父さんの本以外にこの絵を見たことがないんです」


 ゼウスの口から出てきた言葉は、ブラウン少年にとって抗えない誘惑に満ちていた。


「その本を見せてくれないか?おじさんだったら、その絵が何なのかを、君に詳しく教えてあげられるかも知れないよ」


「本当ですか!!」


 ブラウンは急いで生垣の下を潜ると、芝生に放り出してあった父の蔵書をシャツの下に入れて両腕でしっかりと抱えた。ズボンの膝が土だらけになるのも構わずに、生垣の下を再び潜った。   シャツの下から本を出してゼウスに渡した。ゼウスは分厚い本を膝の上に乗せると、ブラウンがしおりを挟んだページをゆっくりと開いた。


「ああ、これか」


 絵を凝視するゼウスの顔が奇妙に歪んだ。その表情は幼いブラウンには不可解なものに映った。


 笑っている?怒っている?それとも、悲しんでいる?


 この男に本を見せてはいけなかったのかもしれない。

 ブラウンの胸に不安が沸き上がった。 隣の家に無断で入って、それも家主ではない見知らぬ男に、父の大切な本を見せている。

 自分が重大な過ちを犯したことに気が付いて、ブラウンは激しいに後悔に襲われた。


 涙目になり、微かな嗚咽を漏らしたブラウンに、ゼウスが我に返ったように本から顔を上げた。


「私の真剣な顔が怖ったかね?許してくれ、ウェルク。君を怯えさせてしまって」


 ゼウスはブラウンが最初に会った時の優しい声と表情に戻っていた。


「君に教えてあげよう。これは、私がよく知っている絵だ」


 ブラウンがおもちゃの車輪と呼んだ絵の方をゼウスは指差した。


「車輪が二つあるだろう?これは中央の軸を中心に互いが反対方向に回転する。それで重力が生まれる」


「じゅうりょく?」


 ブラウンは初めて聞く言葉に目を瞬いた。


「そう、重力だ。君はまだ幼いから学校で習っていないだろうが、人が地面を歩いたり走ったりできるのも地球に重力があるからだ。これは、重力を生み出すコア装置の簡易設計図だよ」


「重力を生み出す装置って、一体どこで、何に使うんですか?」


「宇宙だよ」


 ゼウスは厳かに言った。


「人が宇宙で実験する為の施設建造物、小さな君には想像すらできない巨大な建造物だ。それを宇宙ステーションというんだが、その建物を地球の重力に近い環境にするのに使用する。宇宙には重力がない。重力がない空間に長期間滞在すると、生物は身体に著しい悪影響を及ぼす。何故なら地球のあらゆる生物は地球の重力の中で生きているからだ。その中でも哺乳類、特に高度に進化した人類にはね」


 ゼウスは笑いながらブラウンの頭を撫でた。


「どこまで理解できたかな?ウェルク、君のような幼い子供には随分と難しい話だ。重力装置なんて、この世界では大人だって誰も知らないんだからね」


「実験のために、ちょうきたいざいする、うちゅうすてーしょんで、人間が病気にならないように、地球と同じじゅうりょくをこの機械で作り出す」


 難解な言葉に幼い少年は口が回らず発音すらおぼつかない。それでも、自分の説明を的確に要約し一生懸命反芻する幼い少年に、ゼウスは感心して目を細めた。


「ほう。君はなかなか優秀だな」


「おじさん。うちゅうすてーしょんは地球みたいに丸い形なんですか?」


 ブラウンの言葉に、ゼウスは言葉を失った。


「…君は、いくつだったかな」


「八歳です」


「そうか。君の歳で万有引力の概念を理解しているとは驚きだな。確かに宇宙ステーションは円形だ。何故、宇宙ステーションが丸いと分かったのかね?」


「図書館にある百科事典に載っていたんです。地球が自分で回転して遠心力を生み出すから地球にある物体が地面にくっついていられるって、書いてあった。それと、球体の上で遠心力と引力が綱引きする図解説明があったから。だから、それで、うちゅうすてーしょんも地球と同じようにまあるいんだろうな、って」


 ゼウスの大きく見開かれた瞳が自分を凝視して動かない。恐怖を感じたブラウンは唇を結んで身を硬くした。


「ウェルク、君は…。そうか、そうだな」


 一人で納得したように頷いたかと思うと、ゼウスは急に恐ろしい声で笑い出した。驚いた猫がゼウスの膝から滑り降りると、植栽の陰に素早く身を隠した。


「あの女め。とんだ置き土産を残していったものだ。これは面白いことになりそうだ」

 

 声と同様、ゼウスの顔には先程までの優しげな表情はどこにも残っていなかった。


「さて、もう一つの挿絵が何だか教えてやろう。これは宇宙エレベーターだ」


「うちゅう、えれべーたー…」


 ブラウンは恐々、男の言葉を繰り返した。


「そうだよ、ウェルク。君が生まれるずっと以前、私は宇宙ステーションにエンジニアとして滞在していたことがある。だから、宇宙の事はこの世の誰よりも詳しく知っている。だが、宇宙エレベーターはこの目で見ることができなかった。何故なら、建設途中でエンド・ウォーが勃発してしまったからだ。戦争前(ビフォア・エンド・ウォー)の高度な科学技術は失われ、今では宇宙ステーションも宇宙エレベーターも完全に忘れ去られて、伝説にすらならなかった」


 さも残念そうに、ゼウスは深い溜息をついた。


「あの…まだ、あるんですか?」


「何がだ?」


 自分の前で居心地悪そうに縮こまっている幼い少年をゼウスは訝しげに見つめた。


「うちゅうすてーしょん、です。まだ、宇宙にあるのかなって」


 ゼウスは吠えるように笑うと椅子から立ち上がり、右手を空に向かって振り上げた。


「知りたいか?ウェルク・ブラウン。ならばお前は、ウィーン市民の安穏とした地位を捨てて平たんではない道を歩まねばならんな。上を目指せ。この空の上、天空の上、宇宙をだ」


 立ち上がった男は恐ろしいほど長身だった。炯々と光るゼウスの青い目がブラウンを見下ろす。

 その威圧感に、ブラウンは息ができないくらいに怯え切った。ゼウスはブラウンの目の前で乱暴に本を閉じた。


「ところで君には残念な知らせがある。この本は国家機密になり得る専門書で、民間人が所有してはならない類のものだ。いわゆる禁書というやつだな。君の父はこの国、プロシアの法律を犯していることになる。いくら幼い君でも、それがどういうことか理解できる筈だ」


 禁書と聞いてブラウンは震え上がった。大変なことになった。父が警察に逮捕されるかもしれない。そんなことになったら…。ブラウンの目からはぽろぽろと涙が零れた。


「そこで提案だが、ウェルク、この本を私に預けたまえ。そうすれば君と君の家族に危険が及ぶことはない。それが唯一の安全策だ」


「でも、その本を持っていたら、おじさんが警察に捕まっちゃう!」


「心配しなくていい。どの国の法律も、私を裁くことはできない。私は君達の世界から完全に独立した存在だからね」


 ゼウスは相手が子供にも拘わらず、容赦なく難解な言葉を並べ立てた。大半が耳からすり抜けていったが、ただ一つ、この本をゼウスに預ければ、家族と自分は安全だということだけが幼いブラウンの心に刻まれた。

 泣きべそをかきながら、父の大切な蔵書を目の前の男に差し出す。ゼウスは本を抱えるとさっと身を翻し、一瞥もすることなくブラウンから足早に去っていった。

 ブラウンはしょんぼりと立ち竦んだまま、その姿を見送った。暫くすると、自分が隣家の庭に無断で入り込んでいる状況を思い出した。

 慌てて垣根の隙間に身体を押し込んで、自宅の庭へ戻った。

 ほっとして芝生にへたり込んだ途端、かわいい悲鳴が耳を貫いた。エリカの声だった。


(にい)様ったら、酷い恰好!一体どんな遊びをしていたの?」


 エリカが興味津々でブラウンに顔を近づけてきた。はっとして自分の洋服に目を落とすと、生け垣の枝に引っ掛けたのだろう、シャツは破れ全身が土まみれになっていた。恐る恐る母親の顔を伺うと、ぽかんと口を開けてブラウンを見ていた。


「…猫が庭に入って来て、追いかけてたらこうなった」 


 自分でも驚くほどすらりと出まかせを口にした。猫が庭に入ってきたのは真実だが。


「ええーっ!いいなあ、エリカもお祭りなんか行かないで、猫追いかけたかったー!」


 悔しげに地団駄を踏むエリカの様子に、母がからからと明るい笑い声を立てたので、ブラウンは心底ほっとした。


 しかし、父には一分の嘘も付けない。大切な蔵書を見知らぬ男に渡してしまったのだから。


 黙っていたところで、大切な蔵書が書斎から消えたことに、父はすぐに気が付くだろう。

 誰が持ち出したのかは一目瞭然だ。幼い息子が書斎にこっそり入るのを、父は何度も目にして、本は丁寧に扱いなさいとブラウンに耳打ちしたのだ。

 夜遅く帰宅した父に真実を話した。ひどく怒られるのは覚悟の上だった。

 父は怒ることなく息子の話を聞いた。怒るどころか、ブラウンの拙い説明に一度も口を挟むことなく、終止真剣な表情でいた。

 話し終えると、父はブラウンの頭を優しく撫でた。


「あの本は、私のひいひい爺さんが、知人から預かったものだと父から伝え聞いている。預けた人物は姿を現さないまま、百年以上の歳月が過ぎてしまった。私も若い時分に好奇心から読破してやろうと、あの分厚い本を開いたことがあった。すぐに読解不能と気が付いたがね。古書としては価値があるかもしれないが、意味を失った専門用語があまりにも多く書かれいて、誰にも読めないのだよ。あの本は、この時代の人間が必要とするものではない。喪失したことすら思い出せない、今の人類にとってはね」


 複雑な思いがあったのだろう、父は悲しげな表情でブラウンを見つめた。


「いいか、ウェルク。さっきも言った通り、あの本は預かりものであって、本来は我が家の所有物ではない。だから、預かると言った男にお前があの本を渡したと聞いても、私がお前を罰する為に手を挙げることはない。それに…」  


 そこで言葉を切って、がっしりとした胸にブラウンのか細い身体を引き寄せる。


「もしかしたら、そのゼウスという男が、あの本の持ち主なのかも知れないぞ。今になってブラウン家に預けた本を取りに来たのかもな」


 誰が聞いても胡散臭い話だ。そう言って父は笑った。


「世の中には人間が理解し得ない奇妙な真実もある。あるにはあるけど、無いほうが圧倒的に多い。だから、この話は私とお前だけの秘密にしよう。ウェルク、誰にも喋るんじゃないぞ」


 そう言うと、父はブラウンを力強く抱きしめた。



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