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青の戦域    作者: 綿乃木なお
第二章  絶望のインターバル
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眠れる美女は目覚めない


「素晴らしい。シューティングの成績がぐんぐん上がっている」


 男はホログラフィ画面のグラフを見ながら感嘆の声を上げた。


「あの女が目覚めてから、たった三か月で脳内アームを自在に動かして、実物の機関銃とドローン戦闘機の攻撃をマスターするとは!君の多大なる功績があっての事だな、大佐」


 男は皮肉めいた笑みを口の端に浮かべながら、マクドナルドを見た。


 シン・ワンリン。

 仮想現実の脳内アームを現実世界にリンクさせて兵器を動かす実験を取り仕切る責任者であり、キャサリンの主治医だ。

 主治医といってもキャサリンの脳と身体の状態をデータ解析するだけが仕事の医学者だ。この男にとって、キャサリンは実験材料でしかない。


「キャサリンが君と結婚すると言い出した時は、この女の脳は、一体どうなってしまったんだと、正直、慌てたがね。まあ、君の温情ある対処には感謝している。君のイエスの一言で、キャサリンは俄然やる気を出したからな。愛の力とは大したものだ」


「脳内アームの被検体はキャサリンしか残っていないのですから、大切に扱わないと」


 間違ったことは言っていない。マクドナルドは自分自身に言い聞かせた。

 ガグル社の脳研究の第一人者と目されるワンリンの前で、自分の感情を曝け出す気などなかった。人間の脳をただの研究対象としか見ない男だ。

 だから、本意ではない冷たい言葉を敢えて使った。


「とにかく、だ。キャサリン・トレイシーの冷凍保存前の記憶を全て消去して、戦禍で手足を失い記憶喪失になった十八歳の少女として蘇生させた試みは大成功だったよ」


 ワンリンの指がパーソナルコンピュータのキーを叩く。一人の女性の顔と全身が3Dホログラムで映し出された。

 すらりとした肢体に栗色の長い髪。小さな顔の中に魅力的に配置された空色の大きな瞳と高い鼻梁の先に小さく上向いた鼻先、ふっくらとした少し厚めの唇が息を飲むほど美しい。

 美女の映像に何の感慨もない表情のワンリンが、次に映し出されたキャサリンの脳の立体画像に目を輝かせた。

 ワンリンがキーの一つを押す。立体画像の脳は一ミリにも満たない薄さにスライスされて、大型ディスプレイの画面にずらりと張り付けられた。


「キャサリン・トレイシーは我々と同じアメリカ国籍を持つ女性だ。職業は女優だった。彼女は二十一世紀半ばのゴシップ雑誌の一面を随分と賑わせていたらしいね。破天荒で、人気俳優や政界の重鎮と随分浮名を流していたようだ。

 何せ、エンド・ウォーの大災厄で、時の大統領は女房子供よりも愛人だったこの女を助けたくて、祖国を脱出する空母に乗せたという逸話の持ち主だからな。そんな女の脳が、今は君との結婚ごっこで満足している、いたいけな少女に大変身するとはね。やはり役者だっただけのことはある。彼女と一緒に訓練した海兵隊の狙撃兵が脳内アームを使い熟せなくて脱落していったのは、この驚異的な柔軟性に欠けていたからかも知れないな」


「彼女は、我が軍の兵器として立派に役目を果たそうとしていますよ」


 昔のことなど、どうでもいい。マクドナルドは胸の内で呟いた。百六十年も前の噂が真実かどうかなど、誰にとってもどうでもいい話だ。

 ワンリンに聞かされるまでもない。自分と同じ時代を生きていたキャサリンは、アメリカ人なら知らぬ者はいない有名な女優だった。

 彼女の私生活はさて置き、演技は一流だった。

 エンド・ウォーが起きなければ、類まれな美しさで人を魅了し、名女優としての道を歩んでいただろう。

 その華やかな人生に、海軍特殊部隊で訓練に明け暮れ、近隣国の治安維持の為に派遣され、危険な戦闘に駆り出されるマクドナルドのような兵士との間に接点など何もなかった。

 ただ一つ、キャサリン・トレイシーのファンだと告白したチームの一人に、皆が冷やかしの口笛を吹いて盛り上がった事を覗いては。


「おいおい、あんな奔放な女が趣味なのか」と。


 アメリカからヨーロッパに避難する戦艦を攻撃から守る為に身体が千切れるほどの重傷を負い、ガグル社によって冷凍保存され、エンド・ウォー以前の記憶と共に甦ったマクドナルドに、あのキャサリン・トレイシーが熱烈な求婚するなど誰が想像できただろうか。

 マクドナルドは呆然としながらもキャサリンの願いを受け入れたのだった。

 

(残酷にも程がある)

 

 泣き濡れた瞳のキャサリンを見ながら、マクドナルドは自分の運命を呪った。

 お互いの身体が兵器になって甦ったこの時代で出会うとは。

 そして恋に落ちるとは。

 ワンリンの手元にある立体映像を、彼女の本来の姿を、キャサリンに見せてあげたかった。

 自分の輝くような美貌を目にしたキャサリンは、驚喜の涙に咽ぶだろう。

 そして、彼女はここにいる全ての人間を恨むに違いない。

 今、この時を。

 愛してやまない夫のマクドナルドを含めて。

 自分の美しい手足が脳内アームを動かすために必要なく、むしろ邪魔になるからという理由で切除されたことを知ったら、確実に精神に支障を懐すだろう。

 そして。

 もしも、エンド・ウォー以前の記憶が甦ったとしたら。


「キャサリンから消された記憶は、二度と戻らないのですか?」


「戻らない」


 ワンリンは断言した。


「記憶が甦ったら、二人の人格がキャサリンに存在することになる。意識が混乱して脳内アームでドローンの操縦どころじゃなくなる。そんな失敗作を私が作ると思うかね?」


「しかし、万が一という事もあります」


「ありえないね」


 即座にワンリンは断言して、苛立たし気にマクドナルドを睨みつけた。


「キャサリンの過去の記憶に係わる脳細胞の一つ一つをマーキングして、シナプス受動体の神経伝達を阻害し、全て削除した。そこに真新しいニューロンを移植したんだ。

 彼女の今の人格はその後に発現した人格だ。だから、女優のキャサリン・トレイシーと今のミセス・マクドナルドは完全に別人だ。ドローン戦闘機の遠隔操作パイロットとして、何の支障もない。君の心配していることは何一つとして起きないよ、マクドナルド大佐」


「それを聞いて安心しました」


 それでいい。眠れる美女は、目覚めなくていい。

 




 永遠に。



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