廃棄された少年
「ガグル社は二種類の生物兵器を保有している。一つは細菌やウイルスで作った兵器。もう一つは動物を遺伝子操作で兵器化したものだ。キメラ生体兵器はU11113RE5Yがガグル社の技術を流用して造ったものだ」
ブラウンは腰を落として屈むと、ワンリンに己の顔を近づけた。ブラウンはワンリンと目の位置を同じ高さに据えると覗き込むように凝視した。
「博士、ユラ・ハンヌを包んで地中に消えた巨大な物体、あれもキメラ兵器なんですか?」
異様に光る鉄色の瞳に恐れをなしたワンリンが、ブラウンを避けようとして椅子からずり落ちそうになる。
「多分な。腕状の物体と同じく、あれも生物から造られた兵器に違いない。だが、外形を見ただけではあれがキメラ体かどうか、私には分からない」
椅子に斜めに腰かけた姿勢で、ワンリンはぶつくさと言った。
「中佐、私は十年前にガグル社を出た人間だ。現在のガグル社が何を開発しているかなんて、何にも知らないからな!」
「それは十分に理解していますよ」
ブラウンは顔をワンリンから離して立ち上がった。ほっとした様子でワンリンが椅子に座り直す。
「中佐、私にも聞きたいことがある。Y11854UR2Aのことだ。あれがヤガタにいた理由を是が非でも知りたい」
ワンリンは椅子からすっくと立ち上がると、ブラウンに詰問し始めた。
「ユラ・ハンヌ!どうして奴がこの世に存在している?いいや、あいつは本当に生きているのか?!」
「博士、貴方の仰っている意味がよく分からないのだが…」
「言っている意味が分からないだとおおおっ?」
困惑するブラウンの襟元に興奮したワンリンが掴みかかろうとするのを、ダガーがやんわりと押し留めた。
「ああ、そうだとも。あの男が生きている筈がない!私は幻を見ているのだ」
ワンリンはくわっと両目を見開くと、ふらふらと泳がせていた両手を頭の上に突き上げて、天井を仰いだ。
「私はこいつら、連邦軍の高射砲で吹き飛ばされた指令コンテナの中にいた。奇跡的に脱出できたと思ったら、撤退するアメリカ軍に置いて行かれて連邦軍の捕虜にされてしまった。そうか!そのショックで、私の脳のストレスレベルがマックスになっているのだ!プロラクチン、バゾプレシン、オキシトシン、コレゾチール、レニンなどのストレスホルモンが脳下垂体、副腎皮質、副腎髄質から大量放出されて前頭前野の認知機能を恐ろしく低下させてしまった。そのせいで私の脳が死んだ男の幻を生み出したというわけか!は――ははははは!」
ワンリンがヒステリックな声で笑い出した。
「けけけけけ」
引き攣った笑い声がいつまでもワンリンの喉から迸る。執務室にいる全員が呆気に取られてワンリンを眺めていた。
「それにしてもだ。いくらショック症状が酷いとしても、十年以上も前に死んだ男の幻を見るのというは、どうにも解せん」
両手で頭を抱えてぶつぶつと喋り出したワンリンに、ミニシャが首を傾げながら言った。
「彼はヤガタの危機を救うためにガグル社から正式に派遣された上級研究員兼役員ですよ。博士の話ぶりだと、ハンヌはとっくに死んでいる人間のように聞こえる。あなたの言う通りなら、彼は幽霊ってことになりますよね?」
「何だってェェェ――!!」
ミニシャの言葉に、ワンリンが大声を張り上げた。
「この私でさえヒラ研究員だったのに、奴が上級研究員兼役員だとぉぉぉ!」
目を血走らせて喚き出したワンリンが、今度はミニシャに掴み掛かった。
「え?幽霊じゃなくて、役職の方に反応するんだ?」
「バカ言うんじゃないっ!あいつは実験にも使えない遺伝子異常体なんだぞ!奴は死んだってガグル社には必要のない人間だ。だから、廃棄されたんだ。…その筈だ。そうか!これは幻聴だ。ショック過ぎて耳もおかしくなったんだあぁぁっ」
ワンリンが耳の近くで絶叫し始めたのに耐えられなくなったミニシャは、その痩身の身体を突き飛ばした。
「…博士、貴方の頭と目、それから耳も、すこぶる正常ですよ」
「やはり、そうか」
ミニシャに突き飛ばされて床に尻もちを付いたワンリンは、ブラウンの言葉にがっくりと項垂れた。
「そんなことは最初から分かっていたさ。私の脳はこれくらいのショックで現実逃避を起こすほど下等ではないからな」
「それなら質問を再開しても大丈夫ですね。博士はユラ・ハンヌをよくご存じのようだ。彼はどういった人間ですか?」
やんわりと聞いてくるブラウンに、冷静さを取り戻したワンリンが答えた。
「よくご存じもなにも、Y11854UR2Aと私は高度研究者育成プログラムで同時期に生まれた人間だ。私とは衣食住を共にして育ったのだ」
ワンリンの話を聞いた全員に衝撃が走った。リンダが大きく息を飲み、ハナは頬を強張らせた。ダガーも大きく見開いた鳶色の瞳をワンリンから離さない。
「博士はハンヌと同年齢だって!まさかぁ?」
ミニシャが疑い深そうに目を眇めて、ワンリンの顔をじろじろと眺めた。
「ユラ・ハンヌは十三・四歳の少年にしか見えなかった。博士、あんたはどう見ても三十後半のおっさんじゃないですか?」
「ふん。何とでも言うがいいさ」
皆がどんな反応を見せるか分かっていたというように、ワンリンがつまらなそうに鼻を鳴らした。
「奴が持つ遺伝子情報は普通の人間のものとはまるっきり違うのだ。ユラ・ハンヌ。奴の正式名称は、Y11854UR2A・ハンヌ型遺伝子保有者0-1という。テロメア改良遺伝子を組み込まれて生まれてきた人間だ」
「人の名前とは思えませんな」
思わず呟いたブラウンに、ワンリンが頷いた。
「それはそうだ。あいつは、我々より実験色の強い遺伝子組み換えを施されて生まれてきた実験体だからな」
「実験体だって?彼は人間じゃないか!」
「何を怒っている?ガグル社は最終戦争後の世界に君臨する研究機関で、その技術力はどの国よりも勝っている。会社形態にしているのは、ヨーロッパの国々から資源を吸収し、最先端の研究を永続させる為だ。特出した頭脳集団が独裁的になり中央集権化するのは当然のことだ。そんな組織の中では、人間も実験材料の一部でしかないのだ」
憤るミニシャの顔を無表情に眺めながら、ワンリンは話を進めた。
「さて、ハンヌの遺伝子に話を戻そう。テロメア、これは染色体の両端に存在する塩基配列の名称だ。遺伝子情報を持っていないその塩基配列は、細胞分裂の度に両端の染色体が解けないように固定する役割を持っている。テロメアは細胞分裂の度に短くなり、ついには消滅してしまう。これが老化を引き起こす原因の一つだ。こそでガグル社は、寿命を迎えるとテロメアの長さを回復させるテロメラーゼという酵素を分泌して復活をする不死クラゲに着目してゲノム編集し、テロメアリセット遺伝子としてユラ・ハンヌとなるヒトの胚に組み込んだ。不老に近い人間の誕生だ」
「貴方はハンヌを遺伝子異常体と呼んだ。と、いう事は」
「そう!中佐、まさに君が考えている通りさ。失敗したのだよ!」
ワンリンは口の両端を思い切り引き上げて、意地悪そうにブラウンに言い放った。
「ハンヌは十四になった歳に不老不死改良遺伝子を発現するようにゲノム編集されていた。確かに奴の肉体は十四から著しく成長が遅くなった。だが、テロメア改良遺伝子は奴の身体に深刻な障害を引き起こしてしまったんだ」
「深刻な障害…」
ブラウンが眉を顰めてワンリンの言葉を反芻する。
「そうだ。タンパク質の生成に使われる情報が記されている遺伝子の暗号領域“エクソン”に、異常をきたした。ハンヌの遺伝子情報がリボ核酸にうまく転写されなくなったんだ。研究者達は必死で原因究明に努めたが、解明には至らなかった。それで奴は廃棄処分となったんだ。成功していれば奴がガグル社総裁、ファン・アシュケナジの後釜になるのは間違いなかった。何せ、アシュケナジの遺伝子を受け継いでいるからな」
(アシュケナジだと!)
ブラウンは細めた眼光をワンリンに当てた。
(実に興味深い名前が次々と出てくるな)
「ハンヌが後継者でなくなったのなら、ガグル社を継ぐ者は誰になるのですか?」
「U1113RE5Yだ。ハンヌが排除された後、アシュケナジの遺伝子を受け継ぐ人間は奴一人しかいない。彼はガグル社の最高経営責任者の正式な後継者なんだ」