プロシアの悪夢
停戦の報告が入った時、ハインラインはベルリンの首相官邸で家族と一緒に朝食を取っている最中だった。
努めて表に出さないようにしたつもりだが、妻の青ざめていく顔色で、自分が今どんな表情をしているかが十分に分かった。
「エーベルト?」
急用が入ったからと気もそぞろに席を立つ夫に、妻のフリーダが心配そうに声を掛けた。
「すぐに戻るよ。子供たちとゆっくり食事を楽しみなさい」
妻の華奢な肩に両手を置いて、美しく編み込まれた麻色の髪に軽くキスしてから、ハインラインは喫緊の課題を対処すべく部下達と共に慌ただしくダイニングを後にした。
夫の背中を不安げに見つめる妻の視線にも気付かずに、執務室までの距離を走るように歩く。ハイラインの両脇から、各省の事務方が次々と差し出す資料に目を走らせせた。
怒りで口汚く罵りそうなのを辛うじて堪えながら、ハインラインは首相官邸の執務室に辿り着いた。
レースのカーテン越しに窓の外に目をやると、官邸の門の前に新聞や雑誌の報道陣が大挙して押し寄せている。
「連邦軍の話では、アウェイオンの戦いで軍事同盟軍に勝利して、奴らを北に押し戻すんじゃなかったのか?ロング・ウォーを終結させると息巻いていたのに、一体どうなっているんだ?」
ハインラインが腹立ちまぎれに執務室の机を叩くと、目の前に並んでいる事務官達が一斉にびくりと肩を震わせた。
「それが…見たこともない飛行兵器に上空から攻撃を受けて、アウェイオン戦で前衛を務めていた我がプロシア軍が恐慌を来たしてほぼ全滅。軍の統制が取れなくなったところを敵の大反撃を受けて、共和国連邦軍全体が壊滅状態に陥ってしまったとのことでして」
次官がハンカチで脂汗を拭きながら、ハインラインに何度も同じ説明をする。
「それだ!」
ハインラインは次官を指差して大声を上げた。
「たった一機の飛行兵器で、共和国連邦軍の要を担っている我がプロシア軍の大連隊が使い物にならなくなってしまったというのが、信じられんのだ!独立共和国連邦軍の貴族将校の奴らめ、自分達の大失態を棚に上げて、このプロシアで、第二首都のウィーンで、休戦協定の会合を開くだと?私はそんな話は一言も聞いてないぞっ!一体誰が許可を出した!!」
「ウルバートン連邦総司令部参謀総長です」
茹で蛸のように真っ赤になって怒鳴り散らすプロシアの首相に、国防省長官が恐縮した様子でおずおずと答えた。
「ああ、ああ!そうだろうよ!ウルバートン元帥、彼にはその権限がある。何せ共和国連邦軍の総大将様だからな。そして、奴の出身はイングランド連邦だ。自分の腹はどこも傷まないときている!」
ハインラインは忌々しげに舌打ちした。
独立共和国連邦軍。総称、西ヨーロッパ独立共和国連邦軍共同体。
エンド・ウォー以後、ヨーロッパの秩序を取り戻すために、各国が自国の軍隊の一部を分離統合して作り上げた独立機構だ。
初めは、エンド・ウォーで、国境線が曖昧になった共和国の小競り合いが紛争にならぬようにと、歯止めをかける為の軍隊だった。
それが、北ヨーロッパの独裁国家がプロシアの国境に軍事侵攻を開始すると、反体制国家の脅威から西ヨーロッパの独立国家防衛へとその役割を大きく変貌させた。
戦争の長期化で連邦軍の力は増大していった。ロング・ウォーと呼ばれる頃には、ヨーロッパのどの共和国の兵力をも凌ぐ存在となった。
軍の中枢部は、国の覇権を巡って権力がぶつかり合う闘争の場と化し、連邦軍の最高位、総司令官の地位を手に入れた軍閥とその出身国がヨーロッパの主導権を握る時代になっていた。
「それで、我らプロシア共和国の第二の首都に敵を迎え入れさせるのだから、元帥閣下は何か手土産を持ってくるのだろうな?」
「敵前逃亡してイングランドに逃げ帰ったチェース准将らの身柄を拘束して、共和国連邦軍に引き渡し、軍事裁判にかけるとの連絡は受けてます」
「そんな軍人の風上にも置けん臆病者は、将校の地位を剥奪して牢屋に叩き込んでおけばいいだけの話だ」
こめかみに青筋と立てて、ハインラインが吐き捨てるように言った。
「それで、今度の休戦会議には軍事同盟軍は誰をウィーンに送り込んでくる気だ?こっちの連邦軍の交渉役は、もう決まったのか?」
「はい」
事務次官が喉を引き攣らせながら、報告を続ける。
「連邦軍からは軍総長ウルバートン元帥と、ノイフェルマン副参謀長、ヤガタ司令官のオークランド師団長、ヘーゲルシュタイン少将が出席すると伺っております」
「総長と副参謀長が?連邦軍トップがこの会議に出席するとなると、軍事同盟軍からは…」
「軍からの通達では、ケビン・ウォーカー、セルゲイ・ウォシャウスキーの名が、上がっております」
「何、だと?」
ハインラインは息を飲んだ。
軍事同盟軍のツートップが自らウィーンに乗り込んでくるのか。
これは今までの休戦会議とは訳が違う。青の戦域での敗戦で、連邦軍がどれだけのダメージを受けたのかを今更ながら思い知って、全身に震えが走った。
独立共和国連邦軍は軍隊の規模も資金も、二か国だけで同盟を組んだ軍事連合を上回っていた。
その筈だ。だからこの長い戦争に、いつかは自分達が勝つ。それが当然だと信じて、疑ったこともなかった。
遠く離れた戦場を顧みることなく安穏と暮らしていた結果が、これだ。
「只今、ヘーゲルシュタイン少将から、届きました」
次官が盛大に震える手でハインラインに一枚の写真を手渡した。
「これが、軍事同盟の飛行兵器の写真です」
次官から写真をひったくると、ハインラインは血走った目で、飛行兵器の全容を確認した。
何だ、これは。
写真から弾くように顔を上げると、ハインラインは執務室に居並ぶ人間の顔を見渡した。どの顔も青ざめて、薄く開く口から覗く舌に言葉を乗せる者はいない。
「ドラゴン、だと…」
今、ロング・ウォー始まって以来の悪夢が目の前に迫っていることに、改めて恐怖して、ハインラインは我知らず唾をごくりと飲み込んだ。




