出会い ※※
第二章からは登場人物も多くなり、物語が交錯していきます。
暗闇の中を走る。
濡れた土と落ち葉で足が滑る。ひやりと冷たい足の裏の感触に、自分が素足で走っているのだと分かる。細い道の両脇から小枝や植物の葉が突き出して、顔と身体に鞭打つように当たる。
荒れた小径が獣道だと気付いてから、どれくらい経つだろう。時間の感覚がはっきりしない。
もっと速く走らなければ。
足の動きがもどかしくて、思わず身を屈めて両手を地面に置いた。途端に両手が獣の前足に変化した。
退化なのか、それとも進化したのか。
直立で走る負荷から解放された全身の筋肉が、喜々と乱舞し躍動する。
黒い頭髪が波打った瞬間、あっという間に全身に広がり獣の体毛へと変化した。
茶色の瞳に尋常ならざる力が宿るのを感じると、己を取り巻く夜陰は姿を消し、進むべき方向を白い光が照らした。
四本の逞しい足が大地を大きく蹴り始めると、闇が瞬く間に身体の後方へと消し飛ぶように去って行く。
獣になった身体が、人の身体の構造では決して出せないスピードに酔いしれる。
悦楽に浸りながら、ケイは鬱蒼とした黒い森から踊るように飛び出した。
巨大な月が、闇夜の地平線に半身を埋めて白く輝いていた。
月光に照らされて銀色に染まった延々とした草原をどこまでも走ってみる。
身体から、何かがすうっと、抜け出る感覚を覚えた。前足を草原から離すと、すぐに人の形に戻った。 両手を広げ、指の関節を動かしながら立ち上がる。
さわさわと風に流れる草に足を埋めながら暫し佇み、周りを見渡す。足を撫でる柔らかな草の他に何もない。
突然、目の前に後ろ姿の獣が現れた。大きく歩を進めて自分から距離を取ると、獣はこちらに向き直った。
銀灰色の毛に覆われた大きな躯体が同色の月に溶け、瑪瑙の如く輝く瞳だけがきらきらと光っている。
(この獣を俺は知っている)
獣に近寄ろうとして踏み出した足を引っ張られた。
下に目をやると、足元の草が伸びて足首に巻き付いている。そのまま勢いよく繫茂していく草は、自分の身体だけでなく獣の全身をも覆い隠し始めた。
獣は自分から身を隠そうとしている。今、見失ったら、もう二度とその姿を現さないだろう。
絡みつかれた草を振り解こうとして、足を思い切り持ち上げた。一本一本は細くて柔らかそうに見える草だが、捻じれて複数の束になって離れない。まるで足首に縄を掛けられたようだった。引き抜くつもりが逆に引っ張られ、重心を失って、顔を地面に打ち付けるような格好で転んだ。
倒れたままの格好で、右手を前に突き出して、ケイは獣の名を呼んだ。
「フェンリル!」
名を呼ばれた獣が全身を震わせた。
はらりと草が地面に落ちて、大狼がその姿を現した。
見事な銀色の毛皮で覆われた立派な体躯が、長く太い大きな四本の足に支えられて屹立している。ふさふさした尻尾を揺らしながら、黄色い瞳が真っ直ぐにケイを見ていた。
「フェンリル」
掠れた声で、ケイはもう一度、その名を呼んだ。
大狼がゆっくりと足を動かす。少しずつ、ケイに近づいて来る。草の上に這いつくばったまま、ケイは手を伸ばした。フェンリルの鼻先がすぐ傍にまで近寄った。
震えながらそっと差し伸べた手の、中指と人差し指の先で、フェンリルの鼻筋を優しく撫でた。
フェンリルは、ケイの肩に自分の大きな頭を乗せた。ケイが優しく狼の太い首に腕を回した。狼の鼻が、頬にそっと押し付けられる。冷たくてしっとりとした感触がくすぐったい。
ケイは、フェンリルの頭を、そっと抱き寄せた。
「こんにちは。やっと、会えたね」
「ケイ」
誰かが自分の名を叫んだ。
「ケイ、ケイ!」
繰り返し繰り返し、悲痛な声が、ケイが走って来た暗い森から響いてくる。
思わず後ろを振り向いた。
同時に強い光で視界が塞がれ、今まで目に映っていた風景が一瞬で掻き消えた。




