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青の戦域    作者: 綿乃木なお
第二章  絶望のインターバル
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恐怖の対人格闘戦・2


「ロウチ伍長、後は頼む」


 ダガーはビルの返事を待たずに身体をさっと反転させると、ビルとケイから離れた。出口に向かって足早に歩いて行く。


「あー、はい。了解しました」


 練習場から出ていこうとするダガーの耳には届かない返事をしてから、ビルはケイに顔を向けた。

 ケイは青い顔でダガーを見ていた。その後ろ姿を写す瞳は虚ろだ。今の格闘戦でダガーの殺気に当てられてしまったようだ。

 戦闘中、ダガーの気迫に押されて後退する敵兵を幾度となく見て来た。ケイには一刻でも早く一人前の生体スーツパイロットに育って欲しいが、新兵の少年にあんな危険な技を掛けるのは逆効果だ。


「軍曹が稽古を付けてくれるのは、とっても珍しいんだぞ。お前、ラッキーだったな」


 慰めるつもりで言ってから、ビルはケイの肩を後ろから軽く叩いた。ケイは大袈裟なくらいに肩をびくりと上下させた。


「防御反応は今までになく早かったぞ。特訓の成果が出ているな」


「俺、一瞬、軍曹に殺されると思いました」


 ケイはまだ荒い息が収まらないまま、自分の首元にそっと手を押し当てている。


「ははっ、大袈裟だな」


 ケイの言葉に少なからず動揺が走る。ビルは悟られまいと笑い声で誤魔化した。


「軍曹はいつでも真剣だからな。これでお前も分かっただろ?あの人が隊長だから、最前線で斬り込み部隊をやっている俺達が今まで生き残れてこられたってことをさ」


 そうだ。

 ダガー程、戦地で冷静で慎重な下士官はいない。

 それでいて怯むことを知らず、勇猛果敢に先陣を切る。彼の雄々しい姿に奮起されたからこそ、どんなに過酷な状況でも後に続く兵士がいる。

 だが、さっきの対人格闘練習で、ケイの喉元に突き付けたダガーの手を思わず掴んだのは、他ならぬこの自分だ。何故か?


(凄まじい殺気を感じた。軍曹がケイの喉を突いて殺してしまうんじゃないかってくらいの…)


 事実、あと一センチ、ダガーの指がケイの喉に食い込んでいたら。


(ケイは確実に喉を潰されていた)


 あれほどの苛烈な感情を向けられた当の本人が今、ビルの隣で青白い顔をして震える手で喉を撫でている。余程苦しかったのだろう、インナースーツのファスナーを鎖骨まで下ろしてケイは荒い息を吐いていた。指の隙間から、薄赤く変色した皮膚が見える。


(軍曹は、ケイを通してアシュルの亡霊を見てしまうんだろうか)


 アシュルを殺したフェンリル。パイロットを狂気に陥れる生体スーツは無用の長物と化し、格納庫の隅に放置され、誰からも日の目を見ることはないと思われていた。

 ケイが現れるまでは。

 今のところ、ケイが搭乗しても、フェンリルは牙を剥くことなく大人しく操縦されている。

 体幹訓練が効いているのか、ケイとフェンリルの同期時間も少しずつ延びてきている。

 あの気狂い狼の心変わりに、ダガーが一番驚き困惑しているに違いない。

 それが原因で、一年前に起きた事故の悪夢が今また形を成してダガーの前に現れたとしたら。

 フェンリルへの怒りが、アシュルを失った悲しみが、再びダガーを(さいな)むとしたら。

 

(考え過ぎだろうか…)


「ビル、あなたがコストナーに稽古を付けないんだったら、私がやるわよ」 


 思案顔で突っ立ったまま動かないビルの脇からハナが顔を出した。


「あれ?サトー上等兵。ジャックとの対人格闘戦は今日はなしですか?」


「彼は新型砲弾の試験とかに駆り出されて、今日の格闘演習は休みなの」


 ハナはつまらなそうに口をへの字に曲げた。

 ハナがケイの首根っこを後ろからぐいと掴んで無慈悲に引っ張った。さっきの格闘練習でダガーに指で突かれた喉元がインナースーツに擦れて、ケイは悲鳴を上げた。


「痛いんですってばっ。サトー上等兵!もうっ、何でいつもそんなに乱暴なんですかっ!」


 手荒に扱われるのに我慢が出来ずに怒鳴り声を上げてしまってから、ケイは、はっとしてハナを見た。黒い瞳が驚いたように大きく見開かれ、ケイの顔を凝視している。


「ふうん?口答えするようになったんだ。偉くなったもんね。コストナー新兵」


 ハナはにやりと笑い、腕を捻じってケイの身体を自分の前に向かせると、首から手を離した。人差し指と中指を揃えて、とんと、ケイの胸を突く。二本の指とは思えない程の強い力に、ケイの身体がよろけてハナから離れた。


「コストナー新兵、あなたがフェンリルに乗れるからって、特別扱いはしないわよ。生意気な口をきく前に、戦闘能力を上げなくちゃね」


 ハナが口の両端を少しだけ持ち上げた。ケイは息を吐くと、格闘戦のポーズを取った。実戦が近いと軍曹は言っていた。青の戦域で、再び戦争が再開されるのだ。セルリアンブルー、天国に近い色が頭上に広がる、あの乾いた大地で。


「はっ!」


 掛け声を発して、ハナが身体に回転を掛けて鋭い蹴りを繰り出す。

 先手を食らい、後退しつつも、ケイはハナの攻撃を手技で受け止め流した。攻撃を躱されて自分の身体の脇をすり抜けるように着地するハナに向かって、今度はケイが素早く脚で攻撃した。両膝を床に着いて屈んだ状態のハナが、右の二の腕でケイの攻撃を防御する。


(先を読め)


 ダガーの言葉がケイの脳裏に甦った。

 ハナはそのまま身体ごと腕を跳ね上げて、自分の攻撃を崩そうとするだろう。次の蹴りを繰り出そうと、ケイは膝を折り曲げてハナの腕から足を浮かせた。

 それが一瞬の隙になった。

 ケイの持ち上げた片足の空間を縫って、ハナはケイの後方に身を翻した。慌てて後ろを振り向くと、目前にハナの顔があった。

 しまったと思った瞬間、ケイの顎はハナの手に掴まれていた。そのまま床に全身を叩きつけられる。インナースーツを装着していても、背中と後頭部を強かに打ち付けられて、かなりの衝撃が襲った。背中が痺れ、頭がぼんやりとして意識が遠のく。


「最初の一撃はまあまあだったけど、その次の攻撃の読みは甘かったわね。そんなんじゃ、いつまでも痛い目に合うわよ」


「うぁ…。は、い」


 床に倒されて天井を眺めるのは、これで二度目だ。上からケイを見下ろすハナの顔が、二重に見える。


「いい?これが実戦だったら、あなたは死んでいるのよ、コストナー。ドラゴンを倒したのはあなたの実力じゃない。フェンリルのパワーよ。こんなド素人の格闘術じゃ、いくらフェンリルだって、次の戦闘では敵への攻撃はおろか、あなたの身も守り切れない」


 痛みではなく、悔しさで目に涙が滲む。ハナの姿が涙で揺れて、輪郭が無くなる。さっきのダガー軍曹の表情がケイの脳裏に浮かんだ。


(俺は、誰にも失望されたくないんだ。)


 痛みで悲鳴を上げている背中を床から引き剥がして、ケイは肩で息をしながら起き上がった。

 唸り声と共に拳を握り締め、ハナに打撃を繰り出す。それをハナに軽くいなされて、ケイの身体は床に転がった。

 起き上がろうとしたところを足で腹を蹴飛ばされ、激痛から思わず丸めた背中に容赦なく蹴りを食らった。

 ケイは呻き声を上げながら、まるで車に轢かれたカエルの如く無様な格好で四肢を伸ばし、床に這いつくばった。

 ここ数日、つきっきりでケイの対戦相手をしてくれたビルが、かなり手加減を加えていたのだと今更ながら痛感した。


(そうだ。俺は、どこかで、ダガー隊の能力を甘く見ていた。サトー上等兵の言う通り、フェンリルのパワーを自分のものだと勘違いしたからだ。そんな…そんな分かり切ったこと、床に叩きつけられてから思い出すなんて…)


 なんてバカなんだ。

 激痛よりも羞恥でケイの身体が震えた。


「遅い!」


 ハナが怖い顔でケイを睨む。瞳の奥が、ダガーと同じ冷えた色をしている。

 その瞳の色の意味は、幼い頃からよく知っている。

 クリスやハナ、ダガーのように卓越した人間には決して向けられることのない感情を映した、その色を。


(見ていろ。俺は、俺は!)


 震える身体を床から引き剥がして、ケイはハナに突進して行った。

 


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