アウェイオン ※
限定戦域への初陣で緊張するケイ。
同隊の古参兵の話にケイは驚きを隠せないが…。
私の想いが永遠となるように、この世界を全てあなたで満たしましょう。
道なき道を走る装甲輸送車の堅い座席で揺られ続けて腰の痛みに耐えられなくなって来た頃、ようやくアウェイオンに到着した。
生まれて初めて降り立った戦場は、長い年月幾多の戦禍にまみれ、焦土と化し、人間を、動物を、空を飛ぶ鳥すら寄せ付けない土地だった。
空はどこまでも青く、見渡す限り小さな雲一つ浮いていない。
かなりの期間、雨が降っていないのだろう。乾き切った茶褐色の土は少し風が吹いただけでも細かい粒子になって舞い上がり、汗ばんだ顔に張り付いてくる。
雲が遊ぶ大空の下で草木が生え、生き物が生命を謳歌する大地には恵みを施す太陽も、この地では全てを焼き尽くす悪魔となるのだ。
輸送車から降ろされて隊列を組んで前進し始めると、途端に体温が上がり、足場の悪さも手伝って、背中の装備が余計に重く感じた。
前線はまだ先だったが、歩兵連隊の体力の消耗を危惧したのか、それとも戦力の温存の為なのか、大小の岩が隆起している場所で上官から待機を命じられた。
容赦なく照り付ける太陽から少しでも逃れようと、兵士達は所々に隆起した岩の陰に我先にと身体を張り付かせていく。
砂を固めたような荒くざらついた岩肌の窪みに、少しばかりの日陰を見つけた。
その微かな涼に身を委ねたケイは、ふと視線を落とした足先に思わず目を奪われた。
いつ戦闘が始まるのだろう。
そう考えると全身の筋肉が緊張で固まり、自動小銃のグリップを握り締める掌に冷たい汗が噴き出す。
なのに。
それを見つけてから、ケイは、自分の足元から目を離せなくなっていた。
「おい、どうした」
後ろから防護ヘルメットを被った頭を小突かれて、ケイは、はっとして顔を上げた。
「気分でも悪いのか?この暑さだし、岩場だから風も通らないからな。熱中症にでもなったか?」
「あ、いえ、体調が悪い訳じゃなくて…」
ケイは慌てて兵士の顔に目を向けた。昨日配属された小隊の古参兵だ。ケイの少し後方に配置されていたのが、いつの間にか隣に陣取っている。
炎天下の暑さに耐えられなくなったようで、ヘルメットを斜めに被り、防弾チョッキは上半身から外して肩に掛けていた。戦闘服の前ボタンをズボンのベルトの位置までだらしなく外し、汗と砂埃で薄汚れたTシャツが剥き出しになっている。
歳は四十半ばくらい。額と目尻の両端の皺が目立ち始めた顔に疲労が浮かんでいる。
「何だ。心配して来てやって損したぜ」
ケイの返事に古参兵はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「まだ様子見で、こっちも敵さんも本格的にドンパチ始まっちゃいねえからな。お前みたいにぼんやり俯いてる新兵の小僧も、今のところは死ななくて済んでるって話だが」
古参兵は盛大に眉を顰めて、ケイの顔を睨み付けた。
「だったら、何でお前は、さっきから下ばっかりちらちら見ているんだ?気になって仕方がないじゃないか。こんな荒れ地に銭でも落ちてるってか?」
「いえ、あの、これ…」
ケイは慌てて足元を指さした。
「蝶です」
「蝶?」
ケイの指差す乾いた地面を呆れたように眺めてから、素早く視線をケイの顔に戻した古参兵の表情が見る見る険しくなった。
「はい。キアゲハって、アゲハチョウの種類で、羽が黄色の…ええっと」
殴られるかもしれない。
そう思ったが、喋るのを止められなかった。
乾燥した大地に広げた動かない翅が、あまりにも美しかったから。
「草木の生えていないこんな乾燥した場所で、どうやって生きていたのかと思って」
「もう死んでいるだろうが」
古参兵は吐き捨てるように言った。
「ぼんやり飛んでいて、こんな土漠に迷い込んじまって、あっという間に死んじまったんだろうよ。お前、ここを何処だと思っている?戦場だぞ?具合が悪くなったかと思って親切に様子を見にきてやれば、何だ、その弛み切った態度は。そんなんじゃ、お前もすぐにこの虫けらの二の舞になるぞ」
古参兵は忌々しげに地面に唾を吐き、キアゲハの死骸を踏みつけた。繊細な黒のラインで縁取られた黄色の翅は、ブーツの底で粉々になって、跡形もなく地面から消えた。
(ほらごらん、綺麗だろう)
花の蜜を吸う蝶をそっと指さして優しく微笑む懐かしい顔が、鮮明に脳裏に浮かんだ。ずうっと忘れていた顔だった。ずきんと、胸が痛んだ。殴られたほうがマシだと思った。
「まあ、でも、仕方がないな。お前もあの噂を聞いているから、そんなに府抜けていられるんだろう?」
ふんと鼻を鳴らして古参兵はケイを睨みつけた。
「噂、ですか?」
「そうだ。あんな噂を耳にすれば、誰だって緊張の糸が切れちまう」
困惑した表情のケイをまじまじと見た古参兵は、しまったという顔で舌打ちした。
「なんだ、小僧。お前、知らないのか?」
「はい。あの、えっと、何を?」
ケイは古参兵に頷きながら首を傾げた。
「ああ、そうか。お前は昨日配属されたばかりの新兵だから、まだ誰からも聞いていなかったんだな。あくまでも噂話ってことになっているが」
古参兵はケイに顔を近づけると、急にくだけた笑顔になった。さっき、ケイの緊張のなさを叱った人間とは別人のようだ。
「いいか、俺たちはアウェイオンまで進軍している。あと少しで敵の戦域領土の全てを制圧出来るんだ。いくらお前が尻に殻の付いたひよっこだって、その意味は分かっているよな?」
「え、あ、はい。分かります」
古参兵が何を言わんとしているのか、兵士になりたてのケイでも理解出来た。だが、それをここで、未だ戦場である場所で、口にしてはいけない気がした。
「何だぁ、その曖昧な答え方は。まあ、そんなことはどうでもいい。向こうを見てみろ」
古参兵が顎をしゃくる方向にケイは顔を向けた。
自分から数メートル離れた所に数台の装甲車や機関銃を据え付けた大型のジープが止まっている。敵の銃撃を回避する為の分厚い鋼鉄とコンクリートの合板にした防御壁の後ろに、一個分隊の兵士が待機していた。
こっちの小隊より人数は少ないのに、かなりの重装備だ。自分達のようなの使い回された中古の銃弾チョッキではなく、最新型の強化外骨格で全身を覆われている。防護ヘルメットも、一般兵士のものと随分と形が違う。
どの兵士も、四十キログラム近くある五十口径重機関銃をヒップポジション構えていた。前方を向いて持ち場で指示を待ち、臨戦態勢を取れる状態なのが分かる。
「ダガー部隊だ」
古参兵が、ひゅうっと、小さく口笛を鳴らした。
「毎度のことながら、すげえ恰好だな。奴らの背中と腹に巻き付いている給弾ベルトの重さを想像して見ろ。重装備過ぎて普通の兵士じゃ、まともに動けやしない。それで空気圧式の人工筋肉で出来たマッスルスーツを装着しているんだが、あれを着て戦場で駆け回れる兵士ってのは、あいつら、ダガー隊しかいないって話だ」
「あの隊が?」
緊張でケイの喉元が上下した。口が乾いて唾液は出なかったが、喉は大きな音を鳴らした。
「新米のお前だって聞いたことあるだろう?ヴァリル・ダガー一等軍曹率いる百戦錬磨の切込み部隊さ。俺と同じ傭兵出身だが、若いのに随分出世したってもんだ。俺なんか正規兵になってからこっち、二等兵のままだってぇのによ」
自虐気味に笑ってから、古参兵はダガー部隊をのんびりした顔で眺めた。
「いつもはもっと前線の方に配置される隊なんだがな。どうした訳か、今日は随分と後ろにいるんだよ。俺が思うに、この戦いには、あの部隊はもう必要ないってことなんだろう。そのくらい俺たちが有利だってことだ」
ダガー軍曹。訓練兵になった最初の時から、その名は随分耳にした。あそこにいる七人の兵士のうちの一人がそうなのか…。
「こんな後方の岩場に配置されているのに、まるで戦線の真っただ中にいるみたいですね」
半ば感嘆しながら、ケイはダガー部隊を眺めた。
「ああ。習慣になっているのさ。いつでも攻撃と防御が出来るように、体勢を崩さないって寸法だ。まあ、俺らみたいな凡人には、真似事すら出来んがな」
古参兵は首筋をがりがりと搔きながらケイに言った。
「だからな、俺たちは運が良い」
「はい?」
「特に新米、お前はな」
昨日戦死した兵士の補充に、新兵のケイが急遽充てられた。戦地の最前線に放り込まれなかっただけ、確かにラッキーだ。
「いいか、銃撃戦が始まったら、俺と一緒にあいつらの部隊の後ろに回れ」
素早く辺りを見回してから、古参兵はケイに耳打ちした。
「え?」
きょとんとしたケイの表情に、古参兵は付け足して言った。
「弾除けになってくれるからな。それも最強の弾除けだ」
「弾除けって…」
ますます困惑したケイは、引き攣った表情で古参兵の顔を見回した。埃まみれの疲れた顔が薄笑いを浮かべている。
「でも、そんなことしたら、敵前逃亡で罪に問われるんじゃないですか?」
「そこはばれないようにうまくやるのさ」
古参兵は小狡そうに唇の両端を吊り上げた。
「軍曹さんも、元同輩の馴染みでお目溢ししてくれるかも知れんしな。万が一罪に問われても、アウェイオンは勝ち戦だ。死刑にはならんさ。最悪、牢屋にぶち込まれるくらいで済むだろうよ」
「で、でも」
「でも、じゃ、ねえよ」
にやついた顔が厳しく引き締まってケイを睨み付けた。
「お前、何でこの地が青の戦域って呼ばれているか、知ってるか?」
「い、いえ。知りません」
「見ろよ、この空。いつだって雲一つない。すごく青いだろ?」
古参兵が節くれだった人差し指を、顔面と共に上に向けて突き上げる。
「…はい」
古参兵の表情に釣られるようにして、ケイも空を仰ぎ見た。視界は全て鮮やかな青で塗り潰された。
「この空の色、セルリアンブルーって言うらしい」
「セルリアンブルー、ですか?」
「そうだ。で、この色は、ラテン語で、天国っていう意味なんだってよ。ラテン語なんざ、俺は見たことも聞いたこともねぇんだけどな」
再び唾を地面に吐き捨てから、古参兵は薄暗い表情で笑みを浮かべた。
「いいか、小僧。この土地は限定戦域だ。ヨーロッパで一番人が死ぬ場所だ。死んだらすぐに神様の元に行けるように、俺たち兵隊は、頭の上に広がった天国の下で戦争しているんだとさ。誰が言ったか知らねえが、酷え話だろう?」
ケイは何か言おうと口を開けたが、言葉は出てこなかった。
そうだ、ここは戦場だ。
当たり前のように人が死ぬ場所だ。今更のように気付いて、頬が引き攣り、背筋が震えた。
「ところで小僧、お前、名前は何て言う?」
「コストナーです。ケイ・コストナー」
「コストナー、年はいくつだ?」
「十六です」
「十六か…」
古参兵が短い溜息をついた。
「昨日死んだスハルは二十歳になったばかりだった。あいつより四つも若い。正真正銘のガキってことか」
ケイの肩を掴んで、古参兵は細めた目で睨みつけながら小さく揺さぶった。
「いいか、コストナー。お前、そんな年でまだ死にたくないだろう。俺だってそうさ。ここまで何とか命を拾ってやってきた。いい加減、故郷に帰って、女房子供に会いたいんだ。俺のガキも、お前とそう変わらんくらいにでかくなっている筈だからな」
さっきよりも柔らかい表情で、古参兵はケイの顔を見渡した。
「お前だって親に会いたいだろう?だったら俺の言うことを聞け。俺たち、独立共和国連邦軍が勝つ。敵は、軍事同盟軍は、アウェイオンを落として降伏する。戦争は終わる。噂なんかじゃない。このくそ忌々しい“長い戦争”はやっと終わるんだ」