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青の戦域    作者: 綿乃木なお
第二章  絶望のインターバル
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妹からの手紙・1



 共和国連邦と軍事連合の会議の議事録を改める気の重い作業を、ブラウンは一人で黙々とこなしていた。

 この書類を手にしたプロシアと共和国連邦の政治家の反応を想像すると、ブラウンのキーを打つ指が暫し止まる。

 ウォシャウスキーの言い放った言葉の一言一句が、真っ新な紙にタイプされる度、怒りが込み上げる。

 ロシアの将軍が停戦の見返りに、ポーランド併合を一方的に宣言した。

 あれのどこが会議だというのか。

 怒り狂ったプロシアの国会議員全員に首相は容赦なく糾弾され、議会は荒れに荒れるだろう。

 だからと言って、自分と年齢が近いであろうハインラインに同情する余地もない。

 交渉には程遠い会議になってしまったのは、あの男の未熟さから来るものだ。

 軍事同盟軍の大躍進によって、連邦軍は窮地に立たされている。共和国連邦が青の戦域領全てを失ったら、軍事同盟は直接プロシアに侵攻して来るのは想像に難くない。

 

 久しぶりにウィーンに戻って、優雅に暮らしている人々の姿を目の当たりにしたブラウンは、複雑な思いを胸に抱いた。ドラゴンの攻撃によってどれだけの兵士が命を失ったのか、この街の人々は知っているのだろうか。少しでも戦場の苦しみを知れというのが本音である。

 簡潔な文章で会議の内容を現した議事録を作り終わると、ブラウンは部下を呼んでファイルした書類を渡して、首相付きの秘書官に届けるように命令した。

 この書面に目を通した首相が、ロシアの将軍の不遜な態度を思い出して再び激怒する姿を容易に想像出来た。

 部屋を出るときに一人の下士官から白い封筒を手渡された。


「何だね?これは」


 首を傾げて受け取ると、中佐のお身内の方からだと伺っておりますと、兵士はブラウンに敬礼した。

 開封すると、淡い花模様で縁取られた便箋が一枚入っていた。

 数行の走り書きにさっと目を通す。

 ヘーゲルシュタインが何処にいるか知っているかと下士官に尋ねると、会議の前にブラウンと一緒に街を眺めていた部屋で休息を取っているという。すぐさま部屋に赴いてドアをノックした。


「おお、ブラウン、戻ったか。色々とご苦労だったな。こちらに来て一緒に茶でも飲まんかね」


 ヘーゲルシュタインは椅子に座ったまま、ブラウンに手招きした。


「それが、私事で急用が出来まして。ヤガタ基地に戻る迄の時間を、少し私用に使ってもよろしいでしょうか?」


「ふうむ、構わんよ」


 そう言って、ヘーゲルシュタインはブラウンの手の封筒を意味有り気にちらりと見た。


「私はそんなに野暮な人間ではないからな。何の詮索もせんよ。すぐに行きたまえ。どんなに名残り惜しくても、時間は厳守するんだぞ」


「…いえ、残念ながら、この手紙は少将の考えているような内容ではなく、妹からのものでして」


「何だ。恋文じゃないのか」

 

 あからさまにがっかりするヘーゲルシュタインに構わずに、ブラウンは話を続けた。


「実は、戦死した義弟の命日が今日なんです。私がウィーンにいると妹が聞きつけて、滅多に帰ってこない不肖の兄に、今年こそは墓参りに来いと、連絡を寄こしたんですよ」


「そういう事か」


 ヘーゲルシュタインは酷く神妙な顔をして頷いた。


「では尚更、急いで行かねばならんな」


「一応、用心の為に護衛を一人付けたいのですが。ダガー軍曹を同行させても構わないでしょうか?」


「よろしい。軍曹の同行を許可する。さっきも言った通り、私は野暮な人間ではないのでな。早く妹さんに会いに行きなさい。だが、時間は厳守するように」





 ブラウンの実家はドナウ運河の近くにあった。

 立派な商家で何不自由なく育ったが、後を継がせようと思っていた息子が軍人になり、妹は親の反対を押し切って軍の下士官に嫁いで数年で寡婦になった頃から、家運が暗転し始めた。

 父が病いを発症してから時間を置かずに亡くなって、やり手の主人を失った店の経営が瞬く間にうまくいかなくなった。その心労からか、父の死から間もなく母も病死した。

 幼子を抱えていた妹は、ブラウンの了承の元、店も家も手放した。

 それでも生まれ育った場所からは離れがたいようだ。運河の見えるアパートメントに、三人の子供と暮らしている。

 ブラウンは連絡を貰うや否や飛ぶように妹のアパートに行った訳だが、その理由を聞いたとしたら、妹が喜ぶとはとても思えなかった。

 子供の養育費に当ててくれと、少なくはない額の金銭援助はしている。

 でも、それだけだ。

 ここ数年、顔も見せない薄情な兄だ。夫も両親も失ってたった一人で子育てに苦労してしている妹にろくでなしと詰られたとしても、返す言葉など何もない。

 それなのに、妹のエリカは、本当に嬉しそうな表情でブラウンの背中に両腕を回して、しっかりと抱き締めてくれた。


「久しぶりね、ウェルク」


 ウェーブの掛かった柔らかな黒髪と、陶磁器のように白い肌。整った顔立ちを尚際立たせているカールした長い睫毛に縁どられた大きな瞳は、暫く前に会った時と殆んど変わりがない。 

 否、子供を愛しむ眼差しと微笑む表情は、前にも増して美しくなっていた。

 日の当たる居心地の良い居間で、近況を交し合っている間、子供達の面倒をダガーに見て貰った。

 やんちゃな双子の男の子が、ダガーの肩や頭によじ登って甲高い笑い声を立てている。

 ダガーに申し訳ないのと、小さな甥っ子が床に落ちたら大変だと冷や冷やし通しだったが、思いの外、ダガーは器用に子供の身体を掴んで遊んでやっている。幼い双子に髪の毛をくしゃくしゃに掻き回されても、嬉しそうに子供の相手をしていた。

 ダガーに逆さ吊りにされてきゃあきゃあと大笑いしている二人の甥っ子を見て、ブラウンは柄にもなく慌てた声を出した。


「ダガーの奴、あんな危ない事をして!」


「あの子たちには父親がいないから」エリカは寂しそうに微笑んだ。「ああやって、少し乱暴に扱われるのがとてもうれしいんです。母親の私ではあんな遊び方してやれませんから」

 

 もし父親が健在だったとしても、男の子の足首を掴んで右と左で二人同時に逆さにして持ち上げられるかどうかは疑問だが。

 ブラウンは呆れた表情でダガーと甥っ子達を眺めていた。

 エリカは不安そうにそわそわするブラウンを見て、兄さまは子供の頃はとても大人しくて、読書ばかりしていましたものねと、笑った。

 いつの間にか一番上の姪も、後ろからダガーの首に巻き付いてぶら下がっている。


「あらあら、お姉ちゃんまで」


 エリカが声を立てて笑った。


「そろそろ終わりにしないとね。軍曹さんが疲れてしまうから」


 エリカは立ち上がって、ブラウンが妹の家を訪ねた本当の要件である封筒を手渡した。


「これを、ある人から預かりました」


「誰がこの封筒をエリカに渡したんだね?」ブラウンは目を鋭く細めて封筒を見つめた。


「知らない人。この近辺では全く見たことがない男の人です」


「亡き夫の命日を偽ってまで、私を呼び出さねばならぬ程、お前はその男に脅しを掛けられたのか?」

 

 兄の優しい表情が一転して厳しい軍人の顔になるのを、エリカは憂いを湛えた黒い瞳で見つめながら言った。


「いえ、脅されてなどいません。ただ、この国を左右するような、とても重要な話があるから、必ず会いに来てほしいと。その意味が兄さまだったら、分かるだろうって」


「エリカ、お前は何も心配することはないよ。幸い、ここは連邦軍の司令本部から近い。目立たぬように、お前達に護衛も付けることが出来る」


 ブラウンは不安を取り除こうと、エリカの手を強く握って言った。


「そんな大袈裟な事はなさらないで下さい」


 ブラウンの言葉にエリカはしっかりとした表情で首を振った。


「私達なら、大丈夫ですから」


「そうか…。何かあったら必ず私に知らせるんだぞ。すぐに人を寄こすから。さて、そろそろ、お暇するかな。随分と長居してしまった」


 お前はとても強くなったな。


 口を突いて出そうになる言葉を笑顔で隠して、ブラウンは椅子から立ち上がった。

 

 ダガーが腰に子供たちを纏わり付かせながら、ブラウンの元に来る。まだ遊び足りないと縋りつく幼い子供達に、ダガーはまた来るからと小さな頭を撫でながら、母親に返した。


「お気を付けて。ご武運をお祈りしますわ」


 ブラウンはエリカを抱き締めた。ブラウンから身体を離すと、エリカは手を伸ばしてダガーの右手を掴み、両手でしっかりと包み込むように握り締めた。


 驚いた表情も一瞬のことで、ダガーはエリカに優しい笑みを返しながら、たおやかなその手を握り返した。

 窓から手を振るエリカの子供達に手を振り返してから、ブラウンとダガーはすぐに建物の脇に身を滑らせて、人気のない場所で封筒を開けた。

 中に入っていたのは一枚の地図だった。

 赤いペンで印を付けてある建物に来るようにと英語で記されてある。

 ここからさほど遠くない小さな宿屋だ。五分もあれば目的地に着く。時間は十分にあった。


「どれ、人に怪しまれないように、ぶらぶらと歩いていくか」


 スーツのジャケットのポケットに手を突っ込んでブラウンが歩き出した。


「了解しました」


「民間人はそんな返事はしないぞ」


「そうですね」

 

 ダガーが困ったようにブラウンを見た。ラッダイトが好む古風なスーツが一番人目を惹かないのは分かっているが、長年軍服を着慣れた身には必ずしも着心地が良いとはいえない。柔らかなウールの生地で作られた上等なスーツであってもだ。


「そういえば、君のスーツ姿を見たのは初めてだな。結構、似合っているぞ」


「ありがとうございます。中佐もとてもお似合いですよ」


 ありふれたスーツを着込んで石畳の狭い歩道をゆるゆると足を運ぶ二人だが、ジャケットの内側にホルスターを着け、殺傷力の高い拳銃を忍ばせているのは往来を歩く人々とは全く違う。


「ヴァリル、妹の子供達と遊んでくれてありがとう。私は幼い子供をどう扱っていいのか分からなくてね。君一人に押し付けてしまって悪かったな」


「いえ。こう見えて、俺は子供の扱いに慣れているんです。一緒に楽しく遊ばせて貰いましたから、中佐が気にすることないですよ」


「へえ、そうなのか!?ああ、いや、失礼」


 意外だというようなブラウンの声に、ダガーは小さく微笑んだだけだった。


「中佐の妹さん、エリカさんはとても美しい方ですね」


「そう、あれはなかなかの美人だろう?」


 ダガーの言葉にブラウンが勢いよく相好を崩した。今まで見たこともない上官の柔らかな表情にダガーは少なからず驚いて、見開いた目をぱちぱちと瞬かせた。


「それにとても思いやりのある子でね。自慢の妹だよ」


 明るい表情がブラウンの顔からすっと消えて、影が落ちる。しんみりと笑いながらブラウンは話を続けた。


「エリカの夫は、私の部隊の副隊長をやっていた男だ。強くて、優しくて、本当に頼りがいのある奴だったよ。私が立案した軍事作戦遂行の最中に敵の砲撃を受けて戦死した。それから、彼女は、とても強くなった。軍人の私が尊敬してしまうくらいにね」


 ダガーが何か言いたげな視線をブラウンに向けた。

 妹が寡婦となった話に哀悼を添える句を探しているのではない。妹のエリカと自分を見た人間が必ず見せる表情だ。

 それに慣れて何も感じなくなったのは、いつ頃からだったろう。


「さて、着いたぞ。地図にあるのはこの宿だ」


 表通りから一本入って少し狭くなった道の片側に、小さいが瀟洒な造りの宿屋があった。

 ここにブラウンを呼び出した男がいる。地図にある宿の名前をもう一度確認しながら、ブラウンはダガーと共に辺りを見回した。宿の近辺には不審な人物は見当たらない。


「宿泊客のジェイムス・サミュエルソン氏に会いたいのだが」


 ブラウンが地図に書いてあった男の名前をフロントの女性従業員に伝える。


「どのようなご用件でしょうか?」


「仕事の話だ。ウェルク・ブラウンが来たと伝えてくれれば分かる」


「その方なら、あちらのソファで寛いでおられます」


 女性従業員はカウンターから出て、ブラウンとダガーを狭いラウンジに案内した。

 

 ブラウンとダガーに背を向けた一人の男が、布張りの大きなソファに身を沈めて、通りの景色を眺めていた。従業員が、座っている男に腰を屈めて小さく耳打ちする。

 男がゆっくりとこちらを向く。

 それは、ブラウンがさっき会ったばかりの顔だった。


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