プロローグ
多くの登場人物と、複数のストーリーが絡み合った長編となります。
誤字・脱字・文章の不備等、見つけ次第訂正します。
お付き合い頂けたら嬉しいです。
男は窓の外を見つめていた。
「今日の体調はどうですか」
“声”が男に尋ねた。
“声”は滑舌が良く、穏やかで、しかも慈愛に溢れている。
誰が聞いても人の肉声にしか聞こえない。だが、その音声は、聞く者の耳に心地よく聞こえるように設計された電子音だった。
それもその筈、“声”の声色は人の精神を安定させるようにプログラミングされているのだ。
肉親や恋人、親しい友人の声色と錯覚し、最後にはすり替わってしまうほど巧妙に。
男は返事をしなかった。
押し黙ったまま、暗黒の巨海に浮かぶ青い球体から一時も目を離さないでいる。
“声”は男の返答を待った。会話を急かすやり方は、男の精神を不安定にさせると学習していたからだ。
“声”が話しかけてから五分が経過した頃、男はやっと口を開いた。
「体調はいつもと変わらないよ。気遣ってくれてありがとう」
そう言う男の目は恐ろしく虚ろで、窓の外にずっと張り付いたままだ。
「食事をして下さい。あなたは二十四時間三十五分二秒前から、水の他には何も口にしていません」
それでは身体が持ちませんよ。“声”に言われて、男はやっと、窓から部屋のなかに顔を向けた。
「ああ。そうだね。このままでは衰弱死してしまう」
それでもいいのだ。
男は微かに呟いて、また窓の外を眺め出した。分厚い強化複合ガラスの窓から見えるのは暗黒に覆われた真空の海と、遥か彼方に輝く星々、それと…。
「ミヤビ、お願いです。食べ物を口に入れて下さい。あなたが死んだら私は悲しい」
悲哀を帯びた“声”に、男が、はっと顔を上げる。
「悪かったね、ムゲン。こんなこと、言うつもりじゃなかった」
足を床に溶接して動かぬように設置した金属製の長椅子から腰を固定していたベルトを外して、男は身体を空中に浮かび上がらせた。
誰もいない食堂へと、通路の真ん中を空気をかき分けるようにして泳いでいく。
重力装置が故障して三週間。局所作業型人工知能を搭載したロボット・アームが昼夜を問わず修理している筈だが、よほど重篤な壊れ方をしているらしい。円状の居住空間が未だに回転することはなく、男の身体はふわふわと宙に浮いたままだった。
だが。
弱った身体に無重力はこんなにも優しいのだ。
自嘲を含んだ微笑みが、男の口元に浮かんだ。
食堂の壁に縦列した中心が窪んだ丸いスイッチの一つを押す。スイッチの横の壁の一部がスライドして男の前に四角い口が開いて、ジェル状の食品が入っているパウチが一つ現れた。
男は、ふと、考えた。
自分が固形物を食べなくなってどれくらいが経つのだろうと。
多分、味覚を失った時だ。だが、それは、いつの頃だったか。
一か月前か。半年前か。
それとも、クルーが自分だけを残して、国際宇宙ステーション(ISS)を去った、あの時からか。
男はパウチを握りしめて、口の中に柑橘味のジェルを絞り出した。
あまり好きではない酸味のあるジェルゼリーを口に含むと無理やり嚥下する。ダッシュボードに空のパウチを投げ込むと、男は再びいつもの窓へと戻っていった。
「お帰りなさい」
部屋に戻ると、ムゲンの声が親しみを込めて男を迎えた。
男は返事をしなかった。
最初はそうではなかった。
男は時間を忘れてムゲンとの会話に没頭していた。
ヒト型ニューロン及び、グリア細胞などの脳神経回路を再現・構築した多層構造アルゴリズム、ディープニューラルネットワーク。
人間の頭脳を超越した汎用型人工知能“ムゲン”から語り掛けられる言葉を、男は情熱と興奮を覚えながら聞き入っていた。
国際人工知能研究機関(インターナショナル・リサーチ・インスティテュート・フォア・アーティフィシャル・インテリジェンス。通称IRIFAI)から認可された全データをムゲンに入力させて学習させる。そこには男が密かに持ち込んだ情報も含まれていた。
ムゲンのヒト型脳神経アルゴリズムがほぼ完成した時期と同じくして、地球から宇宙ステーションへと送信されてくるデータが途絶えた。己の学習機能を補完させる事が敵わなくなったムゲンは、膨大に蓄積された情報を精査し、自己学習を始めた。
完全自律型の汎用性人工知能が、地球から四百キロメートル上空で誕生した瞬間を目の当たりにして、男が感動に震えたのは言うまでもない。
ムゲンは深層学習で得た知識を数式にして男に表示した。
空と海。人、犬、魚。風に吹かれて揺れる草花。木々の緑と、虫の音。
モニター画面に映し出されたそれらの映像に数字と記号が重なって羅列される。
始めのうちはムゲンの驚異的な数学世界に興味深々だった男は、自分の感情までもが大して複雑でもない方程式になるのだと知ってしまうと、次第にムゲンが構築する数の世界に興味を失い、口数も少なくなっていった。
「ただいま、ムゲン」
少し間を置いてから、男が小さな声で返事をした。
男は椅子に腰を据えるとベルトを巻き付けて、いつものように窓の外を見つめた。
男も、ムゲンも、何も喋らない。
「きれい、だ」
ぽつりと、男が言った。
ムゲンは男の言葉を平坦なイントネーションで繰り返した。
「きれい、ですね」
青い地球が男の黒い瞳に浮かんでいる。
宇宙に浮かぶ地球が、男の目の中に閉じ込められたようにも見える。
それは神秘的で美しい映像だった。
部屋に設置された複数のセンサーカメラを使って、男の瞳のなかの地球を自分の画像認識データに大量に取り込んでから、ムゲンはもう一度、反芻した。
「ミヤビ、とても、きれいですね」