悪夢・2
「うわっ」
跳ねるように上体を起こせば、さっき、疲労困憊して崩れるように横たわったベッドの上だ。
ぐっしょりと汗をかいた肌がパジャマにぺったりと張り付いていて気持ち悪い。
「コストナー!うるっさいんだよ。睡眠妨害すんな」
怒った声と共に小さな明かりが灯った。
ダンがいつもの怒った顔をして、二段ベッドの上から上半身を逆さまに突き出してケイを見下ろしている。ほっとして全身の力が抜ける。
「なんだ、ダンか。良かった」
「お前なぁーっ!人に向かってなんだはないだろ、なんだは!」
「ああ、悪い。また起こしちゃったみたいだね」
ダンのこめかみに浮かぶ青筋をぼんやりと眺めながらケイは謝った。素直に謝るケイにダンが少し心配そうに顔を顰めた。ベッドの階段に足を掛けて音を立てずに降りて来る。
「お前さ、また悪夢を見て叫んでいたんだろ?ドラゴンとの戦いでの後遺症が取れていないんじゃないのか?ボリス大尉に診察して貰えよ」
「うん。そうだね」
ケイは深く息を吐き出してから、ベッドに腰かけて額の油汗を手の甲で拭った。
「この間、夢を見るのは、生体スーツを装着した時にスーツの人工脳と同期するからって、その副反応だって、ボリス大尉から詳しい説明は受けたんだけど」
「俺も時々ガルム2の夢は見るけどさ。だけど怖い夢なんか見ないし、お前みたいに毎回夜中に叫ぶのは、身体のどこかに具合の悪いところがあるからかも知れない。そんなんじゃ、演習で消耗した体力が回復しないだろう?」
ケイは黙って頷いた。ダンはベッドの桟に両手を引っ掛けて、ケイを覗き込むように見下ろしている。
「あのさ」
「あぁ?」
「ダンは、ガルム2のどんな夢を見るの?」
「えっ!あ、ああ、そうだな…」
ダンは少し困った顔をしてケイを見た。少し間を置いてから、決心したように話し出す。
「ガルム2は、元が警察犬だからな。警官に連れられて、いつも犯罪現場の道端とか遺留品に鼻を擦り付けて臭いを嗅いでいる。職務を全うしている夢だ」
「へえ。じゃあ、それって、ダンが…」
ダンの話を聞いてケイの頬が見る見るうちに緩んだ。
口の端が持ち上がるのを必死で抑える。それも虚しく顎が小刻みに震えてしまう。ケイの様子に気が付いたダンは目くじらを立てて怒り出した。
「あーっ、くそっ、やっぱり笑いやがった!そうだよ!!夢では俺がガルム2だからな。道端に鼻をくっつけて嗅ぎまわってんのは俺だよ!だから話すの嫌だったんだ」
ダンが顔を赤くしてケイの頭と肩をぽかぽかと叩く。
「笑ってごめん。ガルム2は立派な警察犬だったんだね。でも、想像すると」
「もう、勘弁してくれ」
口を押さえて肩を震わせるケイに、げんなりとした表情で訴える。
「ありがとう。少し気分が良くなったよ」
目の端に浮かんだ涙をぬぐいながらケイはダンを見た。ダンの怒った顔が再び心配そうに歪んだ。
「俺の夢なんかどうでもいいんだよ。問題はお前のだ」
「……」
「フェンリルの夢だ。あいつは野生の狼だ。大方の想像はつく」
「獲物の後ろ脚を折り、その柔らかな腹に牙を立てて、湯気の立った臓物を引きずり出す」
想像してしまったのだろう。ケイの口から出てきた言葉に、うぐっと、ダンが喉を鳴らす。夜の闇の中で顔が青ざめるのが分かる。
「一回だけ見たかな、狩りの夢。大きな鹿を倒していた。群れの仲間がその肉に嬉しそうにかぶりついていたよ。子供の狼も」
恐ろしさなど微塵も感じなかった。
口いっぱいに広がる熱い血潮の生臭さも気持ち悪いと思わなかった。あるのは獲物を倒した高揚と、家族に糧を与えられた嬉しさ。それと…。
己の全生命を賭けて野生として生きる、完璧な自由。
「夢でフェンリルと完全に同期していたせいかな、獲物を倒してその血を浴びても、怖いとは感じなかった。それに、夢の中のフェンリルは、広い草原を走っているのが殆んどだし」
フェンリルが人間に掴まって檻に入れられてから死ぬまで見続けた夢だ。
「じゃあ、何で悲鳴なんか上げるんだよ」
「よく覚えていないんだけど、手が」
「手?」
「白くて細い手が暗闇から伸びてきて、俺を掴もうとするんだ。指と爪が、その、すごく長くて、鋭く尖っていて。何て、言いうか、その手が、人間のものじゃない」
「人間のものじゃない?」
「うん、そう」
ケイはダンに頷いた。
「指に恐ろしい鉤爪が生えているんだよ。それも、触られるとすごく冷たい。まるで幽霊に触られたみたいだ。飛び起きるのは、その手が、指が、夢に出て来る時だけだ」
「そ、そりゃ、怖い夢だな」
ケイの悪夢の内容を聞いて、ダンはブルッと肩を震わすと、暗闇を落ち着かなく見渡した。
「とにかく、医務室に行って診察して貰え。夜中にお前の悲鳴で叩き起こされている俺の身にもなってみろよ。寝不足じゃ停戦解除になった時に満足に戦えなくなるじゃないか」
「そうだね。本当にごめん。明日、ボリス大尉に診察して貰う」
「必ず、そうしろよ」
念を押して、ダンは二段ベッドの上に戻って行った。
ケイも自分の寝台の上に寝転がる。ダガー隊に組み込まれたお陰で、新兵の自分がすし詰めの四人部屋ではなく、二人部屋で休息を取ることが出来るようになった。
と言っても、大した空間はないが。それでもベッドの下や足元に私物を置かなくて済むのは有り難い。
(夢が怖くて叫ぶなんて…)
ケイは苛立たし気に寝返りを打った。意識の底に閉じ込めた死の恐怖が眠りと共に解放されてしまうのか。
(そういえば、夢にクリスが出てきたな)
初めての事だった。クリスは穏やかで優しい笑顔をケイに向けていた。子供の頃の懐かしい、とても懐かしい思い出。
(クリス。多分、俺には、勇気なんかないんだよ。だから連日連夜、俺に悪夢が訪れるんだ)
瞼を閉じると、目尻から涙が溢れて頬を伝った。
熱い涙の通った皮膚がひりひりしても、拭うことなくそのままにする。顔から伝って落ちた涙の数滴が、夜具を微かに濡らした。
シーツに作った涙の水玉模様が乾く頃、ケイは規則正しい寝息を立てていた。




