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青の戦域    作者: 綿乃木なお
第六章 エンド・ウォー
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カットグラス

ムゲンに支配された状況を打破する為に京太が取った行動とは…。


「ムゲン、今日は何だかやけに腹が空くんだ。だから早めに食事を取りたい。二番のゲートを開けてくれ」


 陰鬱とした声を出すと、京太はカメラから視線を落として身体を固定しているバックルをカチャカチャと音を立てていじり始めた。


「第二ゲートですか。少し遠いですね。空腹が激しいのなら、食事はいつもの食堂で取った方が良いのではないでしょうか」


 案の定、ムゲンが難色を示した。だが、その返事は想定内だ。


「毎日同じ場所で栄養ゼリーのパックを啜るんじゃ、あまりに味気なくて気も腐ってくる。たまには別の食堂で食事がしたいんだよ」


肺からありったけの息を吐き出しながら、京太はひどく悲しげな顔で天井を見上げた。


「了解しました。二番ゲートを開きます」


「ありがとう、ムゲン」


 折り畳み式のコンピュータタブレットを胸ポケットから取り出して、防火板が下ろされていたゲートを確認する。確かに第二ゲートに繋がる通路が開いていた。


(よし。うまくいったぞ)


 あまりに覇気のない表情と気も腐るとの言葉に、ムゲンは京太の精神状態がいつもより不安定と分析したようだ。


(これなら、きっと…)


 京太は腰のバックルを外すと、手すりを伝いながら泳ぐようにして通路を移動した。

 第二ゲートの食堂は研究棟と繋がっていて、京太の目当てのものがそこにある。


(ムゲンに気付かれないように、慎重に)


 慌てず、急がず。どうせ時間は腐るほどあるのだ。

 疲れた表情を崩さずに無重力の中で身体を左右にふらつかせ、手すりの金属バーを這うように前進する。自分でも苛々するくらい時間を掛けて、第二ゲートの食堂に着いた。

 ドアの真ん中にふわりと足を下ろして、アクリル板の透明の板が音もなくスライドした。研究棟の食堂の中に入った京太は、周りをぐるりと見渡す。

 重力装置の故障で新ステーションが無重力になるのに備えて、居住区域の通路となる第三ゲートの食堂やカフェ同様、椅子とテーブル、食品や飲料の配給棚は最初から壁や床に固定されている。

 ただ一つ、第三ゲートの食堂にはないものが置いてある。


「今日は久しぶりに固形のものが食べたいな」


「大豆のパテで作られた成形フィレ肉があります」


「じゃあ、醤油味の人工肉を出してくれ。僕は食器棚からトレーを取ってくるよ」


 床に片足で着地した京太は、食器棚の引き戸を開けた。

 トレーが重なった戸棚より奥に手を突っ込む。棚から素早く手を引き抜いた京太は、腕を胸の前に突き出して手のなかに握っているものを天井のカメラに向けた。

 京太が手に持っているものがプラスチック製のトレーでないと認識したムゲンが、すぐさま監視カメラの焦点を京太の手に当ててズームアップする。


「ミヤビ、あなたが手に持っているものはグラスですね」


「ああ。見ての通り、チェコ製のカットグラスだ。ムゲン、よく見ろよ。繊細な模様がとても美しいだろう?」

 

 京太はグラスをLED電球に翳した。

 カッティングされた部分が光に当たって宝石のようにきらきらと輝く。


「最初に見つけた時には、何故こんな物が食器棚にあるんだろうって首を傾げた。事故防止の為にステーションの食器は全てプラスチック製だからね。多分、それが味気なくて誰かがこっそり持ち込んだんだろうな」


「宇宙ステーションにガラス製品を持ち込むことは禁止されています。無重力空間で割れたら大変危険だからです。違法行為だと知っていてミヤビは黙っていたのですか?」


「僕だけじゃない。口にしないだけで、この食堂を利用したことのある乗組員は皆知っていたよ」


 京太は右の頬だけ持ち上げて、皮肉めいた笑みを作った。


「宇宙ステーションで長期間生活していると、地球では何気なく手にしているものが、ここ(宇宙)には殆んどないのだと気付く。当たり前のように万物が存在するのは、僕ら人間が地球に住んでいるからだって、改めて思い知らされる。だからこのグラスを見つけた全員が思った筈だ。“何て粋な計らいをする奴がいるんだろう”ってね。皆が同じ思いでいてくれたお陰で、僕はこの発砲塞がりの状況を打破できる」


 京太は繊細なカットガラスのグラスをテーブルに叩き付けた。

 厚みのないガラスは簡単に割れて、無重力空間に飛び散り浮遊を始める。

 ギザ刃となったグラスの半分が京太の手に握りしめられていた。


「ミヤビ、それをどうするつもりですか?」


 ムゲンの穏やかな声が食堂に響く。

 のんびりとした音声に、今から自分が取る行動をムゲンが予測できないのだと確信した。


「こうするつもりだ」


 京太は割れたグラスの鋭く尖った部分を自分の首に押し当てて、さっと横に引いた。

 皮膚が切れ、小さな鮮血の粒が京太の首から顔へと浮き上がっていく。


「ミヤビ、ミヤビ、ミヤビ、ミヤビ…」


 ムゲンが京太の苗字を狂ったように連呼し始める。


「混乱しているな。そうだろう、僕の自傷行為なんか君のデータに入れていないし、学習もさせてない。メインAIのメガデータのどこを探したってないだろう。叩き割ったグラスで自傷行為する奴なんか地球上にはごまんといるだろうけど、宇宙では僕が初めてだから」


「ミヤビ、自分を傷つける行為を中止して下さい」


 穏やかで優しく語り掛けていたムゲンの口調が緊迫したものになった。重大な緊急事態が起きた場合、直ちに音声を変化させるように設定してあるのだ。

 京太は左手でズボンのポケットから楕円形の器具を取り出して、天井のカメラ付きスピーカーに向けながら怒声を放った。


「これは乗組員全員に支給されている携帯用感知器だ。ベテランのクルーとなると、メインAIにも察知できない些細な異常に気付く場合がある。そんな時には、これを翳して機械の不具合や空気の漏れが起きていないか調べるんだ。この前のように睡眠ガスを噴射して僕を眠らせる手は通用しない。それに、ここの食堂はエレベーターより面積がずっと広いから、僕まで届くのには時間がかかる。もしガスを噴射すれば、僕は二秒で自分の喉を切り裂ける」


 言っていることが嘘ではないのを示す為に、京太は再びグラスの尖った先で自分の首に直線を描いた。首筋に鋭い痛みが走った後に、熱い感覚が押し寄せた。

 顔の横に軟体動物のような形になった血液がぐにゃぐにゃと蠢きながら浮いているのが見える。


(しまった。少し深く切り過ぎたか…)


「ミヤビ!首からかなり出血しています!直ちに自傷行為を中止して下さい!」


 女性の金切り声のようなムゲンの人工音声に、京太は顔を顰めた。

 京太自身も驚いた出血量だから、ムゲンが緊急音声を最大出力にするのは当然だろう。

 だが、この行為無しでは、ムゲンを説得できる手は京太には残っていない。


「僕も、本当は、自分の首に割ったグラスを突き付けるなんてバカなマネはしたくない」


 ムゲンの第一使命がミヤビキョウタの生命維持である限り、この行為が一番有効だからだ。

 京太は割れたグラスを握り直して己の首筋に当てた。


「ムゲン!僕の行動を止めたければ封鎖した通路を開けろ。僕を君の研究棟に入れるんだ!」



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