大罪
ムゲンに放った言葉によって、世界が崩壊していくのを目の当たりにした京太。
その罪の意識から京太はある決意を固める。
宇宙ステーションに来た者は皆、口を揃えてこう言うのだ。
夜と昼に二分された地球の何と美しいことか。これほどの感動は、人生にそうあるもんじゃない、と。
太陽に照らし出された部分は、海の青と陸地の茶色と緑。三色のコントラストの上にふわりと乗った変幻自在の白雲が、ゆるゆると移動していく。
太陽に背を向けた部分、宇宙に溶け込んだ闇の大地では、数えきれないほどの電灯が空へと光を放つ。光は大量の砂金を塗したようで、四百キロメートルの上空から見ても、眩いばかりに輝いている。
昼と夜の余りの相違に、これが同じ惑星かと誰もが息を飲む。
見飽きる事のない美しい母なる星の姿は、ステーションに滞在していったどれだけのクルーを魅了していったのだろう。
だが、煌々とした灯りの下で人間が活動する夜が存在していたのは、二日前までだ。
京太の見下ろす地球の夜の大地からは電球の光の大集合体は消え、闇ばかりが広がっている。夜の地表は墨を流し固めたように真っ黒となり、昨日見たよりもさらに面積を広げていた。
光に彩られた夜が原始の闇に飲み込まれていくのを見て、京太の口から微かな嗚咽が漏れた。
「僕のせいだ」
ムゲンによって、全地球規模の高速通信ネットワーク衛星システム、メガコンステレーションを一瞬で失った米中両軍は戦闘戦略を維持できずに、呆気なく瓦解しただろう。
戦争を止めただけでなはない。
全世界を網羅する通信システムを瞬時に失って、国家は勿論、戦禍を免れた人々が手に握りしめているスマートフォンからも文字と映像が消滅した。
更に、陸、海、空の交通網も急停止する。電車が、船が、飛行機が、瞬時に針路を見失い大混乱に陥る。乗客や乗組員達がどうなったのか、想像するのも恐ろしい。
遠隔操作で動いていたインフラも同様だ。辛うじて生きていた傍系システムもメインシステムの崩壊により、次々とブラックアウトしていく。
そして。電力と情報の大半を失った都市にクラッシュが頻発し、人々はパニックに陥る。
(人々の恐怖はどれ程のものか…)
京太は髪を引き毟るようにして、頭を抱えた。
精神にかなり負荷が掛かるからと、ムゲンにモニターを全てシャットダウンされている。京太は監視衛星で地球の映像を見る権利をムゲンに主張したが、尽く却下された。
遠く離れたステーションからは想像も出来ない大惨事が、地球の至る所で起きている。それなのに、自分はステーションの窓から呑気に地球を見下ろしているだけなのだ。
「もしかしたら、衛星に関係なく動いている独立した通信システムもあるかも知れない」
呵責に押し潰されそうな京太の頭に、実に都合のいい考えが浮かんだ。
「独立した通信システムって…。ああ、そうだ。電話線で繋がれている旧式の置き型電話があるな。バカか。殆んどデジタル化されているじゃないか…」
どんな発展途上国でも移動通信システムが普及している時代だ。大時代的な置き型電話が、一体どこにあるというのだろう。
「アメリカ大統領執務室に机の上の緊急用の電話がそうだったかも…」
だからどうした。
京太は、窓に思い切り額を打ち付けた。
「僕が、壊した」
眉間が割れ、血が噴き出した。血は京太の鼻梁をなぞるように左右に別れて唇の両端へと落ちていく。
「僕が…殺した!」
激情をそのまま言葉にしてムゲンにぶつけた。
その結果が、これだ。
オオオオオ
誰もいないステーションの廊下に、突如、空虚な音が響いた。
京太は慌てて両耳を強く塞いだ。それでも一向に消えない音に表情が歪み、額に脂汗が浮かんでくる。
「この音は崩壊した世界の闇を徘徊する人々の怨嗟だ。僕を恨む無数の人達の声なんだ」
己の罪に耐え切れない心が生み出した幻聴に、京太は耳に掌を押し当てたまま背を丸めてずるずるとしゃがみ込んだ。
「ごめんなさい。全部、全部、僕のせいだ!」
止めどなく溢れる涙が頬を滴り顎へと落ちていく。
京太はしゃくり声を上げながら、血と涙で汚れた顔を床に擦りつけて、己の頭の中で鳴り止まない幻聴に懺悔を繰り返した。
五時間。それが太陽電池の修復にかかった時間だ。その間、京太は京太は真っ暗な研究棟に閉じ込められていた。
「ムゲン、まだ電池の修理は終わらないのか」
「修理用アームで破損した太陽電池を予備のものに付け替えています。もう少しお待ち下さい」
京太の苛立ちを宥めようとしているのだろう。女性の美しい声に変化したムゲンの立体音声が闇に響いた。
「修理、終了しました。只今、ステーション内部の安全を確認シテイマス。二秒程オ待チ下サイ」
ムゲンの声が途中から電子音声に変化した。メインAIと接続してステーション内に不備がないか調べているらしい。
「全テノ電源ヲONニスル」
研究室が電気の光で煌々と照らされた。京太は暗闇に慣れた目を光から庇おうと、咄嗟に手の甲で顔の半分を覆った。指の隙間から、ムゲンの球体が輝点の回転スピードを一気に上げたのが見える。
ムゲンの動きと連動するように、大画面パネルに正方形に区切られた小さな映像が次々と映し出されては消えていった。
「全室、異常ありません」
「ムゲン、地球の映像を見せろ」
語気を荒げて京太がムゲンに命令する。ムゲンは人間と区別のつかない、いつもの柔らかな立体音声で、京太に言葉を返してきた。
「ミヤビ、残念ですが、あなたに地表の拡大映像をお見せすることは出来ません。現在、あなたの心はかなり不安定になっています。そのような精神状態で地表の映像を見てしまうと、ショックから突発的な行動を取ってしまう可能性があります」
「語彙が随分と増えたね」
ムゲンが今まで見たことのない引き攣った笑みを、京太は顔に浮かべた。
「僕が突発的な行動を取るって?ははは。宮尾京太がステーションから宇宙に身投げでもする確率が高くなったって言うのか?ムゲン、君は言葉をオブラートに包んだつもりだろうが、全くもって嫌味な言いようにしかなっていないよ。発汗や呼吸の荒さで僕の精神状態を測っているのだろう?でもね、人間の感情はそんな数値だけで測れるものじゃないんだ」
そう言い捨ると、自動ドアが復活したムゲンの実験室を京太は急いで飛び出した。
「ミヤビ、どこへ行くのですか?」
廊下を走る京太をムゲンの音声が追い掛けて来る。
「居住区域のロビーの通路だ」
ムゲンに不信感を与えないように正直に答えてから、京太は天井に五メートルの間隔を開けて設置してあるスピーカー付きセンサーカメラに視線を走らせた。
金属のパネルの天井に設置されているのはカメラだけではない。三メートごとに消火装置が取り付けられ、五メートルごとに通路を遮断する為の金属板が収納してある。
宇宙ステーションでの一番の脅威は周辺を飛び交う大型のデブリに衝突される事故だが、火事も同様に恐ろしい。
ステーションが何らかの事情で出火した挙句にあちこちに燃え移るという最悪の事態を起こせば、真空の宇宙空間に人間が生身で逃げられる場所はどこにもないからだ。
研究棟を抜けると、居住区域まで一気に走った。
一番近くにあるエレベーターに乗って最上階のボタンを押した。
「あの場所からなら、見える」
ロビーとエレベータを結ぶ短い通路に設置された小さな丸窓を京太は目指した。
旧ステーションの上に増設されたドーナツ型のステーションの最上階に、小さなカフェ付きのロビーがある。
デブリの衝突が深刻化するまえに、新旧ステーションの周りに金属ネットが張り巡らされた。
ネットで安全は確立されたが、肉眼では宇宙や地球を見る事は叶わなくなった。
その筈だが、設営時にどのようなミスがあったのか知らないが、ネットにはたわんだ部分が一か所ある。そのたわみのお陰で、重力を作り出す為に自転しながら地球を回る新ステーションのロビーと廊下の丸窓から二十数秒間、ネットで遮られない地球の全容を見ることが出来るのだ。
ステーションの乗員は皆、この窓から唯一肉眼で見える地球が、「最高の地球だ」と、口を揃えた。
「最高の地球」見たさに、クルー達は、どんなに遠い実験棟からでも居住区域の最上階のロビーにやって来る。
それは金属板と機材に囲まれた空間で暮らしているのと無関係ではない。
圧迫感から逃れたくて、自然とそうなるのだ。
それでロビーには、多国籍の宇宙飛行士達が入れ代わり立ち代わり訪れる。
自然と交流の場が生まれ、恋人との出会いが生まれる場にもなった。
京太は、「最高の地球」を眺めるようと、窓を訪れる機会を作った事はなかった。
何故なら、人と交わるのが苦手だからだ。苦痛と言葉を変えてもいいくらいに。
ロビーのカフェをたまに訪れることがあっても、人で埋もれている丸窓に近付こうとは、決してしなかった。
クルー同士の会話に入れないまま宇宙食を口に放り込みながら、誰かが話す会話に何となく耳を傾けているので十分だった。
(それが、どうだ)
これから京太は誰に遠慮することもなく、ステーションの特等席である複層強化ガラス丸窓の前に陣取って、思う存分地球を見下ろすことが出来るのだ。
(何て、皮肉だ)
自分の犯した過ちをどう償えばいいのか。
(ムゲン。僕は、お前を…)
京太はうつ伏せに倒れていた身体をゆっくりと起こしていった。
最後に、血だらけになった顔を床から引き剥がす。
(お前を破壊する!)
強く噛みしめた唇から血が滲むのも構わずに、京太は充血した目で天井のカメラを睨み付けた。




