呪縛
G―1を駆り、次の目的地に向かうアシュケナジは己の過去を回想する。
それは父との悲しい記憶だった。
「ファン、それは何だい?」
取り出したA四サイズのハードカバーに、同盟国のクルーの男が興味深げに首を傾げた。
「これか?愛読書だよ」
手に持った図鑑を見せびらかすように、高々と頭上に掲げる。
「へえ、そうなんだ」
困ったように頷いてそそくさと離れていく男を見送ってから、アシュケナジは分厚い図鑑のページをぱらぱらと開いた。
「…おかしな奴だと思うよな」
戸惑いを隠せない男の表情は十分に理解できた。
図鑑は古く、かなり痛んでいた。背表紙に貼られたガムテープは勿論のこと、表紙の上半分が薄茶色に染まってよれている。姉のメアリが零したコーラの痕だ。
「この染みが付いてから、もう二十五年が経ったんだな」
アシュケナジは口元に微かな笑みを湛えながら、表紙に宇宙と書かれた文字を愛おしそうに撫でた。
図鑑は、七歳の誕生日に父が買ってくれた。
ハッブル宇宙望遠鏡の写真と、その後打ち上げられたジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡が映した神秘の宇宙の映像写真の虜になった。
熱心に図鑑を鑑賞する息子が余程嬉しかったのだろう。父は改造した屋根裏部屋に、小さな天体望遠鏡を備え付けた。
今思うと、決して安くない出費だっただろうが、あの頃の幼い自分に、家の懐事情が分かる筈もない。
ただ、望遠鏡で夜空を見ながら、図鑑のページをめくりながら、父と一緒に宇宙に思いを馳せた子供時代が、人生で一番幸せな時だった。
アシュケナジは図鑑を撫でる手を止めた。
「俺にはもう、あの時のような幸せが訪れることは二度とないんだ」
アシュケナジが国際宇宙ステーションの滞在メンバーに選抜された時、父は病院で終末治療を受けていた。
長年の過度なアルコール摂取から重度の肝硬変を患い、挙句に全身を癌に蝕まれた父は、ホスピスで終末治療を受けていた。疼痛を緩和する投薬のせいで殆んど目は見えず、意識も混濁している。
命がいつ果てるとも知れない姿を目にする以上にアシュケナジを苦しめたのは、認知機能が著しく衰えた父から自分の存在が消え失せた事だった。
時間は残されていない。アシュケナジは父の中に自分を一瞬でも甦らせようと、耳元に顔を近付けてそっと呟いた。
「父さん、あなたの息子は、ISSのロボット工学のメンバーに選ばれましたよ。あなたの父親と同じ宇宙飛行士になったんです」
「おおお…」
アシュケナジの囁きを聞いた父が黄色く濁った眼を見開いて、点滴の管に繋がれていない方の手をがくがくと震わせながら持ち上げた。薄く開いた唇が上下する。
「フ、ア…」
「父さん(ダッド)!」
「思い出してくれたのかい?そうだ!父さん。僕だ、ファンだよ!」
アシュケナジは夢中で叫んだ。両眼から堰を切ったように涙が溢れ出る。
「フ…ファ」
宙を彷徨う骨と皮だけになった父の手をしっかりと握りしめると、アシュケナジは自分の胸に引き寄せた。
「マギー」
父の、がさがさに乾いた唇から飛び出した名前に、アシュケナジの表情が凍り付いた。
「マギー、愛しい妻よ。メアリ、可愛い娘よ。お前達を愛している。さあ、こっちにおいで。私にお前達の顔を見せてくれ」
あまりにも残酷な言葉に、膨らんだ期待が一気に萎んだ。
母と姉を愛していると繰り返す父の視線は天井を見つめたままで、一度もアシュケナジに向けられることはなかった。
ああ、やっぱりだ。
生気を失った目で父を見つめた。
「父さん。あなたは僕を、たった一人の息子を、完全に忘れてしまったんだね」
目の縁に溜まった涙の粒が頬を伝う。アシュケナジの指から力が抜けた。枯れ枝のような父の手が、かさりとも音も立てずにベッドの上にすべり落ちた。
「は、は…ははは」
母と姉の名をうわごとように繰り返す父を見つめながら、アシュケナジは虚ろな笑い声を病室に響かせた。
「これは、罰だ」
父の身体と精神を死の淵に追い詰めたのは、他でもない、この自分なのだから。
「安心して、父さん。あなたはもうすぐ母さんと姉さんの元に行く。だから、これ以上、苦しまなくていいんだよ」
放った声は、自分でも驚く程、乾いていた。
アシュケナジは父に背を向けると、一度も振り返らずに病室から出て行った。
高速道路は意外と込んでいた。
皆が待ちに待ったバカンスだ。ラスベガスに向かう車で道路がある渋滞するのは予想していたが、後ろのトラックに車間距離を詰められると、話は違ってくる。
「もう少し距離を取ってくれないかしら。いくら煽ったって、前方も隣りの車線も車が繋がっているんだから、追い越すのは無理でしょうに」
母のマギーがサイドミラーを覗き込みながら眉を顰める。父のダニーも、バックミラーからトラックを見た。
「超大手ネット販売会社の配送トラックだな。大方、注文が殺人的な量になって、期日の配送に遅れまいと躍起になっているんだろう」
ダニーは会話の途中に何度も欠伸を混じらせた。
「ダニー。あなた、大丈夫?」
「大丈夫だけど、長距離運転で、少し疲れたかな」
図鑑を見ていたアシュケナジが顔を上げた。
「喉乾いた。それに、何だか気持ち悪い」
「バカね、ファン。ずっと下向いているから車酔いしたのよ」
所在無げにスマーとフォンを弄っていたメアリが、自分の座席の脇に置いてあるクーラーバックからコーラを取り出した。
「水じゃないの?」
「これしかないのよ」
恨めし気にコーラのペットボトルを睨む弟に、メアリはキャップを捻った。途端にペットボトルの口から泡が噴き出して、アシュケナジの膝の図鑑に茶色の液体が注がれた。
「あ、ごめん!」
メアリが慌ててキャップを閉めた。
「僕の図鑑が!」
アシュケナジはシートベルトを外すと、獣のように唸りながら姉に飛び掛かった。小さな握り拳で何度もメアリを殴り付けると、自慢のロングヘアを掴んで思い切り引っ張った。
「ファン、やめて!わざとじゃないんだってば」
人が変わったように凄まじい怒りをぶつけてくる小さな弟に、メアリが甲高い悲鳴を上げた。
「どうしたの?」
後部座席の怒号と悲鳴に驚いたマギーが後ろを振り返った。いつもは物静かな息子が姉を攻撃する姿が目に飛び込んでくる。
「やめなさい、ファン!」
マギーは大暴れしているアシュケナジを止めようと、自分のシートベルトを外して座席の後ろに大きく身を捩じった。メアリもアシュケナジの攻撃から逃れようと、シートベルトを外した身体をドアに押し付ける。
「おい、一体、何を騒いでいる?」
狭い車内で黄色い声が飛び交う状態に、ダニーが思わず後ろを振り返った。
我が家のホンダのフロントガラスに前に停車している黒いチェロキーが急接近して来るのが、アシュケナジの瞳に大写しになる。
「パパ!」
小さな息子の悲鳴にはっとしたダニーが、慌ててブレーキペダルを踏んだ。
前方の車が急ブレーキを踏んだのに気付くのが遅れたトラックが、ホンダのファミリーカーを押し潰す。
追突直後の凄まじい衝撃音に、アシュケナジ一家の悲鳴は掻き消された。
真っ青な空の下、四つ足になった生体スーツが、乾いた大地を疾駆していた。
「曹長、目的地に着くまでにどのくらいの時間が掛かる?」
G―1の首の付け根に立つアシュケナジは、限定戦域の外れになる土漠地帯の、延々と広がる荒れ地を眺めながらオーリクに尋ねた。
「五時間くらいです」
すぐさまオーリクが応答した。
「四時間で到着しろ」
「了解しました」
オーリクがG―1の後ろ足で砂の多い大地を強く蹴った。スピードが上がり、操縦席の速度メーターが時速百五十キロを指した。背中の揺れが少し大きくなったが、立っていられないほどではない。
アシュケナジが破壊したモルドベアヌ・アメリカ基地を後にして、彼此六時間が経つ。その間、オーリクは、アシュケナジの次の目的地までぶっ通しでG―1を走り続けさせていた。
野生チンパンジーの人工脳と長時間同期したままのオーリクだが、疲労を訴えることなくG―1を走らせている。見た目が牡牛のように逞しい男だ。体格と比例して、体力と精神力も並み外れて強いのだろう。
(使える男だ。ハンヌが選んだだけの事はある)
スーツ三体で事を成す計画だったが、ウォーミングアップのつもりで参加させた戦域戦に、二体がアメリカ軍のロボット兵器の犠牲になるという不測の事態が起きた。
一体だけになってしまった生体スーツに、アシュケナジの計画がとん挫しないか危惧したが、杞憂に終わって何よりだ。
気の遠くなるような歳月を掛けたこの計画が、ようやく結実する時が来た。
(あの日…)
楽しいバカンスが一瞬で地獄と化したあの日を、アシュケナジはG―1の肩の上で回想した。
あの事故で、母と姉が即死した。
メアリはトラックに押し潰され、シートベルトを外していた母は、車の外に放り出された。父は両足を骨折する大怪我を負ったが、命に別状はなかった。
トラックに座席が押し潰される前にシートの下に転がり落ちたアシュケナジは、奇跡的にかすり傷だけで済んだ。
父は病院から退院すると同時に教職を辞めて、家に引きこもった。
多額の保険金が入ったこともあり、父が仕事を辞めても食うには困らなかった。父は、リハビリに励むこともなく、ソファに横たわって一日中テレビを見て日々を過ごした。
妻と娘を失ったのは大いに同情できる。
だが、髪と髭を伸ばし放題にした男が、日中から酒瓶を持って雑草だらけになった芝生をふらつき歩く姿を頻繁に目にするようになると、近所の人は眉を顰めた。
そして、時間が経つに連れて、住人達は一人残された小さな息子の頭髪と衣服が次第に汚れていくのに気が付いた。
誰かが児童相談所に通報し、役人がアシュケナジの家に飛んできた。
セルフネグレクトの父親に幼い息子を育てる能力はないと判断され、アシュケナジは児童相談所の立ち会いのもと、母方の親戚の家に移される事になった。
「パパ!パパ!」
大勢の大人達に囲まれて住み慣れた家から連れ出される時、アシュケナジは父を呼んだ。息子をぼんやりと見てるだけの父に、大声で呼び続けた。
「僕、この家にいたい。どこにも行きたくない。パパから離れたくない!」
玄関ドアから引きずり出そうとする大人達の手から逃れようと、必死に抵抗する。泣きながら訴えるアシュケナジに、父は諭すように言った。
「ファン、大人しくおばさんの家に行きなさい。ママと姉さんを殺してしまった俺に、お前を育てる資格はないんだよ」
「違う!パパのせいじゃない!僕が騒ぎを起こしたからだ!!」
涙で声を詰まらせるアシュケナジを、やるせない表情で父は見つめた。
「いや、俺が悪いんだ。お前に宇宙飛行士になれなんて言わなければ、グランドキャニオンなんかに行かなければ、マギーとメアリは死なずに済んだのだから」
妻と娘を失って自暴自棄となり、酒で自滅した男の葬式に来る人間は少なかった。
「ファン、これであなたもようやく解放されるわね」
育ての親の伯母の呟きを横で聞きながら、アシュケナジは穴の中の棺をじっと見つめた。
白い花で覆われた父の遺体は目を背けたいくらい病み衰えていたが、その顔には安堵が広がり、口角が微かに持ち上げっていた。
今わの際に、父は悟ったのだ。死んだように生きる日々は終わった。これから天国の階段を上って、妻と娘の元に向かうのだと。
(それとも、ママとメアリが、ベッドまで迎えに来たのかな)
「ファン、お前はとても賢い。宇宙飛行士になれ」
幼い頃の父の言葉が甦る。父に褒め称えられた輝かしい幼児期で、アシュケナジの進む道は決まったも同然だった。
だが、思春期には、言葉は呪いとなってアシュケナジを苦しめた。それでも、悲しい事故によって断ち切れた父と息子を繋ぐ絆は、あの言葉だけだった。
「宇宙飛行士になる為に…」
だから、血の滲むような努力も厭わず、どんな苦労も乗り越えられた。
「さようなら、父さん」
アシュケナジは棺に向かって手に持っていた一輪の白薔薇を投げ入れた。
これで何の思いも残さずに、地球から離れることが出来るのだ。
「あと二時間で目的地に到着します」
突然、イヤホンからオーリクの声がして、アシュケナジは我に返った。
「そうか。分かった」
改めて景色を見る。土漠の荒れ地が緑の平原に変化していた。
ユングフラウ。スイス中南部にある、アルプス山脈の美しい高峰だ。
(ムゲン、もうすぐ、もうすぐだぞ)
遠くにそびえる山に、アシュケナジは目を凝らした。




