ユーリーの苛立ち
「メイ博士。あなたは、生まれたての赤ん坊を連れて、アメリカ大陸に渡るというのか」
非難を露わにしたユーリーに、決意を込めた表情でララが無言で頷いた。
「エンド・ウォーの災厄で、あの地は完全に壊滅しているだろう。アメリアがいない今、それは無謀な行動ではないのか?」
落ち着いた口調で話せたと思った。彼女の目が、きつく握りしめた自分の拳から離れないのを見て、動揺しているのがララに見透かされているとユーリーは知った。
「確かに、あなたの言う通り、無謀かも知れないわね。アメリカはエンド・ウォーの主戦場になっていた地ですから。それでも、私は先祖の地に帰る。そこでアレクサンドラを育てる。あの地で文明が廃れているのなら、私達が復活させる。それがアメリアと私の願いだから」
燃えるように輝くララの紫色の瞳がユーリーを直視する。これ以上何を言っても無駄なのだと、ユーリーは改めて感じた。
「あなたが言い出したら聞かない性格だというのは、バートン博士から聞いて知っている。だから、無理に引き留めることはしませんよ」
わざと大きな溜息をついて、ユーリーがララから目を逸らす。
「それに、行動を起こすには、今しかないのも事実だ」
難攻不落と謳われたモルドベアヌ基地が、敵スーツの電撃戦によって基地内部の大電力を破壊され、ウォーカーの求心力が落ちている今、が。
「ええ、そうよ。私はこの機を逃さない。モルドベアヌ山の岩盤に守られらながら、無駄に年を重ねていくつもりはないわ。この子の為にも」
ララは、眠っているアレクサンドラを、そっと抱きしめた。
ソファに深く腰を下ろしたウォーカーは、上体を屈めて両肘を自分の腿に乗せ、組んだ両手を口元に押し付けていた。
秘書に持って来させた紅茶には手を付けず、ただユーリーを無表情に見据えている。
冷静さは取り繕っているものの、その目には全く力が感じられなかった。
胡乱という言葉を使った方がしっくりする。
(さすがにショックが隠せないようだな)
当たり前だ。敵のスーツの奇襲攻撃で、モルドベアヌ基地の三分の一に当たる大電力を失ったのだから。それと、多くの機械兵器と生体兵器を。
(俺も、ウォーカーと同じ目をしているのだろうな)
ロボティクスの天才、バートンを失い、脳科学者のワンリンは戦域で行方不明のままだ。
そして、ララは、バートンの忘れ形見と共に、基地を永遠に去ろうとしている。
「まさか、我が軍が、死に体だったはずのプロシア軍に惨敗するとはな…」
先にウォーカーが沈黙を破った。いつまで経ってもユーリーが口を開かないので、しびれを切らしたらしい。
「それで、今後の対応はどうするのだね」
ウォーカーはだんまりを決め込む正面の若者を睨み付けながら、恐ろしく低い声を出した。
その目には、ユーリーに作戦を委任したのは間違いだったとの避難の色が、ありありと浮かんでいる。
ユーリーは、苦り切った表情をした壮年の男の視線を黙って受け止めるしかなかった。
「そうですね…」
策は、ないことは、ない。だが、それを口にしていいものか、迷いはあった。
(しかし、ここまで来て、悠長なことは言っていられない)
共和国連邦軍など、二十世紀に活躍した稚拙な軍事力しか持ち得ていない。
(バートン博士がアメリカ軍とロシア軍が長い間秘匿していた戦闘ロボット技術を蘇らせた時、俺は、長きに渡る戦闘が軍事同盟軍の勝利で終わると確信したのだ)
ロング・ウォーが終焉すれば、全てが変わる。
ガグル社への技術依存を牙城にして身分制度で支配した時代へと、歴史を逆回転させている共和国の腐った体制を瓦解させれば。
軍事同盟軍、特にアメリカ軍が共和国連邦軍の中枢を排除すれば。
ヨーロッパの国々は否が応でも新しい世界の構築へと舵を切るだろう。
そうなれば、一体誰がこの世界の真の支配なのか、どんな人間でも気が付くことになる。
特権階級と彼らと結託したガグル社の中央集権的組織に視線が注がれれば、自分達がどれだけ搾取されてきたかを知り、反発を生む。
打倒せよとの声が大多数の貧しい大衆に上がるのは、あっという間だ。
おこし火となった彼らにバートンの開発した武器を与えれば、巨大な大火となってヨーロッパ全土を駆け巡る。
高度な技術力を誇るガグル社ですら、濁流の如く攻め入る大勢の前には無傷でいられないだろう。
だから、ニコラスが激しく反対するのを顧みずに、ユーリーはニドホグを改造して戦域の空に飛ばした。
本来、ニドホグは、ティンダロスのような戦闘用の人工生命体ではない。
あれは、もっと、創造的な生物だ。
地球上の生き物の在り方を変えてしまおうと、ユーリーが長い時間をかけて生み出した奇跡のキメラ生物なのだ。
(それがどうだ)
プロシア軍は、ガグル社から多大なる援助を受けて、無敵と思えたアメリカ軍の機械兵器よりも高性能な戦闘スーツを開発していた。
(さすがに俺も、そこまでは、想像しなかった)
そして、自分の計画に最も必要なバートンを失った。
(アシュケナジ!)
ユーリーの前に、あの男の顔が目の前に浮かび上がった。
男の名が喉元までせり上がってくるのを必死で飲み込んで、ぎりっと奥歯を噛みしめる。
(まさか、あいつが、プロシア軍に、生体スーツの技術を渡すとは)
十年前、ガグル社は、哺乳類の脳の神経細胞を情報化して三次元コンピュータに組み込む原理を確立した。
人間の脳と動物の人工脳をリンクさせることで、地上最強のパワードスーツを誕生させれば、エンド・ウォー以後の地球上で、ガグル社に敵う体制は未来永劫現れないだろう。
(あれは、ガグル社を守る為に創られた技術なのだ。それを、あの男は…。いや、あいつが、まさか…)
エンド・ウォー以後の世界に興味を持つとは、一瞬たりとも考えたことはなかった。
(天空しか興味のない、あの男が)
アシュケナジはいつも空を見上げていた。
昼も、夜も、アシュケナジの関心は、宇宙だけだった。
近寄って来る人間など誰も気に留めず、全く興味がない。
だから。愛を乞う幼子など、あの男にとっては虫ほどの存在しかなかったろう。
(いや。虫けら以下だった…)
昔の記憶を蘇らせたユーリーは、唇を醜く引き攣らせた。
あの男の顔が、声が、そして言葉が脳裏に甦る度に、ユーリーの心に凄まじい嵐が吹き荒れる。
長い時間の間に怒りは圧縮され、タールのように黒くべとつき、ユーリーの隅々まで行き渡った。
この肉体のどこを切っても傷口から噴き出すのは赤い鮮血ではなく、漆黒の憤怒が粘液となって、だらだらと流れ出すのだろう。
(憎しみを忘れようと、ルドベアヌまで逃れても、向こうから追いかけて来る)
逃げはしない。相手を滅ぼすまで戦うだけだ。
ユーリーは正面に座って自分に目を据えているウォーカーを、しっかりと見返した。