アシュケナジの要望
ヘーゲルシュタインともみ合いになるブラウン。
抵抗も虚しく拘束されてしまう。
頭上で鈍い音がする。衝撃で視界が揺れた。
殴られた場所から噴き出した血が、額から頬へと流れ落ちる。
上体が横に傾いで操縦席から落ちそうになる。ハンドルに腕を回して必死にしがみ付くブラウンに、ヘーゲルシュタインが呆れたように肩を竦めた。
「大した石頭だな。銃床で頭を殴り付けられて気を失わん奴は、初めてだ」
ブラウンを一撃で仕留め損なったヘーゲルシュタインが再び拳銃を振り上げた。
自分の頭をかち割ろうとするヘーゲルシュタインの手をベレッタごと押さえつけたブラウンは、ブレーキペダルを思い切り踏んだ。
特殊装甲の重い車体が鈍い音を立てながら道路を横滑りし始める。
操縦不能になった戦闘車が幹線道路のガードレールを派手にぶち破った。その後ろに設置された暴走車止めの背の高い縁石を破壊してから、停止する。
激しい揺れに、ブラウンとヘーゲルシュタインは操縦席から二人同時に投げ出された。
覆い被さるように倒れてきたヘーゲルシュタインの右手からブラウンがベレッタを毟り取ろうとする。ベレッタを奪われまいと、ヘーゲルシュタインは左の拳でブラウンの顔を殴り付けた。
ブラウンは自分の顔にめり込む拳の手首を押さえ込んで、ヘーゲルシュタインの両手の自由を奪う。
それでも、身体が下の体勢ではブラウンが不利である。
自分に利があると承知しているヘーゲルシュタインが、鼻先をブラウンの顔に近付けてにたりと笑った。
大きく見開いた目は血走り、横に裂けるように広がった口が歯列を剥き出にしている。上官の狂人の如き形相に、思わずブラウンは息を飲んだ。
「手を離せ。こんな狭い場所で貴様ともみ合っている暇はないのだ」
「無理ですね。私も操縦席の隙間なんかで、貴方に撃ち殺ろされるのはご免だ」
拮抗する力に互いの上腕がぶるぶると震える。
「くそ!このバカ力が」
ヘーゲルシュタインがブラウンの鳩尾に膝頭を叩き込む。
肋骨にひびが入っているのだから堪らない。激痛で全身から力が抜けたブラウンから、ヘーゲルシュタインが両手を引き抜いた。
胸を押さえながら座席の下に蹲るブラウンにベレッタを構え直した。
「落ち着けウェルク。殺すとは一言も言っていないぞ。お前には大人しくして貰いたいだけだ」
座席に片膝を預けたヘーゲルシュタインが余裕の表情でブラウンを見下ろした。
「銃を突き付ける人間の言葉を信用しろと?」
ヘーゲルシュタインは、肩で大きく息をしながら自分を睨み付けるブラウンの顔を面白そうに覗き込んでだ。
「そうだな。お前の言う通り口約束ほど信用出来ないものはない。それと同様、タダで掛けられる保険など、この世のどこにも存在しない。長年の戦争で我々の生き血を吸ってきたガグル社の元総帥がプロシアを壊滅させる見返りに、私に何を要求してきたと思う?」
知る訳がない。
ブラウンはヘーゲルシュタインの眦の吊り上がった両眼を黙って見つめた。
「お前だよ、ウェルク・ブラウン。五体満足で差し出せとアシュケナジは要求してきた」
「私を、ですか?」
驚愕に目を剥いたブラウンに、ヘーゲルシュタインが口と眉をハの字に下げて頷いた。
「驚いたか。実は私もだ。共和国連邦プロシア軍中佐の地位にあるとはいえ、お前は平民出身の戦域軍人だ。連邦軍中枢には全く重要でないお前に、一体何の用があるのだろうな」
「仰る通りだ。アシュケナジが何を企んでいるのか、俄然興味が湧いてきますね。百五十年以上前にガグル社を創設した伝説の男の姿をこの目で拝見できると思うと、とても楽しみですよ。その男が本当にアシュケナジならば、ですが」
「私を動揺させようと思っても無駄だぞ」
ヘーゲルシュタインがポケットからミサイルの起爆装置を取り出した。
「このボタンを押されたくないだろう?手を上げて、両膝を床に着いて後ろを向け」
そう言って、手の中の起爆装置をわざとらしく指で弄ぶ。金属の小箱に目を怒らせてみたものの、どうすることも出来ない。
ブラウンは観念したように背を向けて己の手を腰の後ろに回した。ヘーゲルシュタインは数本の止血帯を取り出すと、ブラウンの手首と足首に硬く巻き付けた。
「中佐、協力に感謝する」
慇懃に宣うと、ヘーゲルシュタインは拘束したブラウンを操縦席の後ろに転がした。
手に持っていたジェラルミンの小箱をブラウンの顔の近くに放り投げる。ブラウンは呆気に取られた表情で、鋼鉄の床に落ちた小箱を見つめた。
「これはダミーだ。お前を騙す為のな」
「…見事に引っ掛かりましたよ」
呼吸をする度、鋭い痛みが胸に走る。
ブラウンは額に脂汗を浮かべながら苦々しげに口元を歪めた。
「そうだろう?伊達にお前の上官を何年もやっているわけではないからな」
操縦席に座ったヘーゲルシュタインがエンジンをかけ直す。トルクが回り出し、装甲板の下で振動を始めた。
「ふむ。故障はないようだ。さすがガグル社製の特殊鋼鉄を使用しているだけの事はある」
崩れたコンクリートの中から戦闘車をバックさせて道路に戻してアクセルを踏む。特殊装甲の車体が轟音を立てて走り出した。
鉄板の床が、モーターの振動を身体に直に伝えてくる。負傷している胸に振動を受けたくないブラウンは、身体をごろりと転がして仰向けになった。
兵士二人の死体と瀕死のマディが並んでいるのが目に入る。腹の底から湧いてくる怒りを抑えようと奥歯を噛みしめた。
「少将、私を何処に連れて行くんです?ガグル社のあるルクセンブルクですか?」
情報を引き出さなければ。
ブラウンは冷静さを装って、ヘーゲルシュタインに質問した。
ブラウンの話に乗るつもりはないらしく、へーゲルシュタインはモニター画面を向いたままだ。
(ならば、ワンリン博士から得た情報を出してみるか)
「いいや、違うな。ガグル社ではない。アシュケナジは追放されたと聞いていますからね」
カマをかけてみる。アシュケナジは生きた自分を所望なのだ。ヘーゲルシュタインを怒らせても殺されはしない筈だ。
ヘーゲルシュタインが操縦席から顔を出した。自動操縦モードに切り替えて席から離れると、仰臥しているブラウンの脇に立つ。床と背中の間に足を差し込むと蹴り上げるように、横向けに転がした。
「中佐、どこでその情報を得た?」
低い声で詰問すると、ミリタリーブーツで肩を踏み付ける。痛みで顔を顰めるブラウンを、上から無表情に覗き込んだ。
ぞっとするような眼光を放つ上官を、ブラウンは強い視線で見返した。
「私も、一応、共和国連邦プロシア軍の中佐ですからね。ちょっとした情報が耳に入って来る事もあるんです」
「ふん。まあ、いい。寄り道はするが、最終目的地を教えてやろう」
ヘーゲルシュタインはブーツを床に戻し、酷薄な眼差しでブラウンを見据えた。
「ヤガタ基地だ。我々は青の戦域に戻るのさ」




