母の愛
ユーリーのそっけない物言いに、ニコラスはむっとした。
「君に言われた通りに、フィオナを探していたんだよ。で、君は何でここに?」
「フィオナを見つけるには、メイ博士の病室に来た方が早いと思ったからだ」
「だったら、僕がフィオナを探す前にそう言ってくれ。こっちは、基地の中をあっちこっち、ずっと駈けずり回っていたんだぜ」
「お前が研究室を出た後に気が付いたんだ。まあ、いい運動になったろう」
「……」
噛み合わない会話に虚しさを感じたニコラスは、溜息を吐いて口を閉じた。
「ファーザとニコ、またケンカしているの?」
ユーリーとニコラスの間に不穏な空気が漂い始めたのを感じたフィオナが、心配そうに交互に二人の顔を見つめる。
ララはフィオナの強張った表情を見て、胸が張り裂ける思いがした。
(可哀そうなフィオナ。物心ついた時から、ユーリーとニコラスが言い争いをしているのを、どれだけ目にしてきたことか…)
育て方が甘いと言っては、ユーリーはフィオナの前でニコラスを叱咤してきた。
ある時は謝り、ある時は、その高圧的な態度に耐えかねたニコラスがユーリーに反論する。見兼ねたアメリアがユーリーに意見する事もあったが、彼は全く意に返さない。
その様子を見ながら育った幼いフィオナは二人の不和の原因が自分にあると思い込み、いつしか自分を責めるようになったのは必然ともいえる。
(アメリアもこの子をとても気に掛けていた)
ララは不安そうなフィオナの頭を自分の胸にそっと抱き寄せると、二人に向かって注意した。
「ねえ、ユーリー、ニコ、赤ちゃんのいるところで喧嘩しないで。アレクサンドラが泣き出しちゃうわ」
「すいません、博士」
ニコラスが決まり悪そうに謝る隣で、ユーリーが思い切り不機嫌な顔をした。
「メイ博士、この会話のどこが喧嘩だというのだ?確かに、ニコラスの口調は多少非難めいてはいたが、大声を出したわけじゃない。まあ、こいつの声は、男としては少し高めの音域だがな。それでも君の赤ん坊が泣き出すことはない」
文句を言っているユーリーの顔がぱっと輝いた。
「おい、見ろ、ニコラス。泣くどころか、アレクサンドラは満腹になったと見えて、ララの乳を吸いながら寝入ってしまったぞ!」
アレクサンドラを指差すユーリーに思わずつられて、ニコラスは片乳を露わにしているララの胸を再び直視してしまった。
「ち、ちょっと、ユーリー!博士を指差すなんて、失礼だろう!」
顔を朱に染めながら、べらべらと喋り続けるユーリーの背中を、明後日の方を向いたニコラスが何度も叩く。
「ニコラス、俺は何故、お前に叩かれなければならんのだ?」
口をへの字に結んだユーリーが、顰め面でニコラスを睨む。ユーリーの言動に、ニコラスは深く溜息をつくしかなかった。
「…もういい」
「もういいだと?何だその投げやりな口調は」
「フィオナ、僕と医務室に行くんだ。身体に異常が見られないか調べないと」
ニコラスはユーリーを無視して、フィオナの腕を掴むとさっさと病室から出て行った。
「あいつは何を怒っている?」
「さあ?」
こちらにバイバイと手をひらひらさせながら、ドアの向こうへ消えていくフィオナに、笑いながらを手を振ったララが、ベッドに近づいて来たユーリーを見上げた。
ドアが閉じた途端、柔らかく笑みを作っていた口元が真一文字に結ばれる。
「それで、ユーリー、アメリアの最期は…」
ララの顔から自分の視線を床に落とすと、ユーリーは静かに話し始めた。
「…彼女は勇敢だった。君を守る為に自ら生体スーツに戦いを挑んだのだから。遺言もある。彼女は、君と出会えて生きる意味を知ったと。その言葉を最後に伝えて欲しいと。そう言ってから、自爆した」
ララの、ラベンダー色の瞳が零れんばかりに見開かれた。
バートンがいつも賛美していた美しい色だ。宝石のようなその瞳は、アレクサンドラに見事に受け継がれている。ユーリーの遺伝子ドライブ技術が見事に成功した結果だった。
赤ん坊の瞳をバートンに見せてやりたかったと切に思い、それから、盟友を失った怒りが胸の奥から沸き上がってくることに、ユーリーは驚いた。
「アメリア、私もよ。愛しているわ。この命が果てるまで、私はあなたとずっと一緒よ」
瞬きと共に大粒の涙が、ララのカフェオレ色の頬を転がり落ちる。
「私は、あなたとの愛の結晶であるアレクサンドラを守り抜くわ。この子が成人するまで、命を懸けて」
そう言って、ララは自分の胸の中で眠る赤ん坊をそっと頬ずりした。
バートンと同じ燃えるような髪の赤ん坊を見つめながら、ユーリーは静かに尋ねた。
「それで、メイ博士。あなたの意思は変わらないのですね」
「ええ、ユーリー。私の考えは変わりません。私はこの子とアメリカ大陸へ渡ります」
ニコラスは医務室のベッドにフィオナを横たわらせて、血圧を測ったり脈を取ったりしていた。
フィオナが、ぼうっとした表情で体温計を自分の額に押し付けたままでいるニコラスの顔を、上目遣いで眺める。
「ねえ、ニコ。体温計、もういいんじゃないかな」
フィオナに呼びかけられて、ニコラスは、はっとした。
「ああ、ごめん。平熱だ。血圧も脈も異常はない。よかった。ニドホグとの同期が身体の負担にはなっていないようだね」
「うん。随分慣れた。最初は失敗したけど、今回は、プロシア軍の生体スーツと戦っても全然怖くなかった。ニドホグも大きくなって力も強くなったから、もう誰にも負けないよ」
「…そうか。それは頼もしいな」
複雑な表情を浮かべたニコラスがフィオナの頭を撫でる。ふわふわした薄茶色の髪の毛がニコラスの手に纏わりついた。見た目はウエーブが緩く掛かった髪だが、その質感は人間のものとはまるっきり違う。
それもその筈、フィオナの髪は羽毛で出来ているのだ。
ニドホグに使ったヒクイドリの遺伝子がフィオナの髪に発現するとは、ユーリーにも予測できなかった。
(ニドホグとフィオナの遺伝子は安定して結合している。だから何も心配することないって、ユーリーはそうって言っていたけれど)
フィオナの頭部を覆う極細の長い羽毛の先が、微細な空気の流れに浮き上がるのを眺める度に、ニコラスは恐ろしい不安に駆られるのだ。
タイムリミットは十四年。だから、一年の猶予はある。
(だけど)
本当は、あとどれくらい残っているのだろう、と。
「ファーザに言われた通りに、マクドナルド大佐の頭も持ち帰れたし、生体スーツも一体倒した。ニコ、あたしは、アメリカ軍の役に立っているでしょ?だからお願い。ファーザとはもうケンカしないで」
大きな茶色の目が、ニコラスの目をじっと見つめる。
自分にそっくりな顔。同じ色の瞳。ニコラスの胸が苦しみに押し潰されそうになる。
「ごめんね、フィオナ。もう二度とユーリーとは喧嘩はしないよ」
自分は何度、同じ言葉を口にしたのだろう。
(限られた時間しか、この子と一緒にいられないのに)
フィオナの心を千々に乱す己を軽蔑し、ユーリーを恨みながら、ニコラスは自分の娘の細い身体を、力一杯抱きしめた。