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青の戦域    作者: 綿乃木なお
第七章 創造者たち
286/303

湖畔の隠れ家

ヤノシュは見覚えのない小屋で目を覚ます。

そこは、ノイフェルマンから逃れる為にハインラインがヤノシュ兄妹に提供した場所だった。




 瞼を持ち上げると、薄汚れた天井が視界に広がった。

 天上の真ん中から吊るされている裸電球をぼんやりと眺めてから、ヤノシュは自分が見知らぬ部屋で寝てるのに気が付いた。


(…ここは、どこだ?)


 ベッドから起き上がろうとする。だが、身体は砂袋のように重く、小指の先にも力が入らない。


「…ミア」


 妹を呼ぼうと必死で口を動かす。喉から出たのは、声にもならない掠れた音だった。


「ミア、どこにいるんだ?誰か、来てくれ」


 必死で喉を絞ると、やっと皺枯れた呻き声が出た。だが、誰の耳にも届かないようだ。

 頭を枕に乗せたまま眼球を左右に動かすと、古い板張りの壁が目に入った。(つま)しい造りに、一瞬、ベルリンの家に帰って来たのかと思った。


(いいや。あの家は憲兵に踏み込まれて、目も当てられない状態になっている筈だ)


 それでも、気を失ったヤノシュがベッドに横たわっていられるのだから、ミア達が地下通路を上手く隠したに違いない。


「おお、ヤノシュ!やっと意識が戻ったか!」


 ベッドに駆け寄って来たのはミアではなくハインラインだった。破顔しながら自分を見下ろすハインラインに、ヤノシュは眉間に三つの皺の山を作った。


「…ハインライン、何故、お前がここにいる?ミアはどうした?」


「何故って、それは私が、君を看病していたからだよ」


「俺を、看病してた、だと?」


 みるみるうちに険悪な表情になったヤノシュに、ハインラインは溜息を付きながら首を振った。


「君は覚えていないだろうが、私とミアさんに秘密を教えると言った直後に昏倒したんだ。感染症に(かか)ってしまって、高熱が続いていたんだ」


「感染症?俺が?」


 ヤノシュは大きな目をぱちぱちとさせながら、ハインラインを眺めた。


「そうだ。一時は生死の境を彷徨うくらい酷い状態だった。でも、ミアさんが寝ずの看病をしたお陰で、君の容体は峠を越した。看病で疲労困憊(ひろうこんぱい)した彼女を少しでも休ませようと、私が君のお世話を買って出たって訳さ」


「そうだったのか。…迷惑かけたな、ハインライン」


 説明を受けたヤノシュは、さすがに神妙な態度になった。


「それで、俺は、どのくらい意識を失っていたんだ?」


「五日だ」


 厳しい表情でハインラインが五本の指を広げる。


「五日間、君は全く意識がなかった。その(かん)、ミアさんはベッドの脇で君の手を握って“兄さんしっかりして、目を開けて”と、ずっと君に語り掛けていたんだ」


 その時の情景を思い出したのか、ハインラインは感極まった表情でヤノシュの手を握りしめた。


「一時はどうなる事かと思った。ヤノシュ、助かって本当に良かったな!」


 ハインラインの背後から若い女性の震える声がした。


「にい、さん?」


 開いたドアの前に、水差しが乗ったトレーを手にしたミアが立っていた。

 ミアの手からトレーが滑り落ちる。ブリキの水差しとコップが床に転がる音が部屋に響いた。


「兄さん!意識が戻ったのね!」


 ミアが仰向けに寝ているヤノシュの胸に縋り付く。目を開けている兄の顔を見て、(せき)を切ったように大声で泣き始めた。


「ミア。心配掛けたな」


 自分の胸に突っ伏して泣きじゃくる妹に、ヤノシュが酷く照れくさそうな顔をする。


「それで、俺はどこに運ばれたんだ?ここは最初の隠れ家と違うようようだが…」


 眼球だけ動かして、ヤノシュは部屋を見渡した。地下通路から階段を上がった隠れ家の壁が、腰板と漆喰に分かれてたのを思い出したのだ。

 軍や国家警察に踏み込まれるのに備えて、ベルリンには複数の隠れ家がある。そのすべてを把握しているのだが、高熱を出して五日間も意識を失っていたせいか、思考が鈍ってしまって全く思い出せない。

 うんうん唸っているヤノシュに、ハインラインが顔を近付けて来る。そのやけに生き生きとした表情に、嫌な予感がヤノシュの頭を()ぎった。


「実はローゼンハイムまで移動した」


 街の名を聞いて、ヤノシュは素直に驚きの声を上げた。


「なんだと?オーストリアのすぐ近くじゃないか!随分と遠くに逃げたんだな」


「ノイフェルマンの追手から逃れるためです。私達が住んでいたベルリンの家は、ノイフェルマンの密偵の者に見つかってしまったと偵察の者から報告がありましたから」


 ミアが今までの出来事を説明する。黒い戦闘服から紺色の木綿の質素なドレスに着替えていて、しとやかな姿に戻っていた。


「だとしたら、俺達兄妹の麗しの我が家は、奴らに滅茶苦茶に引っ掻き回されちまったってわけか」


 チッと、ヤノシュが悔しそうに舌打ちする。


「そうなると、利用していた地下通路も、奴らの手に落ちたと考えるべきだな」


「それでハインライン様が、この隠れ家を提供して下さいました」


「隠れ家?そう言えば聞こえがいいが」


 仰向けに寝ているヤノシュが、どんぐり眼をぐるぐると回転させる。


「ハインライン、お前みたいな上級貴族が、何故こんな小汚い建物を所有しているんだ?まさか建物の下に、大量の金塊を隠してあるんじゃないだろうな」


「人聞きの悪い事を言うなよ」


 怪訝な顔のヤノシュとは対照的に、ハインライン明るい表情で語り出した。


「この建物は、私が亡き父から譲り受けた別荘地に建っている管理小屋だ。ローゼンハイムのシムス湖付近は上級貴族御用達の別荘地だから、秘密警察の人間もおいそれとは近付けないよ。それにこの小屋は森林に建っているから、人の目も殆んど届かない。ヤノシュ、体力が回復するまで、ここで休養するんだ」


「ったく、ホント、能天気なおぼっちゃまだ。そりゃあ、幸運にもノイフェルマンの手がローゼンハイムまで伸びていないってことだぜ、ハインライン」


 大仰に息を吐いてから、ヤノシュはハインラインを睨み付けた。


「奴ら、人の目が届かないような建物から虱潰しにしている筈だからな。さて、寝てるのは、もう飽きた。ハインライン、俺を起こしてくれ」


 ぞんざいな物言いに、とうとうミアが頭に角を立てた。


「兄さん!ハインライン様に向かって、失礼な言葉遣いをしないで下さい!」


「俺は五日間も意識不明だったんだぞ。重病人が健常者に世話されて何が悪い」


 澄ました表情でヤノシュが(のたま)う。その偉そうな態度に怒り出したミアに、気にしていないよと、ハインラインが笑った。


「君のお兄さんの言動にはもう慣れたって、この前、言ったよね?」 


 ハインラインに笑顔でウインクされたミアが、頬をほんのりと赤く染めて俯く。仰向けに横たわっているヤノシュの腕の付け根に手を差し込んで上半身を起こしたハインラインが、もじもじしているミアに声を掛けた。


「ミアさん、ヤノシュの身体を支えるのに、布団か枕を持って来てくれないか」


「ハインライン様、何度も言いますけど、甘やかすと兄が図に乗りますよ」


 ミアは呆れたように溜息を付きながら、ヤノシュの背中に枕を二つ差し込んだ。


「それにしても、ノイフェルマンの追手に見つからずに、よく俺をミュンヘンまで運べたな」


「君を運んだのは、君のグループが所有する偽のガグル社専用車だ。軍管轄の検問所でも速度を落とさずに通過できるのには驚いたよ。首相専用車でさえ、本人確認の為に一時停止していたのに」


 少しばかり陰のある表情になったハインラインに、ヤノシュがふんと鼻を鳴らす。


「どうやら、ヨーロッパで一番偉い奴らが誰なのか身に沁みて分かったみたいだな、元首相殿」


「ヤノシュ、減らず口が復活したね。それだけ口が動くんだ、身体もすぐに元通りになるよ」


 ヤノシュの憎まれ口をさらりと返すハインラインに、ミアは堪らずにくすりと笑った。

笑い声を聞いたハインラインとヤノシュが同時にミアを見る。すぐに真面目な表情に戻って、ミアは口早に喋り出した。


「プロシアの密偵の動向はこちらも把握しています。それに、ハインライン家の所有地には我らも人を配置してあります。だから兄さん、ハインライン様の言う通り、安心して養生して下さい」


「ハインラインの言う通りだ。俺の口の動きは、すぐに身体に連動するらしい」


 不遜な笑いを追浮かべながら、ヤノシュは布団の上の両手を持ち上げた。



第七章の始まりです。

ハインライン、ヤノシュ、ミアがようやく再登場。( ̄▽ ̄;)

ばらばらだった登場人物達の距離が少しずつ縮まる回(になる予定)です。

第六章のあらすじを一話の前書きに追記しました。

六章の途中から前書きに一話ずつあらすじを書くようにしたので、とっても簡単なものにしました。

宜しくです。

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