君臨する男
ファン・アシュケナジ。
初めて耳にした男の名前だった。
アメリカ軍が同盟軍のロシアに隠れて探している、裏切り者。
驚いたのは、その男とポーランド州が天秤に掛かる程の重要人物だという事だ。
自分の与り知らぬところで巨大な歯車が動き出した。
そう感じるのは、早計だろうか。そして自分が、男の名前しか知らされなかったのには、理由がある。ブラウンはすぐさま宮殿に引き返して、ヘーゲルシュタインの元に飛んで行った。
「ただいま戻りました」
「戻ったか。そろそろ帰り支度に入ったところだ。君もすぐに準備したまえ」
ヘーゲルシュタインは私的な身の回りの荷造りを部下の兵士に任せ、自分は豪華な案楽椅子に深く腰掛けて足を組み、優雅に紅茶を嗜んでいた。
その様子は、名実ともに高貴な貴族が屋敷に雇われている召使いを使う姿にしか見えない。
己の身分を悪し様に嫌ってはいても、やはりこの人は生まれながらの貴人なのだと、ブラウンに再認識させる風景だった。
「その前にお話したい事があります。少将のお時間を少し頂きたいのですが」
「構わんよ。何だね」
ファン・アシュケナジという男をご存じでしょうか?
男の名前を半分口に出しかけたところで、ヘーゲルシュタインに五指を揃えた掌を素早く顔の正面に向けられて制止された。
即座に口を噤んだブラウンを見ずにカップの中のお茶を飲み干してから、ヘーゲルシュタインはゆっくりと立ち上がって言った。
「その話は、ヤガタに帰る車中で聞くとしよう」
手短に告げると、ヘーゲルシュタインはテーブルにカップを置いた。鋭い視線をブラウンに投げて寄こすと、そのまま部屋を出て行った。
ヘーゲルシュタインは知っているのだ。
これでもうアシュケナジという男が、かなり重要視される人物であることが確実になった。
ヤガタに帰還する十台の装甲車が、ウィーンの大通りを我が物顔で走り抜ける。
街の人々が時々見かける自動車といえば、高級官僚や軍人、上級貴族議員などの権力者の乗用車の他に、馬では運べない荷物を積んだトラックくらい。庶民の足は馬車が殆んどだ。
見たこともない鋼鉄製の巨大な乗り物が恐ろしい轟音を立てて走り去るのを、ある者は不安げに、ある者は忌々し気に、またある者はただの好奇心に目を見張って見送った。
軍の高官であるヘーゲルシュタインの鶴の一声で装甲車は人払いがされている。ブラウンただ一人が同乗していた。
軍用車に無駄な設備など一切ない。
防音の為の吸収材など取り付けていない車内は、舗装されていない剝き出しの大地を削りながら走るタイヤの音で何も聞こえない。
だから会話はヘルメットを装着してイヤホンで話すことになる。無線の周波数を変えれば誰にも聞こえないから、密談には好都合だ。
先に口を開いたのはヘーゲルシュタインだった。
「君の口からアシュケナジの名が出たのには驚いたよ。どうやって彼の名を知った?」
「実は、妹の手紙を介して、ある人物とウィーンの小さな宿で会う事になりました。そこで聞かされた名前です」
「ある人物とは誰だね?」
一呼吸置いて、ブラウンはウィーンの小さな宿で自分を待っていた男の名を口にした。
「ケビン・ウォーカー、アメリカ副大統領です」
「ウォーカーだと!!」
さすがのヘーゲルシュタインも、驚愕に大きく目を見開いた。
「君は、ケビン・ウォーカーと、民間の宿屋で、個人的に会ったというのかね?!」
信じられないというようにヘーゲルシュタインが首を振った。至極もっともな反応だ。
「そうです。ですが、私と会った男が、本当にケビン・ウォーカーだったかどうかは分かりません。影武者かも知れない」
「いいや。君が会ったのは、まさしくアメリカ副大統領だろう」
己の二の腕をがっしりと掴むように腕組みをして、ヘーゲルシュタインが大きく唸った。
「ウォーカーは、私にメッセンジャーになれと言いました。それで私を呼び出したのだと」
「メッセンジャー?」
ヘーゲルシュタインが眼を剥いてブラウンの顔を凝視した。
多分自分もヘーゲルシュタインのように、あからさまに困惑した表情でウォーカーの話を聞いていたに違いない。
ブラウンは、小さな宿でウォーカーとした会話の詳細を一言一句漏らさずに伝えていた。
「少将に伝えろと言われました。ファン・アシュケナジを、アメリカ軍に引き渡して欲しいそうです。そうすれば、ロシアとの軍事同盟を解除すると。アメリカ軍の軍事力がなければ、ロシアはヨーロッパに手出し出来ない。ロング・ウォーは終りを迎えます。ポーランドも、ウォシャウスキーに渡さずに済むでしょう」
にわかに、上官の表情が険しくなった。
当たり前だ。自分でも半信半疑どころか、殆んど疑いを以って話している。これは共和国連邦軍を陥れる為に、アメリカ副大統領が自ら仕掛けた罠なのだと考えながら、話をしている。
「君の考えていることは手に取るように分かるよ。ブラウン中佐。こんな取引、眉唾物だと思っているんだろう?」
ヘーゲルシュタインの真っ当な質問に、ブラウンは即座に「はい」と頷いた。
「どれだけの重要人物か知りませんが、男一人、ウォーカーに引き渡せばロング・ウォーが終結するなどとは、とても信じられません」
「確かに、君には、突拍子もない話に聞こえるだろう」
ブラウンを睨むような表情で言う。
「確認するが、この話は君と護衛のダガー軍曹しか知らないのだな?」
「はい。ダガーは非常に口が堅い男です。私がウォーカーに会った事は、軍曹は何があっても漏らしません」
「ふむ、そうか。では、結論から言おう。ウォーカーは本気だ」
「少将、それは、どうして…」
今度は、ブラウンが眼を剥く番だった。
「アシュケナジだ」
怖いくらい深刻な表情で、ヘーゲルシュタインが言った。
「彼の名が出たからには、その話は嘘ではない」
「アシュケナジとは、どういった人物なのですか?」
「ガグル社の最高経営責任者だった男だ」
驚愕に目を向くブラウンに次の言葉を放つ。
「引退はしているが、今でもガグル社の頂点に君臨している人物だ。社の連中からはギリシア神話に登場する最高神に準えてゼウスと呼ばれている。何故なら、彼がガグル社の礎を作ったのだからな」
「ガグル社の創設者…」
ブラウンはその後の言葉を繋げられずにいた。
今の時代、エンド・ウォー以前のような強大な経済主義国家は何処にも存在しない。
会社も然り。ただ一つの例外が、ガグル社だ。
ヨーロッパの各地に点在する支社と永世中立国のルクセンブルクに本社を置くヨーロッパで唯一無二の巨大カンパニーに、エンド・ウォー以後の人類を生かす技術の全てが掌握されている。
ガグル社は国家なき帝国なのだ。
そして。ヘーゲルシュタインの言葉が正しければ、アシュケナジという男はガグル社の頂点に立つ者だという。
それは、彼が、ヨーロッパの真の支配者だと言っているのと何ら変わりはない。
「そのような人物を、我々プロシアの一国の一存でアメリカ軍に引き渡せると、ウォーカーが本気で考えているとは思えません。少将、これはウォシャウスキーと同じ謀略ですよ。我々プロシア一国に無理難題を吹っ掛けて、共和国連邦の分断を図るつもりでしょう」
暫しの沈黙が二人に訪れる、先に口を開いたのはヘーゲルシュタインだった。
「ドラゴンは今回が初めてだが、敵の二足走行兵器が出現したのはいつ頃からだね?」
「正確には把握出来ていませんが、あの兵器と我が軍の隊とが接触して戦闘状態になったのは、一年前の事です」
忘れもしない。
あのロボット兵器が青の戦域に初めて現れた時期だ。
軍事同盟軍の新兵器に遭遇した味方の中隊が、あっという間に撃滅された。
初めてフェンリルを実戦に使ったのが、その時だ。
その後の一年間、あの生体スーツは誰にも触らせることなく格納庫で眠らせることになった。
「敵の機械兵器が、何か?」
「話は、今から十年前に遡る」
そこで言葉を切り、ヘーゲルシュタインは目と口の両方を閉じた。
数秒して双眼を、かっと開く。覚悟を決めた表情でブラウンに話の続きを始めた。
「十年前、ガグル社は、戦車や重火器などの従来の兵器とはかけ離れた高度な技術の新型兵器の開発を持ち掛けて来た。連邦軍のテクノロジー推進派の最上層部は、ガグル社の技術を吸収し、使いこなせる能力の高い人物を、秘密裏に集めた。軍は勿論、政治の中枢にいるラッダイトかぶれの奴らに知れたら大騒ぎになるからだ」
ヘーゲルシュタインは己の視線を真っ直ぐにブラウンの顔に注いだ。
「それが、ボリス少尉や私のような人間であると」
「そうだ。君達は本当に優秀だ。あの生体スーツを開発してくれたんだからな。だが、ガグル社が何故、何の条件も付けないで我々独立共和国連邦軍に最先端の軍事機密を無償で開示してくれたのか、まるで理由が分からなかった。しかし、アウェイオン戦で初めて合点がいったのだよ。大量の二足走行兵器と、禍々しいドラゴンの姿をした飛行兵器を見た時にな」
そこまで喋るとヘーゲルシュタインは再び口を噤んだ。ブラウンはその口が開くのを待つ。
ふうっと重い息を吐き出した口が、話を再開した。
「ここからは、共和国軍でも上層部の一部しか知らない重要機密だ。ウェルク・ブラウン、君は上級士官に昇進し、この機密情報を知る事が出来る立場になった。心して聞きたまえ」
「了解しました」
ブラウンはすかさず右手を額の上に持っていき、敬礼の形を取った。




