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青の戦域    作者: 綿乃木なお
第六章 エンド・ウォー
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土漠の蝶

フィオナを撃つことが出来ないケイ。

突然、視野に飛び込んで来た蝶に、ケイは死んだクリスに思いを馳せる。


 卑怯な真似はしないとフィオナに言った。

 言った側から約束を反故(ほご)にするのは、どれだけ姑息(こそく)か。それは十分に理解している。

 だが今、敵の主要兵器、ニドホグのパイロットであるフィオナが、ケイの隣で正体なく寝入っているのだ。

 連邦軍の兵士として、絶好のチャンスを逃してはならない。


「これは、正義の執行だ」


 それに、頭を撃ち抜けば、深い眠りの中にいるフィオナは苦痛を感じないまま一瞬で死ぬ。

 これこそ敵への最大の温情ではないか。


「そうだ。だから、俺は…卑怯なんかじゃ、ない」

 

 ケイはフィオナのこめかみに銃口を近付けた。

 フィオナと銃口の距離は十センチもなかった。

 熟睡しているフィオナは自分の命が風前の灯火だという事態に全く気付いていない。薄く開いた口からすうすうと穏やかな寝息が漏れる。土埃で汚れた顔に浮かべるあどけない表情が、天使のように可愛らしい。


「ケイ、こいつの無垢な寝顔に惑わされるな。フィオナは、多くの人命を奪っているんだぞ」


 口の中で言葉を転がすようにしながら自分に言い聞かせるケイの額から、冷たい汗が噴き出した。

 呼吸が荒くなり、心臓が爆音を立てるのが耳の内側で響く。途端に銃口が小刻みに震え出し、照準が定まらなくなる。

 ケイは、派手に震える己の手を凝視した。


「震えが止まらない…。そうだよな。俺、こんな至近距離から生身の人間を、それも、頭を狙って撃ったことなんか、ないもんな」


 そうなのだ。

 一年間、プロシア軍の兵士養成校で射撃の特訓を受けたが、的しか撃ったことがない。銃を生身の人に向けた経験はこれが初めてだ。

 銃撃の戦闘は生体スーツでのみ。戦う相手は機械兵器で、人間が操縦するものであっても、彼らの姿を目の当たりにして死闘を繰り広げた訳ではない。

 そればかりではない。フィオナを欺むいて彼女の命を奪おうとしている呵責が、かなりの重圧となって指の筋肉を硬直させている。


「だめだっ。撃てない」


 ケイは銃の引き金から強張って棒のようになった人差し指を抜いた。


「人を撃ち殺すなんて、俺には無理だ」


 拳銃に安全装置を掛け直してレッグホルダーに仕舞う。額から頬に流れた汗を手の甲で拭うと深呼吸して全身の緊張を抜いた。

 手足を投げ出してフェンリルの腕に寄り掛かると、ケイは焦点の定まらない目で土漠を見つめた。


「俺って、兵士として失格だよな…」


 生体スーツのパイロットに徹すればいいと己を鼓舞(こぶ)して見たものの、如何せんフェンリルが動かない。

 自分がどれだけ無力なのかを思い知ったケイの全身から一気に力が抜けた。

 ぼんやりとした表情で大地から空に目を移す。

 どこまでも続く青空が目に染みて、ケイはしょぼしょぼと目を瞬かせた。その、力の失せた目に思いもしない影を捕えて息を飲んだ。


「あ」


 一匹の蝶が青空を舞っていた。

 黒を基調とした羽を上下に振り動かしている。そのシルエットからアゲハ蝶の種と分かった。

 土漠(どばく)になど生息する筈のない昆虫だ。恐らく、花から花へとひらひらと舞っていたのが、不運にも突風に煽られてしまったのだろう。

 風に運ばれて、硬い草がまばらに生える乾燥した土地の上空を舞う羽目になってしまった蝶の姿に、ケイは表情を暗くした。

 木も生えない土漠だから鳥も見当たらない。だから捕食はされる危険はないが、小さな虫には、この荒れ地は無限の広さだ。

 無力な蝶はそのうち力尽き、アウェイオンで見かけたキアゲハの死体と同じになるのは明白だった。

 懸命に舞う蝶の姿が、養護院でケイが兄と慕った少年と重なった。


「クリス…」


 両親のいない寂しさを紛らわせようと、ケイはよくクリスに纏わりついていた。


「そう言えば、クリスに引っ付いてはよく鼻をかんで貰っていたよな。あの頃の俺って、鼻たれの小汚いガキだったっけ」


 大きな声で叫んで勉強中のクリスにしがみ付き、セーターに鼻水を擦り付けた記憶が甦る。

 困った笑顔を浮かべながらケイの頭を撫でるクリスを思い出して、口角が柔らかく持ち上がった。


「クリスは、本当に、優しかった」


 クリスは煩わしげな表情一つ浮かべず、いつでもケイを受け止めてくれていた。


「クリス、会いたいよ。何で君は、士官学校になんか行ったんだ」 


 あんなに優しい性格なのに。

 絶対、兵士になんか向いていない。なのにクリスは、兵士になって戦争に行った。

 兵士にならなければ自分の夢が叶えられないから。


「俺と違ってクリスはとても頭が良かった。だから、兵士になるのは、戦争に行くとは、どういう事か、十分に理解していた筈だ」


 悩みに悩んだ挙句、昆虫学者の夢を捨て切れずに選択した人生。

 人と人が殺し合うその先に、自分の死が待ち受けているのを承知で、クリスは命を懸けたのだろうか。


「夢を諦めればクリスは死なずに済んだんだ。こんなクソみたいな戦場で命を落とすことなんてなかった。夢を諦めさえすれば…。でも、そんな人生、クリスは望んでいなかった」


 だけど、人の命と引き換えに叶えられる人生って、どんなものだろう。

 クリスは賢い。だから分かっていた筈だ。

 それが自分の進むべき道ではないと。

 クリスが戦死したとの通知を受けた時の園長や他の保育士の表情が死人のように青白かったことを、ケイは今更のように思い出した。

 幼な過ぎて分からなかったが、あれは後悔と贖罪の表情ではなかったのか。

 そして。ケイが兵士になると宣言した時の先生たちの複雑な顔。

 あれは、口にしてはならない言葉が浮かんだ時の表情だ。


 兵士になったら、この子も戦死してしまう。命を無駄に散らせてしまう。


 分かっている。

 けれど、引き留めれば養護院の運営が成り立たない。

 

 養護院での生活は厳しかった。

 粗末な食べ物と着古しの服。園長は資金不足で院の運営に頭を悩ませていたに違いない。


「そういえば、院で育った子供が兵士になれば国から助成金が出るって、軍に入隊してから知ったんだっけ」


 長い戦争(ロング・ウォー)で、兵士、特に消耗品の歩兵はいくらでも必要だからだ。

 士官学校に行けるくらい優秀な人材を輩出したなら、助成金はかなり増額したかもしれない。


「もし、そうだとしたら、クリスは自分の夢の為じゃなくて俺達の生活の為に、兵士に志願したのかな…」


 蝶はまだ空を飛んでいる。その姿は、虚空で足搔いているようにしか見えない。


「無駄なのに。小さな羽をあんなに動かしたって、どこにも行けない」


 ケイは虚ろな瞳で蝶を追った。さっきよりも高い空を飛んでいる。

 その姿に、思い切り目を開く。


「あの飛び方、もしかして、風を捕まえる為…」


(そうだよ)


 優しい声がケイの耳元に甦った。


(昆虫はとても小さいだろう?だから行動範囲は狭い。けれど、新天地を求める昆虫も少なからずいる。蝶にもいるよ。彼らは風に乗って飛んでいくんだ)


(しんてんちって何?)


(ここではない、遠い遠いどこか。新しい世界だ)


 クリスと一緒に昆虫図鑑を見ているケイが目を大きく見開いた。


(何でそんなに遠い所に行くの?危なくないの?)


(何でかな。冒険したいんじゃないかな。もっと自由な場所に行きたいんだよ。危ないのは十分承知の上さ。見たことのない土地、見たことのない草花、それから新しい仲間にどうしても会いたいんだよ。そうだ。すごく美味しい花の蜜を探しに行くってのもあるかな。危険を(かえり)みずにさ)


(そうか。美味しい食べ物を探しに行くためにボウケンするんだね。それなら分かる!)


 目を輝かせているケイの頭をクリスは可笑しそうにポンポンと叩いた。


(厨房に忍び込んで、ふかし芋のつまみ食いをするのがケイの冒険かい?その冒険は園長先生に見つかると怒られちゃうから、ほどほどにね)


 懐かしい情景が目の奥から消え、空の青さが飛び込んできて、はっとした。

 青空に吸い込まれたかのように、蝶の姿が小さくなっている。

 あんな高度を蝶は飛べない。だとしたら。


「風を、捕らえた?!」


 立ち上がって、曲げられるだけ首を曲げて空を仰ぐ。


「蝶よ飛べ!その身が朽ちたら風になって、ここではないどこかに、新しい世界に飛んでいけ!」


 ケイの両目から溢れ出した涙が頬を伝った。

 あの蝶がクリスの魂であれと切に願いながら、ケイは蝶が視界から消え去るまで手を振った。





 肩に軽い衝撃を感じて、フィオナは地面から頭を持ち上げた。

 半分開いた目に青空が染みる。


「うん…。何よ?」


 上半身を持ち上げて嫌そうに目を瞬かせると、少年の土埃に塗れた横顔が視界に飛び込んでくる。


「いつまで寝ている気だ。二十分も経ったんだぞ」

 

 少年が腕の時計に目を落としながら不機嫌な声を出す。

 フィオナは自分の隣で居心地悪そうに胡坐を掻いている少年の顔をじっと見た。

 

(こいつ、背格好からすると、自分よりも年上みたいだ)

 

 だけど。

 フィオナは俯くと、くっくと含み笑いを漏らした。


「何だよ?」


 少年がぎろりとフィオナを睨む。ガン飛ばしているのだろうが全く迫力がない。

 それどころか…。


「あ――はははは!!」


 フィオナが腹を抱えて笑い出した。その姿を、ケイが薄気味悪そうに眺める。


「だから、何なんだよ?お前、地面に落ちた時に頭打ったのかよ?それで、そんなに」


「うるさい。この泣き虫」


「は?」


 フィオナはものすごく意地悪な表情を作って、ケイの顔を指差した。


「あんた、あたしが寝ている間、ビービー泣いてたでしょう?埃まみれの顔に涙の痕がくっきり残っているんだよ」


「…え、えええ?!」

 

 フィオナの言葉に、ケイの顔が一瞬で赤くなった。



今年も宜しくお願いします<(_ _)>


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