狂人
宇宙ステーションを離れる為に脱出ポッドに乗り込もうとするカートライト、フォルト、カルロ。
拘束されたままの京太に、アシュケナジが驚愕の行動を取る。
カルロの口から自分の名前を出されても、アシュケナジはやはり無表情のまま京太の顔を眺めている。
そんなアシュケナジの様子に、カルロが気を落としたように声を顰めた。
「酸素不足のせいで、ファンは脳に障害を起こしてしまったようなんだ。知能はおろか人格も変質してしまった。本当は少しでも早く地上で精密検査を受けさせたくて最初のポッドに乗せたかったんだが、どうしても俺達と行動を共にしたいと言って聞かなくってな。それで最終便のポッドで一緒に帰還することになったんだ」
そう話すカルロの声には、友人の優秀な頭脳を失った悔しさが滲んでいた。
食堂でも、カルロは激しく憤り、絶対に復讐すると息巻いていた。カルロの怒りは今やアメリカ合衆国の怒りとなっているのだろう。
あの広い国土に憤怒の荒しが吹き荒れ、それは京太のいる宇宙空間にまで膨れ上がっている。
「全員揃ったな。すぐに脱出ポッドに搭乗するぞ」
カートライトが手にしたタブレットを見ながら、脱出ポッドの最終搭乗者である四人を見渡した。
「あと三十分で、メインAIが我々が乗り込むポッドをステーションから切り離す作業を開始する。ポッドの着水地点はナンタケット島から東へ百三十メートルの付近。緯度四〇・五、経度七〇。誤差は±八・二メートル。これはメインAIとムゲンが導き出した座標だ。計算によると、着水時の波と風は穏やかな状態で、救助に掛かる時間も最短で済むそうだ。何より我が国の領海内なので敵に攻撃される恐れもない。安心して地球に帰れるぞ」
敵に攻撃を受けないというカートライトの言葉に京太はほっとした。
「バリオーニ中尉、手首が痛い。早く拘束を解いてくれ」
「まだだ。ポッドに乗るまで我慢しろ」
カルロは弱々しい声を出して哀願する京太の背中を、喜々として殴りつけた。
「これからステーションを脱出する人間が、どこに逃げるって言うんだ?」
いつもは大人しい京太も、さすがに腹を立てた。
ここで抵抗しても、サディストに再び手を上げる口実を与えるだけだ。
仕方なく歩き出した京太を、アシュケナジが眉一つ動かさずに凝視している。
(何だよ、この男。いつまで僕を見ているんだ)
京太はその場に立ち竦むように足を止めて、アシュケナジの頭から足へと視線を上下させた。
短く整えた黒髪。形の良い眉の下に青灰色をした大きな瞳が光る。鼻梁は高く唇は薄い。
端正な顔立ちと言っても差し支えないだろう。
隣にいる長身のカートライトよりも幾らか上背がある。
(百九十センはあるかな)
だとしたら、京太より十五センチ以上背が高い事になる。
身体はカルロのように分厚い筋肉で覆われてはいないが、軍人らしく引き締まった体つきをしていた。
「おい、ミヤビ。止まるんじゃない。さっさと歩け」
後ろからカルロに突き飛ばされて、京太はよろけるようにタラップへと足を進めた。カルロがすかさず京太の背中を押す。
両手を後ろで拘束されている身体がバランスを崩し、自分を凝視する男に頭から突進する格好になった。
足に力を入れて、アシュケナジの胸と腹にぶつかりそうになるのを何とか堪える。
後頭部に視線を感じて顔を上に向けると、上から見下ろしているアシュケナジの目と京太の視線が至近距離でかち合った。
慌てて顔を下に向け、屈み腰をまっすぐに伸ばす。今度は、アシュケナジの胸元が視野に飛び込んできた。
自分を見る男の身長が目測通りだったと京太は考え、それからアシュケナジとの近すぎる距離を是正するべく、大きく一歩、後ろに下がった。
京太の動作と連動するように、アシュケナジの瞳も動く。
(薄気味悪い男だ)
自分の一挙一動を全て目に収める長身の男から離れようと、京太は後ろ手になっている己の身体を捩った。
「暴れるんじゃねえよ。ポッドに入ったら拘束を解いてやるって言ってるだろう?」
抵抗されていると勘違いしたカルロは、京太を大人しくさせようと、後ろから鷲掴みにしている手に一層の力を入れた。
リンゴを握り潰すほどの握力が自慢のカルロに肩と腕を握り込まれ、京太が激痛に呻き声を漏らす。京太を締め上げているカルロの正面にアシュケナジが静かに近付いて来た。
「カルロ、その男を離せ」
アシュケナジがひっそりとした声でカルロに言った。
声はゆっくりとした低音で、小さな呟きにしかならなかった。
蟹の口から噴き出す泡のようではあったその言葉は、アシュケナジに全神経を集中させていた京太には、しっかりと聞こえた。
(離す?)
思いもしなかった言葉がアシュケナジの口から飛び出たのに驚いて、京太は目を大きく見開いた。
「え?}
残念ながらカルロにはアシュケナジの声が届かなかったようだ。
それでもすぐ近くにいたので、アシュケナジが何か言ったのは分かったらしい。カルロはアシュケナジに聞き返した。
「ファン、お前、今、何か言ったか?」
「ミヤビ・キョウタを離せと言ったんだ」
「は?」
カルロが首を傾げる。二人のやり取りに気が付かないカートライトがタブレットのキーを押して号令を掛けた。
「メインAIから調整終了のサインが届いた。さあ、ポッドに乗り込むぞ。最初はフォルト博士からだ」
「もう一度言う。カルロ、ミヤビを離せ」
「お前、何言っているんだ?」
アシュケナジは、京太の後ろで要領を得ずにぽかんと口を開けて突っ立っているカルロに体当たりを食らわせた。
「わっ!」
倒れたカルロの制服のポケットから、アシュケナジが拳銃を奪い取る。手にした拳銃のトリガーを、まだ床に仰臥しているカルロの左胸に向けて躊躇なく引いた。
「何だ!どうした!」
突然の銃声に、カートライトとフォルトが後ろを振り返った。撃たれたカルロが床に横たわっている姿が二人の目に飛び込んでくる。
「アシュケナジ!気でも狂ったか?!」
身を屈めたカートライトが腰の拳銃に手を伸ばした瞬間、アシュケナジは彼の眉間に銃弾を撃ち込んだ。
「うわあぁっ」
眉間から噴水のように鮮血を噴き上げて床に崩れ落ちるカートライトを見て、フォルトが悲鳴を上げる。逃げようとして足をもつれさせ、うつ伏せに転んだフォルトの背中にアシュケナジが銃弾を放った。
あっという間の出来事だった。
床に血を流しながら倒れている三人の男を見渡した京太は、自分のすぐ傍に立っているアシュケナジを呆然と見上げた。
最初に青灰色の眼球がぎょろりと動いて京太を見据えた。次に首が、最後に身体が京太の正面を向いた時、京太は全身を震わせながら床にぺたりと尻を付いていた。
「た、たすけ、て」
歯の根の合わない口から、京太は必死で声を絞り出した。
「お前は殺さない」
アシュケナジの落ち着き払った口調が京太の恐怖心を増大させる。
「な、な、な、なんで、みん、な、を、ころし、た?」
「お前をステーションに残す為だ。ミヤビ・キョウタ」
腰を抜かしてガタガタ震えている京太を見下ろしながら、アシュケナジが静かに言った。周りの凄惨な状態とかけ離れたアシュケナジの酷く落ち着いた態度に、京太は息を飲んだ。
「僕を、ステーションに残すって?一体何のために?」
「それを今、お前は知る必要はない。だが、これだけは伝えておこう。今ここで起こった出来事は、遥か彼方の未来から投げ込まれた一つの賽なのだ」
(賽だって?こいつ、何を言っているんだ?さっぱり意味が分からない)
理解出来るのは、アシュケナジの脳はカルロが憂慮したよりももっと酷い状態になっているという事だ。
何の躊躇もなく自分の仲間を殺してから、京太に向かって妄言を吐くくらいに。
(狂ってしまったんだ)
京太は恐怖に顔を歪ませながら、ただ、アシュケナジを見上げるばかりだった。




