悪夢・1
疲れ切った身体を寝具に横たえてから意識を手放すと、フェンリルが軽い足音を立てて近づいて来た。
彼の大きな背中に跨り身体を伏せて自分の身を預ける。大狼の背中から吸い込まれるように己の意識がフェンリルと同期した。狼の体力が全身に漲ると、慣れ親しんだ暗い森の中を四本の脚で走り出す。
長い時間、獣道を駆けていると、森の中にぽっかりと開いた空間が現れた。
その真ん中にケイの育った養護院が建っていて、狭い庭の片隅で一匹のモンシロチョウが赤い花の蜜を吸っている。
誰かが身を屈めて小さな白い蝶を見つめている。
後ろの二本足で立ち上がると、ケイは人間に戻って歩き出した。
「ほら、ケイ。見てごらん」
蝶を指差して、懐かしい顔がケイに優しく笑い掛ける。
「クリス」
ケイはクリスの隣にしゃがみ込んでモンシロチョウを見つめた。そっとクリスに視線を戻すと、彼の顔面は色とりどりの蝶で埋め尽くされている。
「クリス?」
思わず叫ぶと、たくさんの蝶が目の前で一斉に羽ばたき出した。
白、青、黒に緑。それから橙。最後に黄色。
眩暈を起こすほどの色が乱反射して四方八方にまき散らされる。あまりの美しさに瞬きもせずにいると、クリスの身体は全て蝶になって飛び去って行った。
後に残るのは空っぽになった漆黒の闇である。前後左右、頭の上も足の下も黒く塗り潰された空間に、ケイは一人で立っていた。
「どこだ、クリス!!」
自分の声だけが黒い空間に響く。ぼんやりと白く浮かぶ細い手が、突然ケイの目の前に浮かび、細長い五本の指が自分に突き出される。闇の恐怖の中で、ケイは縋るようにして優し気に招くその手を掴んだ。
掴んだ途端に、その白くて美しい指の皮膚が分厚い灰色の鱗で覆われる。
指先の淡い桜色をした小さな先端がすっと伸びた。
伸びた爪が見る間に黒く鋭い鉤爪に変わり、力を込めてケイの手を握り潰し始めた。
「わあぁっ!」
必死で振り解こうとしても、がっちりと掴まれた手は離れない。闇から黄金色に光った二つの瞳が浮かび上がって、ケイの姿を捕らえる。
「お前は、誰、だ?」
しゃがれた声が、黒闇に響き渡った。
「クリス!フェンリル!」
悲鳴がケイの喉から迸る。その瞬間、ものすごい唸り声と共に大きな口が飛び出してきて、ケイの脇を勢いよくすり抜けた。
大きく裂けた真っ赤な口にずらりと並ぶ鋭い白牙が、ケイを掴んだ鱗の手首にがぶりと噛みつく。
ぎゃあ、と、人間の声には程遠い獣のような叫び声が上がり、ケイの手を離した。




