バラノフの降伏
フェンリルの頭の上を敵のブレードが半円を描きながらゆっくりと滑っていく。
ケイはフェンリルの両足を深く屈伸させると、地面すれすれに腹這いになってリサーの二本の足を胴体から一気に切り離した。
一瞬で両足を失ったリサーが切り倒された大木のようにフェンリルに向かって倒れた。
その腹を蹴り上げて仰向けに倒してから、フェンリルはリサーの腹を片足で押さえ付けると、肩にブレードを突き立てた。
耳障りな金属の破壊音が辺りに響き、左腕が腕の付け根から切り離される。
両手両足を失ったリサーは、全ての戦闘能力を失って、地面に転がっているだけになった。
死んだ甲虫のようになった哀れな姿の機械兵器の上に、フェンリルは両膝を乗り上げて固定した。
高々と振り上げたフェンリルのブレードがグラチェフのいる操縦席に狙いを定める。
「ケイ!ブレードを下ろせ!」
イヤホンにダガーの鋭い声が飛び込んできた。
「しかし…。リンクスを切り刻んで、軍曹をなぶり殺しにしようとした奴ですよ?」
ブレードを振り上げたまま、ケイは不満そうにダガーに言葉を返した。
「こいつは恐ろしく腕が立つ。今殺しておいた方が、敵戦力の排除になります」
「敵機械兵器は全て無力化した。これ以上の戦闘は無意味だ。お前の殺そうとしている奴は、ロシア軍のスターパイロットだろう。無抵抗のパイロットを殺したとなると、ロシアに後々遺恨を残す事態になる。上官命令だ。コストナー、すぐにブレードを収めろ」
「分かりました」
ダガーの厳しい口調に、ケイは振り上げたブレードをフェンリルの両腕に収納した。
パンっと乾いた音がした。
拳銃を撃った音だ。続いて二発。一発の銃弾がフェンリルの顔を掠っていった。
「誰だ?フェンリルに拳銃を撃ってくるのは」
ケイはフェンリルを立ち上がらせて発砲した人間を探した。
熱探知センサーがすぐに居場所を突き止める。建物が重なるようにして倒壊して出来たコンクリートの瓦礫の山の上に、一人の少年が拳銃を構えて立っていた。
「ヴィーニャを殺したら僕が許さない!」
白っぽい金髪と青い目をした少年が、フェンリルに銃を構えて、あらん限りの声で叫んだ。
「アーチャ!やめろ!勝負はついた。敵を挑発するな!」
ダルマにされて地面に横臥しているリサーから這い出したグラチェフが叫んだ。
「あいつか」
ケイはフェンリルをゆっくりとイリイーンに近付けた。
少年が唸り声を上げながらフェンリルに発砲する。人間用の小さな拳銃でフェンリルを撃っても、かすり傷一つ付きはしない。
弾倉が空になった拳銃をフェンリルに投げつけた拍子に、足元の瓦礫が崩れ出した。
コンクリートの塊と一緒にイリイーンも地面へと転がり落ちていく。
「うわあっ!」
イリイーンの身体が地面に叩き付けられた。気を失ったイリイーンの上に瓦礫が次々と落ちていく。
「アーチャ!」
リサーから飛び降りたグラチェフがイリイーンに向かって走り出した。一際大きなコンクリートの塊が瓦礫の上を滑るように落下し始めた。
それを見たグラチェフが悲鳴を上げた。瓦礫に半分埋まって動けなくなったイリイーンの上に落ちたら、圧死するのは確実だからだ。
「アーチャ!アーチャァァァッ!!」
両腕を前に突き出し、空を掻き毟りながらグラチェフが走る。
その絶望で覆われた表情を、バラノフは息を飲んで見つめていた。
コンクリートの塊が、華奢な少年の身体を押し潰そうとした、その時。フェンリルの手がイリイーンに覆い被さった。
コンクリートの塊を右手で受け止め、左手の指で瓦礫の中からイリイーンを引っ張り出したのを見て、グラチェフはくたくたとその場にへたり込んだ。
地面の上に茫然と両手を付いているグラチェフの前に、フェンリルが掌の上のイリイーンをそっと横たえる。
「イヴァン!アーチャ!」
ヴォルクから降りたバラノフが二人に駆け寄った。
放心しているグラチェフに代わってイリイーンに屈み込むと、すぐさまその胸に耳を当てる。
「大丈夫だ。生きている。怪我も大したことはないようだ」
バラノフの言葉に、グラチェフが震える両手でイリイーンを掻き抱いた。
意識を取り戻しつつあるイリイーンが小さく呻いたのを耳にして、グラチェフが涙に濡れた己の頬を義弟の髪に何度も擦り付けている。
バラノフは安堵の息を吐いてから立ち上がると、地面に片膝を付いて三人の様子を窺っているフェンリルを見上げた。
「灰色のスーツ。よくぞイリイーンを助けてくれた。礼を言うぞ」
スーツが頷く。どうやら声は届いたようだ。
バラノフは灰色のスーツの後ろから近づいてくる白灰色のスーツに目を向けた。
白灰色のスーツが灰色スーツと並び立つ。白灰色の胸の中央にあるコクピットのハッチが開いて、中から黒ずくめのパイロットが機関銃を手に立ち上がった。
それを見たバラノフが肩まで両手を上げた。
自分に機関銃を向けている男がスーツ隊のリーダだと一目で分かった。相手も同じようで、バラノフが機械兵器部隊のリーダーであるとすぐに悟ったようだ。
「我々は敗北した。プロシア軍生体スーツ隊と、これ以上戦う意志はない」
「プロシア軍の捕虜になると?」
男はバラノフの眉間に銃口を向けたまま聞いてきた。
「そうだ」
「ならば、携帯している拳銃と軍用ナイフを瓦礫の中に放り込め」
バラノフは腰から大振りのバヨネットナイフと拳銃を外して、瓦礫の中に投げ込んだ。
「これでいいか?何なら、そこにいる部下に俺を後ろ手に拘束させても構わない」
「いや、いい」
ダガーはバラノフに戦う意思がないと知って機関銃を下ろした。それを見たバラノフが声を張り上げた。
「スーツ隊のリーダーはお前か?」
「そうだ」
(やはりな)
バラノフは目を細くした。
「では、スーツ隊のリーダ―に聞く。我々の部隊は六人編成だ。あと三人の安否を知りたい」
「ああ、それなら…」
キキの後ろからガルム1が何かを腕に抱えるようにして、大股でこちらに向かって来るのを指差しながら、ダガーはバラノフに言った。
「俺の部下が、君達の残りの隊員をこちらに運んでいる最中だ」
生まれたての子猫を扱うような手つきで、ガルム1がゴルスキー兄弟とキーシンを地面に降ろした。
後ろ手に拘束された三人は何とも情けない顔をして、バラノフの前に並ばされた。
ダガーのコクピットが全開しているのを見て、ハナとジャックも操縦席のハッチを開けた。
「軍曹。こいつらの作戦を聞き出しました」
ジャックの言葉にバラノフが目を剥いた。
「お前達、喋ったのか?!」
バラノフに怒鳴られて、三人は亀のように首を縮めて、大きな身体を小さく丸めた。
「あんたらが街に放ったアメリカ軍の犬型生体兵器を一匹生かしておいて、この三人を奴の鼻先に近付けてやったんだ。どんな豪傑だってすぐに喋るさ」
得意げに鼻の下を指で擦るジャックの隣で、ハナがダガーに説明を始めた。
「ロシア軍がウィーンで派手な電撃戦を始めたのは、我々、チームαを市街におびき寄せる為だったとの事です」
「その話が真実ならば、彼らは体の良い囮という事になる」
ダガーは驚いた表情でバラノフに目をやった。
バラノフは肩を竦めてから「そうだ」と深く頷いて、戦う術を失った自分の部隊を取り囲むように立っている生体スーツを眺めた。
「ロシア軍の最新型主力戦闘機である巨大機械兵器が囮だと?一体どんな作戦だ?!」
(さすがに動揺しているな)
ダガーの表情を見て、バラノフはにやりと笑った。
「教えてやりたいところだが、末端の部隊である我々には、作戦内容は何も知らされていないんだ」
対戦では完敗したが、ロシア軍にとって一番の脅威である生体スーツ部隊を市街の中心に留め置くことは出来た。任務は遂行できたと言っていいだろう。
「アメリカの機械兵器を全滅させた生体スーツを、プロシア軍がウィーン市街戦に投入しない訳がない。目障りな敵の主力戦闘部隊を、ここ、ウィーンの中心部に封じ込める。それが、司令部から我々に与えられたミッションだったのさ」