ガグル社の秘密
(ユーリー!)
その名を聞いたブラウンは息を飲んだ。
上官の変化を感じ取ったダガーが、ブラウンの顔に視線を素早く移動させる。
「博士。私の聞き間違えでなければ、あなたはさっき、十年前にユーリーと一緒にガグル社からアメリカ軍に逃れたと仰いましたよね?ならばユーリーは、ガグル社での後継者の地位を捨てたという訳だ」
「そういう事になるな」
どうでもいいと無関心な顔でワンリンが肩を竦めた。
「それは何故だ?ガグル社の最高経営責任者とは、即ちこの世の支配者だ。古き時代にヨーロッパ大陸を支配した皇帝と変わらぬ権力を持ち得るのだぞ。その力を自ら放棄したというのか」
ブラウンの只ならぬ雰囲気に、今一度怯えた表情に戻るワンリンである。
「奴は人間嫌いなんだ。だから自分がガグル社のトップに立って世界の支配者になるなど全く関心がない。まあ、そんな人物だから、私も彼についてアメリカ軍に宗旨替えしたんだがな」
「では、もし、アシュケナジの他に現在のガグル社を統率できる人間がいるとするならば、それはどのような人物ですか?博士、予想で結構ですので、お教え願いたい」
「そんなの私に分かる筈ないじゃないか。いや、まてよ…」
ワンリンはうーんと唸りながら両目をぐりぐり動かしていたが、急に顔を輝かせた。
「思い出したぞ!アシュケナジには補佐役が三人いた。アシュケナジに何かあったら、その三人が補完機構の中心となって、ガグル社の体制を継続させていくのだった」
「それは誰だ?ワンリン、彼らの名前だけでも教えて欲しい」
ブラウンの切実な表情を見たワンリンはすっくと床から立ち上がった。椅子にどっかりと腰を下ろすと偉そうにふんぞり返った。
「中佐、君は、ガグル社に随分と興味を持っているようだな。ガグル社にもアメリカ基地にも戻れない身となった私に、連邦軍の中でそれ相応の地位を与えると確約するならば、知っていることは何でも教えてやるぞ」
「分かりました。貴方は優秀な脳科学者だ。ヤガタ基地で研究員として働いてくれれば、お互いに損はないでしょう」
ミニシャが嫌そうに顔を顰めるのも構わずに、ブラウンがすぐさま了承した。ブラウンの言葉にワンリンが嬉しそうに何度も頷く。
「では、彼らの名を教えてやろう。一人はウォーレン・デューク。天才プログラマーであり情報工学、ロボット工学などに精通する学者だ。二人目は、チャールズ・ウエインライト。数学、物理学が専門の学者。三人目は、化学、生物学、遺伝子工学などを網羅する天才学者で、彼女の名は…」
ワンリンが勿体ぶったようにゆっくりと口を動かした。
「アガタ・スタドニクだ」
「アガタ?」
ミニシャがワンリンの口から出てきた名前を反芻した。
「ワンリン博士、あんた、さっきブラウン中佐にアガタ遺伝子がどうたらこうたらって、騒いでいなかったっけ?」
「ああ、それは」
決まり悪そうにむにゃむにゃと口を動かし始めたワンリンは、突然の激しいノックの音に驚いて口を閉じた。ブラウン、ミニシャ、ダガー、それとハナとリンダが、一斉に執務室のドアに目を向ける。
ドアが開くとビルとダンが入って来た。ビルのがっしりとした肩の上に、ケイが身体を横倒しに抱え上げられている。
「ケイ、額の傷が開いているよ!包帯はどうしたの?」
ケイの額から出血しているのを見て、ミニシャが仰天した声を上げた。
「こいつ、ハンヌに襲われたんです。額の傷を奴に少しばかり抉られたらしい。大尉、傷の手当てをしてやって下さい」
ビルが説明をしながら片膝を付いて肩からケイを下ろした。足元がおぼつかないケイの身体をミニシャが支えた。
「ケイの額を抉っただって?何でそんなことをしたんだろう」
訝しげに首を横に傾けるミニシャの脇に立ったブラウンが、ケイの顎を持ち上げて額の傷口を覗き込む。高官のブラウンに顔を近づけられたケイは極度に緊張した状態になった。
「ハンヌはコストナーの血液を採取していったらしいな」
ブラウンの顔を押し退けるようにしてミニシャもケイの額に目をやった。
「ケイの血液か!暴走したフェンリルの人工神経が彼の血と直に接触したって事に、ハンヌはえらく興味を示したってわけだな」
(うわっ)
ミニシャの赤い唇が鼻の先にくっつきそうになる。ケイは顔を赤らめて大いに狼狽えた。
「ああ、そうだ。寄り道までしてコストナーの血を欲しがった。何故だろうな」
「おおっ、もしかして、この少年が銀灰色の生体スーツのパイロットか?」
ブラウンとミニシャをかき分けて、ワンリンがケイの目の前に顔を突き出した。両手の長い指を広げてケイの頭を包み込んだ。
「私はコンテナ指令室で銀灰色の生体スーツに着目し、その行動を逐一観察していたのだ。どれ、ヤガタ基地の研究員として、手始めにこの少年の脳を調べるとしよう。中佐、すぐに彼の頭蓋を開ける許可を出したまえ。君らに私の脳解剖技術のすばらしさを見せてやろう。それはそれは度肝を抜くぞ」
「やめろ!」
舌舐めずりしながら間近に迫ってきたワンリンの顔を、ケイは思わずぶん殴った。
ブラウンとミニシャが咄嗟に避けたので、ワンリンは床に横臥して伸びてしまった。
「ボリス大尉。この気持ち悪いおっさんは、誰ですか?」
肩で息をしながら拳を手前に突き出して真っ青な顔になっているケイに、ミニシャが決まり悪そうに後頭部をガリガリと掻きながら説明した。
「えーっとね、彼はアメリカ軍に所属していた脳科学者で、シン・ワンリンというんだ。激戦だった戦域でたった一人だけ、奇跡的に生き残った人間なんだよ。連邦軍に協力を申し出たから人質を解除したんけど、ちょっと変わった人だよね」
「こいつ、俺の脳を解剖するって言いましたよ?ちょっとどころか、ものすごい変人だと思うんですが」
怒りが収まらずにまなじりを上げたままのケイの肩に、リンダが優しく手を置いた。
「ケイ、あまり怒ると傷に障るわ。手当をするからこちらにいらっしゃい」
手を取られ、背中を押されて、ケイはリンダに大人しく従った。ダンが嫉妬と羨望の入り混じった表情でケイを睨み付ける。
「確かに変人だが、貴重な情報を持った男だ。伍長、コックス、ワンリンを見てやれ」
ブラウンに命令されてダンはしゃがんでワンリンの上半身を床から起こした。片膝を付いたビルがワンリンの頬を軽く叩いて意識を取り戻させる。うーんと唸って目を開けたワンリンに、ビルが怒った顔を近付けた。
「おい、おっさん。ケイは連邦軍主力戦闘機の生体スーツのパイロットで、あんたの実験材料じゃねえんだよ。これ以上ボコられたくなかったら、二度と解剖とかほざくんじゃねえぞ」
「わ、分かったよ」
鬼の形相に熊の唸り声というビルの威嚇に縮み上がったワンリンが掠れ声で相槌を打つ。
首を竦めて震えているワンリンをもう一度睨み付けてから、ビルは立ち上がった。
「それで、中佐。俺達の任務はどうなるんスかね?」
「連邦軍本部には、戦域での戦闘はこちらが勝利したとの連絡は入れてある。だが、未だ返信も通達もない」
ブラウンの回答にダガーが怪訝な顔をする。
「それはおかしいですね。通信が遅れている理由は何でしょうか」
「軍事同盟軍とは戦域での戦闘が先に行われた。戦域での戦いはロング・ウォー稀に見る激戦で、我々は連邦軍本部と、連絡も情報も共有する余裕がなかった。いや、違うな。我がヤガタ基地防衛軍は捨て石覚悟だったから自ら通信をシャットアウトしたのだ。
連邦本部の上層部連中は我々が生き残るとは、ましてや軍事同盟軍に勝利するとは全く想像していなかったろう。想定外の事が起きて、次の指令をどうするか模索している最中かも知れん。最悪、我らが勝利したという無線連絡を敵の罠だと思っている連中もいるかも知れないしな」
そこまで話すと、ブラウンは困ったような笑顔で部下たちの顔を見た。
「冗談はさて置き、気がかりなのはロシア軍のラヤスク基地だ」
ロシア軍基地の名を口にしたブラウンから柔和な笑顔が掻き消えた。
「あの地域に集結した戦車大隊が一斉に動き出した可能性がある。そうなればヤガタに連絡を入れるどころの状況ではないと推測できる」
「だとしたら、我々をこのまま戦域防衛の為にヤガタに待機させるとは思えませんが」
ダガーの言葉にブラウンが大きく頷く。
「そうだな。だが、本部からの命令がない限り、我々が勝手に動くことは出来ない」
神妙な表情で話を聞いていたハナが、目を大きく開いて顔を上げた。耳に手を当てて喋り出す。
「中佐。たった今、連邦軍本部から通信が入ったと、ジャックから連絡がありました」
「そうか。サトー上等兵、ジャックに本部と執務室の通信を直接接続させるように伝えろ」
「了解です」
執務室のテーブルに据えられたスピーカーから、砂が混じったようなざらついた声が聞こえてきた。内容を聞き逃すまいと、ハナが音量を上げる。
「こちら共和国連邦軍本部。ヤガタ基地司令官ウェルク・ブラウン中佐はいるか。いれば迅速に返答されたし」
「こちら、ブラウン中佐。先程、無線連絡を入れた通り、戦域での戦闘は我が軍が勝利を収めた。この後の指示を本部に仰ぎたい」
「今日の未明にラヤスクに集合していたロシア戦車隊が進軍を開始した。同時刻にポーランド州の武装化した反勢力がロシア軍にプロシア属州の幹線道路を開放し、一気にオーストリアに進行された。現在、ヘーゲルシュタイン少将率いる連邦軍戦車大隊がウィーン郊外で交戦中」
「何だって?!」
スピーカーから放たれた言葉に、執務室の全員が耳を疑った。
「敵の予想を上回る軍事力に苦戦を強いられている模様。ヤガタの総司令官ブラウン中佐に告ぐ。生体スーツを伴って、直ちにウィーン市街に急行されたし!」