兵士の帰還
「用って、何だよ」
ケイは、エマの病室のドアに背中を張り付かせてハンヌに叫んだ。
「すぐに済む」
息を詰めて仰け反らせているケイの喉をブレードの先端で遊ぶように突いていたハンヌが、刃を引っ込めた。
次の瞬間、ケイの目の前に白い線が縦に走った。頭に巻いてあった包帯が真っ二つに切り裂かれて床に落ちる。
「何するん…」
怒鳴ろうとしたケイの下顎を、ハンヌの手が鷲掴みにした。
「むぐぅ」
暴れるケイをハンヌは自分の胸の近くに引き寄せてから、自分と同じ目線まで持ち上げた。
「お前の血液と皮膚を貰う。それもここ、生体スーツ(フェンリル)の人工脳神経線維が暴走して皮膚を食い破った個所をな」
ハンヌはケイの額に人差し指を突き出した。
甲冑の指先が波打ち、細い鉤爪へと変形する。内側が空洞になっていてる鉤爪が自分の顔の近くに迫ってくるのに恐怖して、ケイはハンヌの手に爪を立てて必死で振り解こうとした。
抵抗も虚しく、ハンヌのパワードスーツはびくともしなかった。
「うわっ」
額の傷口を手荒く弄られた激痛に、ケイは思わず悲鳴を上げた。
額を掻き毟った鋭い爪が甲冑の根元から折り畳まれて指の中に消えていく。
ハンヌに顎から手を離されると、ケイは反射的に自分の額に手を強く押し当てた。
掌が生かいもので濡れる。血だ。
「よくも傷口を開いてくれたな!」
ホルスターから素早く拳銃を引き抜いたケイが、銃口をハンヌの眉間に据えた。
「ボリスは俺に対して武器を使っての敵対行為を禁止する通達を出している。それを知っていて、俺を撃つつもりか、ウルフ・ボーイ?」
「くそ!」
ハンヌの言葉に動揺したケイの腕が僅かに揺れた。自分の眉間から銃口が逸れたのを見逃がさず、ハンヌはケイの手から拳銃を叩き落とした。
「素手で戦うなら、相手してやってもいいぞ」
喋り終えぬ間に、ハンヌはケイに右の拳を突き出した。
「うわっ」
ケイはぶんっと音を立てて迫ってくる甲冑の拳を慌てて避けた。ハンヌの拳がケイを掠めて病室のドアに激突すると、金属性の分厚いドアが大きくへこんだ。
ハンヌは拳を自分の脇腹まで戻すと、再びケイに向かって突き出した。
パワードスーツの拳が身体のどこに当たっても、小枝のように骨は砕け、内臓は破裂するだろう。ケイは死に物狂いで壁に身体を滑らせた。今度はコンクリートの壁に穴が開いた。
「次は鳩尾を狙うぞ」
そう言ってハンヌがケイに腕を突き出してくる。間一髪で身体を横に逃がすと、壁に二つ目の穴が開いた。
(壁側では動作が制限される)
ケイは壁に拳をめり込ませているハンヌの脇を必死ですり抜けた。通路の中央に立つと、拳を作ってファイティングポーズを取る。
「攻撃開始か、ウルフ・ボーイ。ところで、お前は軍服の下に生体スーツ用のインナーを着ているのか?」
「いや、着ていないが?」
思いがけないハンヌの質問に、ケイは正直に答えた。
「何だつまらん。それでは俺が少しでも本気を出したら、お前はすぐに死んでしまうではないか。大したデータは取れないな」
ハンヌは不満げに眉尻を下げて口を尖らせた。
その直後、ケイの頭の遥か上にハンヌの顔があった。ケイの肩をしっかりと掴んだハンヌの黒い目が上からじっと見据えている。
自分より十センチは身長の低いハンヌを、何故自分が見上げているのか、すぐにその理由が分かった。
目にも止まらぬ速さで背中に回ったハンヌに両膝の裏に蹴りを食らって、膝を折られたのだ。
「感謝しろ。後ろに倒れるのを防いでやったぞ」
ハンヌは笑いながら掴んでいたケイの肩を人差し指で軽く弾いた。
三メートル程飛ばされてから、通路に落ちて転がった。痛みで動けないケイにハンヌがゆっくりと近付いた。
「俺を殺すつもりか?」
顔を上げて睨み付けると、ハンヌは冷徹な目でケイを見下ろした。
「殺しはしない。この世に最後の審判が訪れるまで、お前達には、ガグル社にもっと貢献してもらわねばならないからな」
「ドゥーム…何だって?」
聞き返すケイには答えずに、ハンヌは自分の背後に立った人物に目を向けた。
「ウルフ・ボーイ、やっと、お前の仲間が来たぞ」
ビルとダンが通路の両端に立っていた。二人の手には拳銃が握られ銃口がハンヌに向いている。
「ハンヌ殿。戯れも大概にして、そろそろガグル社にお帰りになっては如何か」
初めて聞くビルの慇懃な言葉に、ケイは驚いて目を丸くした。
「ボリスから発砲は止められているのではなかったか?」
両腕をだらりと下げてハンヌがビルを睨め付ける。攻撃しないというハンヌの意思表示を見ても、ビルは拳銃を下ろさなかった。
「大尉の命令は承知してます。だが、これ以上基地の兵士を殺傷するのであれば、黙っていられません」
「分かった。今度こそヤガタから退散するとしよう」
ビルの一歩も引かない態度にハンヌは肩を軽く竦めてから、未だ通路にへたり込んでいるケイに視線を落とした。
「今後の活躍を楽しみにしているぞ。ケイ・コストナー」
そう言い捨てると、ハンヌは高らかに笑いながら、基地の通路を疾風の如く駆け抜けていった。
消毒液を含んだ脱脂綿でブラウンの銃創をそっと拭った。
ブラウンが痛みに顔を顰める。
脇腹に開いた丸い小さな穴からは、まだ血が滲み出ている。
看護師でもあるリンダがブラウンの筋肉質の硬い腹と背に消毒した大きなガーゼを当ててから、腹と肩にぐるぐると包帯を巻き出した。
主のいなくなった貴族将校の執務室に、ブラウン、ダガー、リンダ、ハナ、それとワンリンを連れて移動したのは十分ほど前だ。
「ミニシャ、傷はどんな状態だ?」
「奇跡的に内臓と動脈を逸れている。出血は酷かったけど、うまい具合に弾が貫通してくれて助かったよ」
「そうか。では、すぐに動けるな」
椅子から立ち上がろうとするブラウンを、ミニシャは押しとどめた。
「まだ治療は終わっていないよ。化膿止め抗生剤を打つから腕を出して」
リンダがミニシャに注射を手渡そうとするのを見て、ブラウンが落ち着かない声で言った。
「すまんがリンダ、君が注射してくれないか。ミニシャの注射は飛び上がる程痛いんだよ」
ブラウンの懇願に、リンダは困った顔をしてミニシャを見た。
「私からもお願いするよ、メリル一等兵。この注射嫌いのおじさんに、優しく打ってやってくれ」
「分かりました」
白けた表情のミニシャから注射器を渡されて、リンダはブラウンの太い二の腕に注射針を刺した。
痛そうに顔を顰めたのは注射を打たれたブラウンではなくハナだった。
「ハナ、お前も注射は苦手か?」
ブラウンの問いに決まり悪そうな顔をするハナを見て、ミニシャが素っ頓狂な声を上げた。
「へえ、連邦軍屈指の戦闘員がねえ。意外な共通点があるもんだ」
執務室にささやかな笑い声が零れたのを打ち消すように、壁際の椅子に座らされたワンリンが苛立った声を出して床を踏み鳴らした。
「おい、そこの連中!仲間同士でホンワカしていないで、私の手の拘束をすぐに外せ!」
椅子の脇に腕を組んで立っているダガーがワンリンを横目で凝視する。
ダガーに鋭い視線を当てられたワンリンが、恐怖に、ぐぅと喉を鳴らした。
「ブラウン中佐、この男を私から離してくれ!こいつの放つ殺気には耐えられん!」
「中佐は怪我をしておられる。博士、もう少し小さな声で話して下さい」
喚き続けるワンリンの肩にダガーが手を乗せた。途端に口を閉じてぶるぶると震え出すワンリンである。
その哀れな様子に、ワンリンから離れるようにとブラウンはダガーに目配せした。
ダガーは黒豹のように音もなく動いて、ワンリンから距離を取った。
「軍曹、ハナ、間一髪のところで帰って来てくれて本当に助かったよ。あと少しでハンヌに殺されるところだった!」
ミニシャがハナに抱き着きながら嬉し涙を流している。
「戦域内に入ってからも地下指令室と交信できないので異常に気付きました。間に合って良かったです」
そう言ってから、ダガーがブラウンに敬礼した。ハナもミニシャに抱き着かれたままの格好で敬礼する。
「報告が遅れました。ダガー隊チームα、ヴァリル・ダガー、ハナ・サトー、ジャック・レイノルズの三名はラストプランを完遂しました」