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青の戦域    作者: 綿乃木なお
第二章  絶望のインターバル
52/303

荒れる議会


 どうしたらいい?

 頭の中で凝り返される言葉はこれだけだ。

 どうすればいい?

 両手で髪をかき毟ったところで、何の妙案も浮かんでこない。

 周りでおろおろしてるだけの役立たずの人間は全て執務室から追い払った。

 さっきまでの喧騒が嘘のようだ。気分を落ち着かせようとして広い部屋の中を歩き回るが、思考はちぎれた雲のようにばらばらだ。

 軍事同盟軍との会合の前までは当たり前のように座っていた首相専用の椅子と机を恨めしげに眺めてから、ハインラインは側近が座る背凭れの付いた椅子の側面に置いてあるソファに乱暴に腰を下ろした。

 高価なソファが音も立てずにハインラインの腰と背中を柔らかく包み込む。

 静まり返った執務室の空気が身体に重く纏わり付く。ハインラインは上半身を屈めて両肘を自分の膝に乗せて俯いたまま、動かなくなった。


「やはり、議会はパニックに陥りましたね」


 執務室に声が響いた。低音でよく通る男のそれは、歌が上手ならばジャズのボーカルでもやらせたいくらいの美声だ。

 ベンハルト・ビューラー。ハインラインの首席補佐官を務める男。

 彼から話を始めさせようと、ハインラインは己の口を閉じていた。ビューラーもそれは承知の上でだろう、率直な言葉で口火を切った。


「覚悟はしていたんですけどね」


 ハインラインは引き攣れた笑みを浮かべて、断続的に吸い込んだ息を深く吐き出した。

 議会に緊急の招集を掛け、緊迫した議員の前で、ハインラインはウルバートンに言われた通りにロシアへのポーランド譲渡の議題を出した。

 その時の議員全員が自分に向けた表情を一生忘れないだろう。

 その場にいる全員の口から、怒号と恐怖の悲鳴が飛び交い、最後はハインラインへの非難の大合唱となった。

 国辱だと口々に野次を叫ぶ議員が続発した。

 静粛にと議長が叫ぶ声を無視して、ただ騒ぐばかりの貴族議員の隣席で、平民議員の顔が次第に白けた表情になっていく。

 狼狽えて大声で詰り倒す存在だけになった貴族議員と、その様子を傍観する平民議員の侮蔑に満ちた顔を、ハインラインは絶望的な気持ちで眺めた。

 思考停止となった議会が進行する筈もない。ウィーン会合の全容を知るノイフェルマンとその側近の将校達だけが、軍官僚の特別席で静かに成り行きを見ていた。

 しかしその目は、プロシアの首相を冷徹に見据えるだけで、ハインラインを擁護する行動は一切なかった。


「休戦の条件がポーランド移譲とは、誰も想像していなかったでしょうからね」


 俯いたまま喋るハインラインの声が足元の絨毯に吸収されていく。


「ポーランドはエンド・ウォー以後に、ヨーロッパに残された数少ない肥沃な土地です。しかもあそこは有力貴族の直轄領が多い」


「義父の一族、偉大なるハスプブルグ家も含めてね」


 ハインラインは項垂れたまま、皮肉を込めて呟いた。

 先日、悪鬼の形相で首相官邸のプライベートゾーンに怒鳴り込んで来たフリーダの父を思い出して、ハインラインは苦笑いした。

 エンド・ウォー以後、荒廃に任せたポーランドの土地を、ハプスブルグ家の末裔である義父の一族が入植し開墾した。

 農業生産が軌道に乗り、身分制度が復活した現在、中世ヨーロッパを支配した一族によるウィーン王政復興を本気で夢見ている痩せぎすの老人は、その足掛かりとなる土地を休戦協定の手土産にロシアに与えよと言い出した娘婿の首に、骨ばった両手を回して凄んだ。

 ロシアにポーランドを奪われるのなら、この場でお前を絞め殺してやると。

 ハインラインの首から手を離さない自分の父親と、その手を引き剥がそうとして揉み合う夫、それを慌てて止めに入る周囲の人間にただ怯えるばかりのフリーダは、幼い子供達を抱きしめたまま涙を流しながら震えていた。


「議会だけでなく、私の家庭も崩壊寸前ですよ」


「それは…お辛いですね」


 ビューラーはそっとハインラインを伺った。

 虚ろな青い瞳は、下を向いたまま動かない。その目のあまりの生気の無さに、眼窩から分厚い絨毯の上に、ぼたりと落ちそうに見えた。

 一国の首相の気高い雰囲気は消え、仕事も家庭もうまくいってないただの不幸な男が己の目の前に気力なく座っている。


「確かにポーランド州を全てロシアに渡すとなると、土地を所有している貴族だけでなく、プロシアの経済にとっても大打撃です」 


「敵から提示された休戦を受け入れた時点で、我が軍の旗色が良くないのは、どの議員だって察知しているでしょう。だが、我が共和国連邦軍が、アウェイオンで大敗戦したとは、彼らは夢にも思っていない。だから、何故そこまでロシアの、軍事同盟軍の恐ろしく理不尽な要求を呑まなければならないのか、誰にも理解出来ない」


「やはり、飛行兵器の登場がそのような由々しき事態を招いたのですね」


「そうです」

 

 ハインラインは俯いていた顔を半分だけ上向きにして、自分の横に座るビューラーに目を向けた。首相の座を用意された時、ハインラインは連邦大学の気鋭の国際政治学者ビューラーを独断で引き抜いた。

 人類文化学、金融経済学、心理学などのあらゆる学問を取り入れて自分の専門に生かす異色の政治学者だ。平民出身で、しかもラッダイトではないからと難色を示した貴族議員を無視して、首席補佐官の地位に付けた。

 それが賢い選択だったことを、今ほど痛感している時はない。

 慌てふためく他の官僚、政治家と違って、堂々とした体躯の壮年の男は、現状に顔色一つ変えない。それでも前代未聞の難題を突き付けられて、ビューラーの目が険しくなっていくのを、ハインラインは気を重くしながら見つめていた。


「連邦軍の兵士で、軍事同盟の新型飛行兵器の存在を知らない者はいないが、このプロシアでドラゴンを知っているのは、プロシア連邦議員の中ではあなたを含めて私の側近の僅かな人間だけです。あの飛行兵器は極秘機密扱いになっている。お目付け役の軍人どもに議会で喋るなと、強く口止めされていますからね」


「アウェイオンの前線に配置した共和国連邦軍のプロシア連隊が全滅したという事実は?」


「それも極秘だ。公表すれば、独立共和国連邦の国々が、特にプロシア国内が混乱する。戦域は砂漠化が進む土地だ。人が住んでいない限定域が主戦場だから、プロシア国民の目に届かないのが幸いしましたよ」


 すぐには、とハインラインは付け足した。戦域はプロシアの目と鼻の先だ。ヨーロッパ大陸から遠く離れた海の孤島で戦っているわけではない。アウェイオン敗戦の情報は、そのうち誰かの耳に入るだろう。


「議会に隠し事ばかりでは、八方塞がりですよ。軍は我々に何をやらせるつもりですか?」


「先に話した通り、休戦の条件にポーランド全州をロシアに譲渡する承認を得る緊急会議を開くことです。勿論、我が国の議会が、ウォシャウスキー将軍の意向を飲む訳がないのを承知で言っている」


「議会をわざと長引かせろと?」ビューラーは片眉を吊り上げて不快な表情を見せた。


「そうです。プロシア連邦議会でのポーランド分割協議を長引かせる。それで共和国連邦軍が体勢を立て直す時間稼ぎをしろと。共和国連邦軍ウルバートン総司令本部参謀総長からの直接命令ですよ。逆らうことなんか出来ない」


「あの狡猾なウォシャウスキーにそんな稚拙な戦法が通用すると、連邦軍は本気で思っているのですかね?」


(イギリスの狸参謀め)

 ビューラーは呆れ返った。あの老獪な男は、プロシアをイギリスの防波堤くらいにしか思っていない。ハインラインを見ると、若い首相は絶望的な表情で力なく項垂れている。彼も十分判っているのだろう。

 ウィーンから帰って来たハインラインは見る影もなく憔悴していた。

 そして今日、一日目の緊急議会を終えたハインラインの風貌はもっと酷い。憔悴した青白い顔は黒ずみ、目の淵は紫色に縁どられ、額に脂汗を浮かべている。

 飾りで据えられた地位だと、ハインラインは自分でも痛いほど理解している筈だ。

 それが首相になった途端に大きな国難に遭い、連邦軍の失策の隠れ蓑としてスケープゴートにされてしまった。


(優秀だが、政治家としての経験が圧倒的に不足している)


 だからこそ、軍と貴族の目に叶って、ハインラインは首相に抜擢されたのだ。

 だが、この非常時にはあまりにも心もとない指導者となってしまった。

 いつもと変わらない日常が続いていれば、家柄も見目も申し分ない優雅な首相として、高い支持率もあったろうに。

 時代の波の非情さに、ビューラーは同情するしかなかった。


「豪華な餌を鼻先にぶら下げれば、少しの間はウォシャウスキーも大人しくしているだろうとの、予測を立てての事ですよ」

 

 そう言って、ハインラインは力なく笑った。


「連邦軍の思惑通りにいきますかね?あの気の短いロシア人が、どれだけ待つというのか」


「さあ」

 

 ハインラインは忌々しそうに肩を竦めた。

 

「ロシアの熊のみぞ知る、かな?」


「ノイフェルマン副参謀長はどうしていたのですか?」


「彼は、軍事同盟との会合中もその後の議会でも、何の発言もしなかった。他の高級将校同様、黙ってウォシャウスキーと私のやり取りを見ていただけです」


「…そうですか」


 ハインリヒ・フォン・ノイフェルマン。

 今回のアウェイオン大敗退で、連邦軍内部で幅を利かせていたイギリス軍将校が責任を取らされて軒並み失脚し、連邦軍内部で急速に力を付け出したプロシア出身の連邦軍副参謀長。

 ビューラーより十ほど上の年齢は、若くはないが年寄りでもない。

 オランダに近いザクセン州の公爵家出身で、物腰は優雅だが、性格は冷徹だと伝え聞いている。爵位が高いだけに、貴族が大部分を占めるプロシアの高級将校からの信任も厚い。

 老齢に差し掛かったウルバートンに代わって、そろそろ共和国連邦軍の頂点に立ってもいい頃だ。

 その方がプロシアの国益にも繋がる筈、なのだが。


「ノイフェルマンは、敢えて黙したのではないですか?プロシアの為になると考えて」

 

 気休めの言葉を口にしたものの、そうではない事をビューラーが一番よく知っていた。

 確かにノイフェルマンはプロシア出身だが、彼は共和国連邦軍の副参謀長だ。

 ロシアとアメリカの軍事同盟軍と三十年も戦争を続けてきた結果、ヨーロッパの軍事共同体は強大な組織となり、その上層部はどの国の頭首よりも権力を持ってしまった。

 その地位にいる人間が、出身地という理由だけでプロシアを優先させるかどうか。


(オークランドの、ノイフェルマンの本心がどこにあるのか)


 それが分からない。分からないまま、ハインラインに無責任な助言は出来ない。

 しかし、様子を見ようにも、あまり時間はない。


「とにかく、連邦議会をのらりくらりとやり過ごすしかない。連邦軍の最高権威者であるウルバートン参謀総長の仰せのままにね」


 自嘲気味に喋るハインラインが、虚ろな目をビューラーに向けた。


「今は、です。首相。軍トップの考えが明らかになれば、我々にも行く道はある」

 

 道は開ける。だがそれが、何処に繋がる道なのか、この時のビューラーには知る由もなかった。



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