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青の戦域    作者: 綿乃木なお
第二章  絶望のインターバル
64/303

身分の差


「分かりました」


 ダガーはゆっくりと頷いた。

 ダガーの承諾にブラウンは嬉しそうに微笑んだ。その表情を見て、ダガーは胸を撫で下ろした。

 ヤガタ基地に新しく入った下士官達との作戦会議で、休む暇のないブラウンが心身共に憔悴し切っていると危惧したのは、どうやら杞憂だったようだ。


「さて、と。夜更けの長話になるから、その前に」


 ブラウンは椅子から立ち上がると、豪華なキャビネットの前に大股で歩いて行った。

 大尉だった頃とは比べ物にならない広くて豪華な執務室だ。それもその筈、アウェイオン戦前にチェース准将が使用していた部屋だった。

 ドラゴンの攻撃で、ヤガタ基地の地上の建物は半分が使い物にならなくなった。

 平民出身の士官の仕事部屋はほぼ壊滅したが、身の安全を第一とする高級貴族将校の部屋は全て基地の地下にあり、ほぼ無傷で残っている。

 失脚した高級将校専用の空き部屋を仕事場にしたいのは山々だったが、平民の身分には不相応だし、ヤガタに残る貴族将校の手前もある。生体スーツの研究室の隣にある狭い予備室で仕事をしていたが、それがヘーゲルシュタインの耳に入ったようだ。

 ブラウン中佐に貴族将校専用の執務室を使わせよとの、ヤガタ基地最高司令官の言質を取ったブラウンはチェースの執務室だった部屋に足を入れた。

 軍事基地には不釣り合いな装飾を施された扉を最初に開けた時、ブラウンは呆気に取られた。室内も扉同様、否、それ以上に贅沢な設えだったからだ。


「チェースは基地の執務室を別荘とでも思っていたようだ。このキャビネットには、ずらりと高級酒が並んでいた。呆れたことに、酒を飲んでそのまま寝てしまえるように、次の間が寝室になっていた。部屋の中央に見たこともない天蓋付きの豪華なベッドが鎮座していたよ」


「准将は、イングランドの王族出身の高貴な身分であらせられるお方ですからね」


 ダガーは無難な言葉を口にするに留めた。貴族の身分を称賛する平民の常套句に、ブラウンは微かに眉を寄せた。


「共和国連邦の上級貴族将校は、戦闘計画を立案するだけで、自ら実戦には赴かない者が殆んどだ。チェースもそうだった。だから奴には戦争をしている実感がなかったのだろう。それでこの体たらくだ。壊滅的な失態の尻拭いを誰がするのか、奴らのような特権階級の人間は一瞬たりとも考えたこともないのさ。一般兵士の命など、彼らにとっては空気よりも軽い」


 喋りながらブラウンがキャビネットの扉を開ける。そこには一本の酒瓶が置いてあった。


「腹が立って、この棚に並んでいた酒を全て破棄したのだが、このブランデーを見つけて、つい一本だけ残してしまったよ。少しばかりお相伴に預かってもいいかもしれないと、ね」


 そう言ってブラウンが苦笑するのを、ダガーは表情を変えずに眺めていた。

 酒の銘柄など、とんと分からない。が、ウィーン上級市民の出身であるブラウンが捨てるのを躊躇したくらいだから、余程高級な酒なのだろう。


「ヴァリル、君は、酒はいける口か?」


 ブラウンは洋酒の瓶の隣に並ぶ高価そうなブランデーグラスを二つ取り出しながら、ダガーに聞いた。


「さあ、自分でも分かりません。酒はあまり飲まないので」


 ダガーが正直に伝えると、ブラウンは驚いた様に瞬きした。


「傭兵出身は酒豪が多いと聞いていたんだが?」

 

 確かに大酒飲みが多いですねと、ダガーは苦笑した。


「子供の頃に、酔っぱらった傭兵から面白半分に酒を飲まされて、酷い目に合ったことがあるんです。翌日、二日酔いの頭痛と吐き気が収まらないのに前線の弾薬補給に駆り出されて、危うく死にかけました。それから酔っぱらいは、嫌いです」


「そんなことがあったとは」


 二の句が繋げず、暫し絶句してから、ブラウンはようやく口を動かした。


「酷い奴もいたもんだ。それは随分と過酷な子供時代だったな」


「過酷だったなんて、考えたこともありません。俺は、自分の周りの人間と同じように生きて来ただけですから」


「…そうか」


 ブラウンは酒瓶の口を開けた。グラスに少しばかりブランデーを注ぐと、ダガーに差し出した。

 ダガーはあからさまに困惑した顔で、ブラウンとグラスに視線を往復させた。


「こんな高価な酒を、自分のような身分の者が頂いてしまっても良いのでしょうか?」


「構わんよ。ここにいるのは、私とお前だけだ。何の遠慮がある?口の中に少し含んで、舌で転がすようにしてみてくれ。気に入ったらお代わりをどうぞ。我が軍の命運を左右する大事な作戦が控えているんだ。酩酊するまでは飲ませるつもりはないよ」

 

 ダガーはグラスを受け取って、琥珀色の液体に視線を落とした。

 グラスをそっと持ち上げて、口に付ける。恐る恐る酒を口内に流し込む姿が、齢二十八になる男の仕草とは、とても思えない。


「ブランデーは、初めて口にしました。味はよく分かりませんが、香りがとても良いですね。口の中でふんわりと広がってくる」


「それだけ分かれば十分だよ」

 

 訥々(とつとつ)と感想を述べるダガーに機嫌よく微笑んで、ブラウンは自分もブランデーを口に含んだ。

 芳醇な香りが喉から鼻腔に抜ける。身体に張り付いた緊張が少しばかり和らいだ。

 ダガーを見ると、空になったグラスを所在なげに眺めている。もう少し飲むかと聞くと、頷いてグラスを寄こした。どうやらブランデーが気に入ったようだ。


「ヴァリル、君は共和国連邦軍の正規兵になって、どのくらい経つ?」


「十年くらい前だと思います」


「いつから傭兵をやっているんだ?」


 ブラウンはグラスを掴んでいるダガーの手を見つめながら聞いた。

 指先と爪の甘皮が黒い。長年の銃の手入れで、煤とガンオイルの色素が沈着してしまったのだろう。


「よく覚えていませんが、十になる頃には機関銃の扱いは覚えていました」


「驚いたな。そんなに幼い頃から、戦域で軍事同盟軍と戦っていたのか!よく無事でいられたな」


「子供の傭兵は、重機関銃やロケット砲の弾薬の補充と装填補助が主な仕事で、さすがに射手まではやりません。大人の傭兵の背中の後ろに隠れていますから、意外と生き残れるものなんです」


 それでも、大多数が前線に配置される傭兵の死亡率はかなり高い。

 ましてや、機関銃などの大型の武器を満足に扱えない身体の小さな子供の傭兵が、戦場でどれだけぞんざいに扱われるか。

 瞬時に的確な判断の出来る頭脳と、類まれな身体能力の持ち主でなければ、戦闘地域で命を拾うのは容易ではない。

 そうやって生き残った優秀な傭兵でさえ、連邦軍の正規兵に引き上げられる者は多くはない。


「君が私の配下の中隊に入ったのは、どの位前だったかな」


「正規兵になって、二年後です。戦読みがずば抜けている中佐の下に配属されたお陰で、俺は命を繋いでこられました」


「こちらこそ、君には随分助けられてきたよ。君の率いる隊が危険な任務を完遂してくれたおかげで、アウェイオンまで軍事同盟軍を追い詰めることが出来たんだ。我々が戦勝国となり、ロング・ウォーが遂に終わると、戦域で戦っている共和国連邦軍の兵士の誰もが浮かれるくらいにな」


 儚い夢だった。ブラウンはグラスの中に残る琥珀色の液体を見つめた。ドラゴンの登場で、これほど戦局が覆るとは、一体、誰が想像しただろうか。


「中佐」


 呼ばれて、はっとして顔を上げると、ダガーが心配そうな顔でブラウンの手元を見ていた。

 それで自分がグラスをかなり強く握り締めているのに気が付いた。

 大して厚みのないグラスだ。割れたら掌が大変なことになる。ブラウンはグラスを静かにテーブルの上に置いた。 


「ヘーゲルシュタイン少将から、共和国連邦軍に従軍する傭兵を全て正規兵にするとの通達があった。傭兵の家族には、プロシアの国籍を与えるとの特典付きだそうだ」


 驚きを隠せないのだろう、ダガーの目が大きく見開かれた。薄く開いた唇を開いたり閉じたりさせた後に、ようやく声を出した。


「傭兵にとっては、これ以上の名誉と恩恵はない。その話が本当ならば、フォーローン・ベルトは消滅しますよ」


「そうだな。確かに、最大級の特典だ。アウェイオン戦で大量に正規兵を失ってしまった連邦軍は、傭兵団の出した条件を丸呑みしたようだ。条件が通らなければ、親方衆は連邦軍の為に戦うつもりはないと言ってきたらしい」


「それだけ連邦軍の戦力が逼迫ひっぱくしているという話ですね」


「そういう事だが…」

 

 ブラウンは口の端を片方だけ引き上げて、皮肉めいた口調で付け足した。


「アウェイオン戦前ならともかく、今更プロシアの国籍を与えられたところで、どうなるというんだ?次の戦いで連邦軍が負けたら、プロシアは確実に軍事同盟軍の手に落ちる。敗戦国の国籍など、どれほどの価値があると思う?ロシアの極東は万年人不足だ。捕らえられた兵士は、シベリアに労働力として送られるのがオチだ。傭兵団はプロシアの狡猾な軍政治家に掌で踊らされているだけだよ」


「根無し草でいるよりは、遥かにマシです。自分が属する国があるというのは、素晴らしい事です」


「軍事同盟軍の防波堤となる人柱を強要する国家でもか?」


 怒りで語気が荒くなる。ダガーは小さく微笑むとブラウンに頷いた。


「それでも、何も持たない人間には、拠り所を与えられたことに救われるのです」


 彼の目が悲し気に見えるのは、決して自分の気のせいではない。ブラウンは確信した。


「ヴァリル、それは本音か?私は今のプロシア国家など、糞喰らえと思っているが?」


 ダガーは微かに眉尻を下げた。ブラウンの質問に窮する時に必ず見せる表情だ。


「俺の、プロシアで最下級の身分の人間は、不相応な言葉は、絶対口にしてはいけないのです。罰せられてしまうから。子供の頃から親方に散々教え込まれてきました。俺たちは棄民だから、銃の扱いより口の利き方に気を付けろって」


 ああ、そうだ。気付かなかった訳ではない。いつも彼が言葉を選んで自分に返すのを。


「そうか。私は随分と驕ったことを口にしたのだな。許してくれ」


(私には本音を言っても構わないんだぞ)


 思わず口を突いて出そうになる言葉を胸に仕舞い込んで、ブラウンは目を伏せて首を振る部下の男の顔を伺った。

 唯一表情を表す鳶色の瞳が下を向いてしまったせいで、ダガーの感情は読み取れない。

 ウィーン出身の富裕層は上級市民で貴族の次に身分が高い。

 その身であっても、プロシアの平民であることには変わりないブラウンが、己自身、貴族軍人との口の利き方にどれだけ腐心しているかを顧みれば、ダガーが、上官の自分に対する受け答えは至極真っ当なものになる。

 フォーローン・ベルト出身の傭兵が共和国連邦軍の正規兵になっても、特例中の特例で一等軍曹にまで出世したダガーであっても、その身体的身分はヨーロッパの国々の外に置かれている。

 チームαの隊長という重要な任務に就いているにも拘らず、万が一の時にはプロシアからは何の保証も受けられない。

 貴族ではなくても、生まれながらにして与えられたものが数多くあるブラウンと、ほとんど何も持たないでこの世に生を受け、放り出されたダガーとの意識のかい離に、今更ながら衝撃を受けて頭を殴られた思いがした。


(ならばあの男、ケビン・ウォーカー、アメリカ副大統領は、今、何を思うのだろう)

 

 有り余る富と広大な国土と、世界を屈服させる権力をエンド・ウォーで一瞬にして失い、東ヨーロッパの険しい山脈の奥深くに身を置くしかない元超大国の指導者の末裔は。


「ファン・アシュケナジという男の行方だが」


 その名を聞くと同時にダガーの顎が小さく跳ね上がった。瞳が上を向き、鋭い視線がブラウンに注がれる。


「ヘーゲルシュタイン少将にはウォーカーの一言一句を漏らさずに伝えてあるのだが、残念ながら何の音沙汰もない。連邦軍のお偉方がアシュケナジを本気で探しているのかどうかも、分からない」


「ウォーカーが持ち掛けた取引を、軍の上層部は偽りと判断したのでしょうか?」


「どうだろう。男一人見つけることで、アメリカ軍はロシアと決別すると、ウォーカー、アメリカ副大統領が断言したのだから、上層部だって本気にしない筈がない。だがな、アシュケナジを見つけ出したとしても拘束は不可能なんだ」


「捕まえることが出来ない?何故ですか?」


 訝し気に眉を顰めるダガーに、ブラウンは重い口調で答えた。


「ヘーゲルシュタイン少将から直接聞いた話だ。最重要秘密事項だそうだが、君には伝えても構わないだろう」


「しかし…それは重大な規約違反になるのでは?」


「構わない。ヤガタ基地司令官の私がそうすべきと判断したのだから」

 

 ブラウンはあからさまに困惑しているダガーを面白そうに眺めながら言った。


「アシュケナジは、ガグル社の筆頭だ。現在のヨーロッパ共同体に君臨する最高権力者といっても過言ではない。そんな男に手を出せる者など、共和国連邦にいると思うか?」


「そんな」


 ダガーは言葉を失い、ブラウンの顔に視線を泳がせた。目の前の上官の態度は平常と変わらないが、沈んだ鉄色の瞳が事の深刻さを語っている。


「ウォーカーは、連邦軍がアシュケナジを拘束出来ないと承知の上で、中佐をウィーンの小さな宿にわざわざ呼び出したのですか?彼が我々と接触した意図が分かりません」


「君も聞いていただろう。ウォーカーは、私をメッセンジャーだと言った。ヘーゲルシュタイン少将も、ただの駒に過ぎないと。それが本当なら、私の役目はとっくに終わっている。しかし、少しばかり気になることがある。ウォーカーがアシュケナジを通称ゼウスと言った点だ」


 ブラウンは遠くの景色を眺めるような表情をしてっから、ゆっくりと瞬きした。


「八つの歳になるかならないかという幼い頃だ。私の住む町は裕福な商人が多かった。ウィーンの表通りで大きな店を構える彼らは、有り余る財力を見せつける為に季節の変わり目に派手な催し物を開いた。お祭りだよ。子供の頃は騒がしい場所が苦手でね、静かな場所で、一人本を読んでいる時間が何よりの至福だった。今の私からは想像もできないだろうが」


「そんなことありません。私にもすぐに想像できますよ」


 そう言ってダガーは微笑んだ。本を読んでいるブラウンの姿が自分の視野に入るとき、その表情は、作戦立案時とはまるで別人のように和やかなのを思い出したからだ。


「そうか?まいったな、一体、どんな顔をしているのやら…」


 ブラウンは驚いたように目を見開き、それから苦笑して頭を掻いた。一瞬、眉間の深い縦皺が消え、軍人のいかつい顔が驚くほど柔和になった。が、すぐに優しい表情は消え、いつもの険しさが戻ってくる。


「話を進めよう。五月に開催される花祭りの頃だった。文字通り、街が色とりどりの花で埋め尽くされる。朝から夕方まで表通りが歩行者専用になる通りは、地方からも大勢の観光客がやって来てそれはにぎやかだ。特に子供達はポーランド産のはちみつ菓子が安価で手に入ると大はしゃぎして…いや、すまん。ダガー、これは全くの無駄な話だ。祭りの詳細など必要なかった」


「構いません。続けて下さい」


 祭りを一度も見たことのないダガーには、ブラウンが謝る意味が分からない。


「とにかく、私は祭りの喧騒が苦手だった。だから、母とエリカが祭りに行くと言った時、私は、留守番をすると言い張った。母も私が人で溢れた場所が嫌いだということは知っていた。だから、エリカだけを連れて祭りに出掛けた。

 私は庭で一人で遊んでいたんだが、ひょんなことから、隣の家に滞在する男と話しをすることがあった。その時、男がゼウスと名乗ったのを、今頃になって思い出した。三十年も昔のことだ」


「神の名を騙る人間がこの国にいるとも思えません。だとすると、その男は…」


「そうだ。偶然の可能性もあるが、彼がアシュケナジかも知れない」 


「偶然にしては話が出来過ぎているようですね」


「私もそう思う。ガグル社の創設者(アシュケナジ)を拘束せよなどという不可能な条件を出してまで、私にアシュケナジを知らしめたかった何かがあるのだろうか。もしそうだったとしても、私にはウォーカーの意図は全く読めないが」

 

 ブラウンは手に持ったグラスをゆっくりと回した。

 グラスに残ったブランデーが緩やかに波打つ。

 琥珀色の液体を見つめるブラウンの脳裏に遠い記憶が甦った。



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