辛い記憶
暗い森の中、身を隠した茂みから、息を顰めて侵入者を監視する。
後ろには成獣の雄五匹と若い一匹が、自分の合図を待ちながら臨戦態勢を取っている。
幼子を抱える雌達を少しでも遠くへと逃がそうと、この場で戦う事を決めた。
猟犬の吠える声が次第に大きくなる。
勇ましい鳴き声ではない。怯え切っていて、悲鳴に近い。
それも仕方がないことだった。
犬が吠えている相手は、どう猛な野生の狼なのだ。
フェンリルは茂みに近づいて来た最初の猟犬の首に素早く噛み付いて、茂みの中に引きずり込んだ。犬は喉笛を噛み切られて、キャンとも言わずに絶命した。
血の匂いに興奮した雄達が茂みから飛び出して猟犬を襲った。哀れな犬達は盛大な悲鳴を上げながら、狼に身体を食い千切られていく。
尻尾を巻いて逃げ出した犬を、一番若い狼が追った。
フェンリルが唸り声を上げて止めようとした刹那、シュッと空を切る音がして若い狼の身体が地面から跳ね上がった。
フェンリルは大きく唸ると、他の狼達と共にすぐにその場から離れた。
山の奥深くまで逃げると、雄の群れの一番後から若い狼がフェンリルに走り寄って来た。
一番年上の息子が銃で撃たれなかったことに安心して、フェンリルはその白灰色の顔を大きな舌で舐めた。
若い狼の背中に小さな発信機が撃ち込まれているとも知らずに、フェンリルと仲間達は雌の群れと合流する為に、山の奥の奥、岩盤が連なる場所にできた洞窟の巣穴へと戻っていった。
数時間後。
フェンリル達は、猟銃を持った大勢の人間の男に巣穴を取り囲まれていた。
皮肉にも、安住の場所である巣穴の切り立った岩盤が壁になって、フェンリル達の逃げ道を塞いでいる。
猟犬の群れに囲まれた狼達は洞窟の奥に逃げ込んだ。
密猟者が焚火の煙を洞窟に送り込む。燻された狼は煙に耐えきれずに、洞窟から飛び出した。
飛び出した狼は、銃口を洞窟の入り口に向けて待ち構えていた密猟者に次々と撃たれた。
猟銃の弾丸を浴びて全身から血飛沫を上げながら、一匹、また一匹と倒れていく。
最後に残ったのはフェンリルとつがいの雌狼、それと子供達だった。
フェンリルと雌狼は子供を逃そうと、牙を剥いて人間に向かって行った。
最初に雌狼が撃たれた。
母親が倒れたのを見た幼い子供達が、逃げる足を止めて戻って来る。
悲しい鳴き声を上げて死んだ母親に縋りつく幼い子供の狼は、容赦なく蜂の巣にされた。
一番年上の若い狼が唸り声を上げて人間に飛び掛かった。
雷鳴のような音が響いて、息子の身体が地面に転がった。
フェンリルは集団で吠えている犬の群れに飛び込むと、瞬く間に数匹を血祭りに上げた。
猟犬どもが恐怖のあまり後ろ足を震わせながら、人間の下へと一目散に逃げて行く。
口々に喚く人間達に恐ろしい咆哮を浴びせながら、フェンリルは突進した。
息子の時と同じ風を切る音がして、肩と背中に小さな痛みを感じた。
いきなり身体が重くなって、足が地面から離れなくなる。フェンリルの隣には、腹から大量の血を流しながら荒い息を吐いている息子の姿があった。
地面に伏したフェンリルに、人間達が銃を向けて近付いてくる。
フェンリルは動かない身体で、死に物狂いで唸り声を上げて威嚇した。
人間はフェンリルの脇を通り過ぎ、隣に横たわっている息子の頭に銃口を押し当て、引き金を引いた。
「やめろおおぉ!」
自分の放った絶叫でケイは目覚めた。
バネ仕掛けのように飛び起きて、頭を抱えて唸り出す。
「お、おい、ケイ、どうした!大丈夫か?」
あまりの大声に、ベッドの脇の椅子に腰かけて舟を漕いでいたダンが飛び上がった。
慌ててケイの顔に目を据えて様子を伺う。
かっと目を見開くと、ダンの顔がケイの瞳に大写しになった。
(ニンゲン。ニクイ。敵ダ。コロセ)
「がああうっ」
ケイは獣のような声を上げて、自分を覗き込んでいるダンの髪を両手で掴んで引き毟った。
「うわあ、痛えっ!何すんだよ、ケイ、やめろ!俺だ、ダンだ!」
歯を剥き出して今にも顔に噛みつかんばかりのケイの頬を、ダンは思い切り引っ叩いた。
「うっ、痛たたたぁ」
頬を張られて我に返ったケイは、ぽかんとした表情でダンの髪から手を離した。
(夢?)
顔を引き攣らせているダンを見ながら目を瞬かせた。
「あれ?ここは俺の部屋?いつの間に帰って来たんだっけ」
簡素なベッドに、机、それと小さなクローゼットが目に入る。
きょろきょろと部屋を見渡しているケイに、ダンが呆れ顔で言った。
「お前、伍長に腹をぶん殴られたんだよ。気を失っている間に部屋に運ばれて、ベッドに寝かされたんだよ」
「そうだった…」
ビルに殴られたことを思い出したケイは、溜息をついて腹を撫でた。起きた途端、額と頭が疼き、腹も痛い。それに加えて右頬にもひりひりとした痛みが広がっていく。
「ダン、何で俺の頬を叩くんだよ。お前も伍長も、怪我人を殴ったり引っ叩いたりって、酷いじゃないか!」
怒り出したケイを見て、確かにやり過ぎたとダンは反省した。だが、口に出して謝る気はさらさらない。
「仕様がないだろ。寝ぼけてたのかどうか知らないが、お前、俺に噛み付こうとしたんだぜ。引っ叩かなきゃ、俺はお前に頬を食い千切られていた。まるでフェンリルに頭の中を乗っ取られたように見えたぜ。覚えていないのかよ」
「ごめん、覚えてない」
ケイは包帯の巻かれた頭に手を当てて俯いた。
(頭をフェンリルに乗っ取られたように見えた、だって?)
神妙な顔をして押し黙ったケイを、ダンが心配そうに覗き込む。
「かなり痛むのか?」
「これくらい、何ともない」
フェンリル。怪我の痛み。そうじゃい。もっと重要な…。
「エマ!」
立ち上がろうと腰を浮かしたケイを、ダンがベッドに押し戻した。
「エマの様子を見に行くつもりなら、今はやめた方がいい」
「何でだよ」
いきり立つケイの肩を、ダンは掴んで離さない。
「上官命令だ。大人しくベッドで寝ていないと、また伍長にぶん殴られるぞ」
ダンの顔を見て、それが脅しでないことが分かった。
「分かったよ。お前にもこれ以上、迷惑掛けられないしな」
肩を落とし、ベッドの上で膝を抱えたケイを見て、ダンが神妙な口調で言った。
「隠すつもりはないから教えてやるよ。エマは、エマの意識は、まだ戻っていない」
ビルの口から恐ろしい言葉が放たれた。弾けるようにケイが顔を上げる。
「まさか」
「本当だ。はっきりとした原因は分からないけど、ボリス大尉の見立てでは、レミィの腕がドラゴンに破壊された時、スーツの激痛が強烈な副反応となってエマの脳に伝達したんじゃないかって。そのショックで意識が戻ってこないって…」
「だったら、俺は、どうなんだ?フェンリルも黒の機械兵器の長剣で腹を串刺しにされたんだよ。俺も激痛で気を失う寸前だった。だけど、意識はしっかりしている」
「そうだ」
ダンはケイを凝視した。
その瞳に恐怖に近い色が宿っているのに気が付いたケイが、困惑に眉を顰めた。
「お前はフェンリルの暴走した人工神経線維に頭と額の皮膚を食い破られて、顔が真っ赤に染まるくらい血を流していた。アシュルさんもそうだった。フェンリルに脳を深く侵食されて…死んだ。死んだんだ!フェンリルは、あの気狂い狼は、自分と同期したパイロットの脳細胞を食い殺す化け物なんだよ!」
アシュル。
その名前にはっとする。ミニシャが戦士と呼んだ人物の名だ。
「なのに、ケイ、どうしてお前だけ正気でいられるんだ?!」
「破壊したアメリカ軍の兵器及び指令コンテナ車周辺を調べていたところ、敵生存者一名を発見。身柄を拘束しました」
ヤガタの指令室に、戦域の交戦跡で生存者の捜索している兵士から、緊急連絡が入った。
「驚いたな。あの高射砲を受けて生き残った人間がいるとは。すぐに基地まで連れて来い」
ブラウンは、兵士のヘルメットに搭載されているカメラから基地のモニターに送られてくる捕虜の映像を眺めた。
神経質そうな顔をした総身の男が映っている。軍服は着ていない。歳はブラウンと同じくらい。怯え切った目を、あちこちに忙しなく動かしていた。
「アメリカ軍の司令官だろうか。あの様子だと、とても軍人には見えないが」
首を捻るブラウンの隣にいるユラ・ハンヌが捕虜を見て、口の両端を吊り上げた。
「ほう。これは、実に興味深いモノが手に入ったな」
「彼を知っているのですか?」
ハンヌに鋭い視線を当てて、ブラウンが聞き返した。
「ああ。よく知っている男だ。あいつの名はシン・ワンリン。十年前、我が社からアメリカ軍へと寝返った、元ガグル社の研究員だ」