フェンリルの過去 ※
重い。息苦しい。
胸の上の嫌な圧迫感で目が覚めた。
仰向けのまま薄く目を開け様子を伺うと、ベッドで仰向けに寝ている自分の上半身に、何かが蹲るような格好で跨っている。
華奢な首から細い肩へと続く緩やかな曲線が儚げに動いた。子供のようだ。ケイの視線に気が付いたのか、それは、顎を突き出すように素早く小さな顔を上げて、大きな目でケイを睨みつけて叫んだ。
「お前は、誰だ?」
開いた口から異様に長い犬歯が白く光った。淡い茶色の虹彩を持つ瞳が、ケイの目に焦点を合わせると、円形から細長い楕円に変化した。
虹彩に緑と金色の光が混じり、人間のものとは思えない輝きを発している。
大きく開き切った手でケイの胸に指を食い込ませ、もう片方の細い腕を伸ばしてケイの顔に近づける。
かぎ爪の生える細い指先を蛇の鎌首の如くゆらりと動かして、甲高い声でもう一度叫んだ。
「お前は、誰だ?」
長い爪が、見開いたケイの目を眼窩から掻き出そうとするように、目前に迫って来た。
「うわぁっっ」
悲鳴を上げてベッドから飛び跳ねるように上半身を起こすと、点滴の袋を取り換えようとしてベッドの脇に立っているミニシャと目が合った。
ミニシャは薄く口を開けて、激しく瞬きしながらケイを見ている。
「ケイ、どうしたの?」
「い、いえ。何でもありません。夢を見ていたの、かな?」
ふうっと深く息を吐き出して、ケイは胸の動悸を抑えようとした。一体、どれだけ寝覚めの悪い夢を見たらこんな状態になるのか。自分でも呆れてしまうくらい、全身の筋肉が強張っていた。
「悪夢だったようだね。すごい汗だよ」
そう言って、ミニシャが眉を顰めた。ミニシャの言葉にケイは思わず掌で頬を擦った。掌が汗でずるりと滑る。全身に噴き出した冷たい汗を意識して、ケイは思わず身を竦ませた。
「夢を見ていた感覚だけは残ってます。内容は全く覚えていませんが」
ふと、顔面に突き出された鋭い突起物が脳裏に浮かんで消えた。多分、夢の名残りだ。ミニシャの言う通り、悪夢だったらしい。
「夢を見るのはね、生体スーツに搭乗した人間に必ず起きる副反応なんだ。生体スーツの人工脳と自分の脳を同期させるからね、かなりの疲労を伴う。だから、最初は短い時間から徐々に慣らしていくのだけど、君は生体スーツが初めてだった上に、しかもあのフェンリルに三十分以上、乗っていたから…」
はぁ、と深い溜息を吐いて、床に膝を付いたミニシャが、ケイの寝ているベッドの端に頭を顔から突っ伏した。
「ボリス少尉?」
「ごめん、ケイ。無理矢理フェンリルに乗せちゃって、本当に申し訳なかった。だけどね、」
ミニシャは、ベッドからずり上げるように顔を上に向けて、ケイを見た。
「君が乗ったフェンリルが、ドラゴンを地上に叩き落した。ヤガタ基地は、私たちは、生き残ることが出来た」
ベッドの枠に両手をついて上体を起こしながら立ち上がったミニシャは、ベッド脇に置いてある小さなスツールに腰かけた。
「ケイ、感謝する。本当にありがとう」
目の前に差し出されたミニシャの右手を、ケイはおずおずと握った。
「私の個人的な感情の話はここまでだ。ケイ・コストナー、君は駆け出しの新兵で、私は少尉だ」
ケイの手を離すと、ミニシャは、柔らかさの片鱗もない厳しい軍人の表情に戻った。
「ブラウン大尉、いや、中佐に昇進したと、さっき、連絡が入った。ブラウン中佐がヤガタに到着次第、君は、フェンリルの正式パイロットに任命されるだろう。兵士は、上官の命令に従わなければならない。その意味は、分かるよね?」
「はい」
ケイは頷いた。不意に、頭蓋骨が粉々になるような激痛を思い出し、無意識に額を指でなぞった。幾重にも包帯が巻かれているのに、今初めて気が付いた。
「それだけ明瞭な受け答えが出来るのだから、点滴の必要もなさそうだ。ベッドで寝ているのにも飽きただろう。すぐに兵服に着替えて、私の研究室に来てもらおうか」
ミニシャはスツールから立ち上がると、大股でドアに向かった。ドアノブに手を掛けながらケイに顔を向けた。
「狼型生命体起動スーツ、フェンリル。彼の成り立ちの詳細を、ケイ、是非、君に聞いてもらいたい」
「フェンリルは、ヨーロッパ大陸の最後の野生の狼だ。動物保護区の森林地帯に群れのリーダーとして生息していたのを、密猟者に捕らえられた」
ミニシャが研究室の机の上に写真を広げながら言った。
古い資料を転写した写真には、太い四肢を折り曲げるようにして壁の端に蹲る大狼の姿が映し出されていた。
カメラマンが急いで写した所為なのか、少し輪郭のぼやけた狼が太い柵の間から鋭い視線を投げつけている。
「この時代は、まあ、人間の自然破壊が原因なんだけど、野生動物の大量絶滅が起きていてね、ヨーロッパ狼も例外ではなくて、絶滅に近い状態だったようだ。フェンリルが、どこかの国の大富豪のペットとして密輸されそうになっていたのを、保護された時の写真らしい」
黄金の双眼。この目でフェンリルはケイの頭の中で叫んだのだ。コロスと。
「フェンリルは生け捕られたが、群れの他の狼は、子供を含めて全ての個体が毛皮を取る為に、密猟者によって殺されたようだ。どの森に生息していたのかも分からないし、たった一頭だけになってしまった野生の狼を、自然に返すのは無理との判断で、動物園で飼育されることになったようなんだけど」
そこで言葉を切って、ミニシャは少し悲しそうにケイを見つめた。
「フェンリルは、檻の中で蹲ったまま、水も餌も一切口にしなかった。野生狼としての誇りが、フェンリルに自死を選ばせたのだろうね。だけど、人間側としては、野生狼の最後の個体をそのまま死なせるわけにもいかず、脳の神経線維と脊髄、遺伝子などを冷凍保存したんだ。いつかまた、狼をこのヨーロッパの地に復活させる為にね」
「永い眠りから覚めたら、自分が兵器になっていたなんて。ぞっとしない話ですね」
ケイはフェンリルの写真を眺めながら言った。
狼は、目に憎しみを湛え、人間への殺意を剝き出しにしたまま、古ぼけた一枚の写真になってしまった。
そして、生体スーツとして甦った彼は、過去を忘れることなく実行したのだ。
「フェンリルのどう猛さは、生体スーツに遺憾なく発揮されている。ただ、搭乗したパイロットとの同期が深過ぎると、あいつの脳は、パイロットの戦闘サポーターから人間を憎む野生動物に戻ってしまって、パイロットの脳神経、いや、精神そのものに噛みついてくるんだ」
「噛みつく…」
そんな生易しいものじゃない。頭の中、はっきり言えば剥き出しの脳みそを、鋭い牙で食い千切られたような激しい痛みを、ケイは思い出した。
「チームαの他の生体スーツもパイロットと同期し過ぎると、フェンリルみたいに噛みついてくるんですか?」
「ダガーの生体スーツはヨーロッパオオヤマネコの、ロウチは熊の人工脳を使っている。エマとハナ、リンダは猫の人工脳、ダンとジャックは、犬の人工脳だ。猫は気紛れだし、犬種はドーベルマンとジャーマンシェパードだ。利口だけど、軍用犬になるくらいだから決して大人しい性質ではない。多少は噛みつかれたり、引っ搔かれたりはしているかも知れないが、チームからは、今まで重篤な報告はない」
「そうですか…」
「オオヤマネコと熊はもちろん野生種なんだが、どちらも人馴れしていてね、ヤマネコは親の代から動物園で飼育されていたし、熊は芸達者なサーカスの人気者だった。犬と猫は家畜化された動物だ。だからと言って、誰でも生体スーツのパイロットになれる訳ではない。人とは比べ物にならない身体能力の優れた動物の人工脳に自分の脳を同期させて、人間の身体では真似できない速さでスーツを動かすのだから」
「……」
「フェンリルは初めての生体スーツ開発という事もあって、残した脳の神経細胞が他の生体スーツと比べてほんの少し多かった。それが群れの仲間と自分の悲惨な最期を記憶していて、人を殺そうとするのかも知れない。それとも、純粋な野生種の脳を使ってしまったから、人間を憎む記憶がなくならないのかな。残念な事に、開発者の私にも分からないんだ」
「…アシュルさん」
「ん?なに?」
「アシュルさんって、誰ですか?」
頭に浮かんだ名を、ケイはぽつりと呟いた。




