撤退
ダガーとビルは音を立てずに素早く防護壁の階段を下りて、基地の避難通路に向かって全速力で走った。
「四輪駆動車が無事だといいんですが」
走りながら、少し心許無げにビルが言う。
「心配ない。ジャックは敵の砲撃の死角を考えて車を配置している筈だ」
避難用の内部通路を駆け抜けて、基地の後方に出た。ガンマウントが備え付けてある小さな四輪駆動車がすぐに目に入った。
「おお!さすが、ジャック君。いい位置に駐車して置いてくれたこと!」
嬉し気に叫んでからビルは車の運転席に座ると、すぐにエンジンを掛けた。
ダガーはライフルを構えて全方位を監視してから、発車の合図を出して飛び乗った。すかさず、ジャックと無線連絡を取る。
「ジャック、撤退は完了したか」
「こちらジャック。撤退完了しました」
ダガーのヘルメットに内蔵されたスピーカーから、冷静沈着な声が聞こえてくる。
「所定の場所で待機しております!」
「了解した。我々もそちらに向かう。次の作戦に移行せよ」
「軍曹は現在どの位置におられますか?カウントを開始してもよろしいでしょうか」
「少し前にハイランド基地から撤退した。敵はまだ、基地後方まで回り込んで来ていない。早く始めろ」
「爆風に巻き込まれないように、基地から最低でも三百メートル以上は離れて下さい」
「了解」
「カウント開始します」
ジャックが数え始めた。抑揚のない、しかし明瞭な声が、ダガーとビルのヘルメットに内挿されたイヤホンから響いてくる。
「十、九、八…」
「ビル。車の速度を上げろ。思い切り飛ばせ」
ダガーが怒鳴った。
「イエス・サーっす!」
ビルはアクセルを踏んだ。四輪駆動のトルクが唸り声を上げた途端、がくんと車体が傾いた。
少しずつ砂漠化が進行しているハイランドでは、陥没して穴の開いた地面に風が砂を運び込んで、砂だまりを作っている場所がある。そこに運悪く前輪を落としてしまったようだ。タイヤが砂を噛んで思うように速度が出ない。
「五、四…」
「くそっ」
ビルが舌打ちした。
「落ち着け。バックしてからハンドルを切れ」
ダガーが叫ぶ。ビルがギアをバックに入れてアクセルを踏みつけた。タイヤが金切り声を上げ、車体を砂から引っ張り上げようとする。
「三、二…」
ダガーは、背中合わせで運転しているビルを庇うように自分の身体の向きを変えた。ガンマウントをロックし、ハンドルグリップを強く握り締めて、腕に力を入れて爆発の衝撃波に耐える姿勢を取った。
「一…」
ふわっと車体が持ち上がる感覚と同時に、エンジン音が軽くなった。ビルが人間業とは思えぬ早さでギアを戻し、アクセルペダルを思い切り踏み込む。車は何事もなかったように速度を上げて走り出した。
「爆破」
ハイランド基地の前方で閃光が走った。
大量のTNT火薬が爆発した衝撃が空気を引き裂き、直後に放たれた悪魔のような破壊音が鼓膜を襲う。爆破されたコンクリートの破片が宙に弧を描きながら、ダガー達の頭上目掛けて飛んでくる。
砂地から逃れ地面を爆走する四輪駆動車に追いつくことはなく、破片は途中で力尽きて地面に落下した。
基地の爆破直前に砂地を抜け出した車は、間一髪で高性能爆弾の爆風の衝撃から逃れ、テミショアに向かって疾駆した。
ハイランド基地は完全に破壊されて瓦礫となった。基地から空中に立ち上ったキノコ状の黒い爆雲の中で、火の粉が点滅するように赤く光る。
高性能爆弾が作り出した世にも恐ろしい光景を眺めながら、ダガーはジャックに無線で伝達した。
「爆破成功だ。ブラウン大尉に伝えてくれ。我々は予定通りにテミショアに向かう。」
「了解しました。自分たちもテミショアに向かい、ブラウン中隊と合流します」
ジャックの淡々とした言葉が無線を通して返ってくる。ビルが大声で、こっちの安否確認ぐらいしろと、ジャックに悪態を付いている。
「ジャックの奴、派手にキメやがって。爆風で一瞬車体浮きましたからね!あとちょっと遅かったら、俺たち車ごと吹き飛ばされてましたよ!横転しなくてホント、良かったっすよぅ」
ビルは深く息を吐いて額の汗を手で拭った。かなり緊張していたらしい。
「地雷でもた付いていた敵の戦車隊を、一網打尽に出来ましたかね?」
「そう願うしかないな」
大反撃の波に乗った軍事同盟軍の躍進を止めることは難しい。しかし、出鼻を挫けば進軍の速度は遅くなるだろう。
「じゃないと、ハイランドを犠牲にした意味がない」
ダガーは双眼鏡を残骸になった基地に標準を当てて、様子を伺った。
軍事同盟の動きはまだない。西へ、テミショアへとビルは車を疾走させる。ハイランドは双眼鏡の中でゆらゆら揺らめく影となって消え失せ、爆破の名残りの黒煙が、空中に薄く棚引くだけとなった。
ようやく砂だらけの平坦地を抜けて、運転するのに都合の良い強固な大地が眼下に広がり始めた。ビルが四輪駆動車の速度を上げる。
テミショアに近づくにつれて、灰色一色だった砂の荒地が徐々に緑で染まっていく。
水脈が生きている大地には草木が生い茂り、群生している山野草の白や黄色の花がそよ風に揺られて、美しい風景に色を添えていた。
草の間から背伸びした野ウサギが、派手なエンジン音を立てて走る四輪駆動車を何事かと眺めている。水分を多く含んだ空気が、さっきまで乾燥と砂埃で痛めつけられた鼻腔の粘膜を優しく撫でてから、肺に落ちていく。
アウェイオンやハイランドで兵士を苦しめる太陽は、この地では生きるもの全てに恵みを与える神となる。
ダガーはウサギのきょとんとした顔を見て、自分の頬が少しだけ緩むのを感じた。しかしすぐに口を引き締め、姿勢を正した。
この緑の土地は、もうすぐ敵の戦車のキャタピラで無慈悲に踏み潰されるのだ。
戦域の定めとして。
広葉樹が生い茂る山畝を有するテミショアは、砂漠化したアウェイオンやハイランドとは違い防御に適した地形である。太い頑丈な木々が密集する山の斜径を、大型の戦車が大挙して押し寄せることは不可能だ。
防御陣地を幾重にも巡らせて守備部隊を配置し、軍事同盟軍の攻撃を食い止めるのが最も有効な戦略だ。
(今まではそれが通用した。だが、これからは?)
「ヴァリル、無事か?」
ヘルメットに内蔵された無線からブラウンの明瞭な声が聞こえて来た。作戦本部が近いようだ。
「軍事同盟軍にどのくらい損害を与えられたかな?」
「先陣を切って突撃して来た戦車隊は全滅させました。第二部隊も地雷と基地の爆破で、かなり撃破出来たと思います」
「簡易基地でのまさかの捨て身の抵抗にあって、軍事同盟軍はさぞかし驚いていることだろう。あれで敵の戦車隊の足が少しでも止まれば、反撃の時間が稼げるかも知れない」
「ハイランドで飛行兵器の襲撃に会わなかったのが幸いでした」
「敵がハイランド攻撃にドラゴンを使わないと踏んだのは、大当たりだな。だが、それは我々にとって都合の良い話ではない。戦略的に必要がないだけのことだ。戦車隊の損害が大きいとなれば、次は、我々の頭上にドラゴンが飛来するのは必至だ」
「大尉の言葉が現実になりそうです」
双眼鏡で後方を見張っていたダガーは、運転に集中しているビルの肩越しに大声で言った。
「ビル!車を隠せ!」
「ええっ!もう敵が攻めて来たんですか?早くないっすか?」
ビルが慌てて車の速度を落とし、きょろきょろと辺りを見回す。
「隠すって、何処へ?」
「あの大きく枝の張った樹下でいい。木の幹に車を寄せろ」
「それって隠れたことになるんですか?車の前と後ろが丸見えですよ!」
首を傾げながら、ビルはダガーに言われた通りに、山裾の手前にある一本の木の脇に車を寄せた。
「大丈夫だ」
ダガーは低い声でビルに言った。
「空からは、見つからない」