対面・1
台風、大変でしたね。 皆様はご無事でしょうか?
アップが一日遅れて<(_ _)>です。
住居近くの川が氾濫しそうでひやひやしてました。消防団員の方が二度見えて、早く非難するように言われましたが、外はもう真っ暗だし、避難所の中学校の方が川に近いし(校舎の二、三階にいれば安心だとは思いますが…)取り敢えず家の二階で様子を見ていました。深夜前には雨も小降りになったのでほっとしましたが、テレビで決壊した川を見ると本当に胸の痛い思いです。
朦朧とした意識の中で途切れ途切れの微かな音を、イヤホンが拾った。
声だ。
ケイがよく知っている、涼やかだけど可愛らしい声。
その声が自分の耳に届く度に嬉しくなって、胸の鼓動が少し早くなる。
だけど。
今、聞こえてくるのは悲鳴だ。
痛くて。苦しくて。
命が消えてしまいそうなくらいの激痛に苛まれた、悲鳴。
「…これ…は、エマの、悲鳴?」
ケイはフェンリルの操縦席で意識を取り戻した。
目を開けると、ヘルメットのバイザーディスプレイには何も映っていなかった。意識を失ったせいでフェンリルの戦闘モードが自動的に切れたらしい。真っ暗な操縦席で、自分の顔にそっと手を当てる。
頬に粘つく感触がある。額から流れた血が、時間が経って凝固したせいだろう。
「フェンリルの神経線維がなくなっている」
頬の血糊を手の甲で拭ってから、ケイはヘルメットの側面に両手を添えて慎重に持ち上げた。
気絶して同期出来なくなったからなのか、荒ぶるフェンリルの人工神経は通常の状態に戻ってヘルメットの中に収まっていた。
外したヘルメットを腕に抱えて深く息を吐いてから、ケイは再びヘルメットを頭に乗せた。
「フェンリル、お前と同期するよ。頼むから今度は暴走しないでくれ」
意を決して、ケイはヘルメットを被った。
ヴゥン、と、低い振動音と共にヘルメットが起動し、操縦室に電力が戻ってくる。
ケイの目の前にモニターパネルが浮かび上がり、敵と味方の位置が点滅して記された。
「これは?」
ケイはレーダーに目を凝らした。緑と黄色が重なり合っている。
「フェンリルが倒した四足兵器のすぐ近くだ。レミィとドラゴンが戦っているのか?」
そうだ。意識が戻る前、耳に入ってきたのは、確かにエマの悲鳴だった。
「エマが危ない。急げ、フェンリル!」
ケイはフェンリルを四足に変形して、戦いの場に急行しようと高速モードで走り出した。
砂の丘陵を一つ越えると、砂塵の海原に、漆黒の巨魁が聳え立っていた。
太陽光線に反射してきらきらと輝く翼をフェンリルに向けている。
敵スーツが接近して来るのに気付いたドラゴンが、まずは顔を、それから岩の如き巨体をゆっくりとフェンリルに向けた。
怪物の両腕にあるものを目にした途端、ケイは怒りに全身を震わせた。
「エマ!!」
レミィはドラゴンに羽交い絞めにされていた。
惨いことに、レミィの右腕が肩から外され、人工神経繊維が切断されている。
僅かに残った数本の繊維で辛うじて肩と繋がっている腕が、時計の振り子のようにゆらゆらと揺れている。ぐったりとしたスーツに動きはない。
「エマ!ああ、くそ!聞こえるか、返事をしてくれ」
ケイはイヤホンに向かってあらん限りの声で、エマの名を叫び続けた。
しかし、エマからの通信は入らず、自分の大声だけがフェンリルの操縦席に響いた。
「狼め。動けるようになったのか」
フィオナはニドホグとフェンリルと向き合わせたまま、動きを止めた。
「エマ?このスーツの中にいるパイロットの名前か。…女なんだな」
ニドホグの中でフィオナは首を傾げてから、口元を歪めた。
「まただ。あの狼スーツのパイロットの声が聞こえる」
ニドホグはフィオナを乗せる為に、胸に有袋類の雌のような袋を持っている。フィオナがその袋の中に入ると分厚い皮膚が閉じ、外界から遮断、密閉されて完璧に防護される。
ニドホグの分厚い胸嚢の中で五感が使えなくなったフィオナは、ニドホグが発する超音波を使って外を“聞き”そして“見る”
フィオナは全てをニドホグの超音波から感じ取る。その能力は戦闘機のレーダー並みで、人の肉眼を遥かに凌駕していた。
なのに。
あの少年の声だけが、ニドホグを突き抜けてフィオナに届く。
「何故、ニドホグの中であいつの声だけが届くの?奴もあたしと同じように、特殊な超音波を使えるってことなのか。だとしたら、あたしの心の声は、あいつにも届くのか?」
いや。でも。
「あの時のあいつは、どう見ても普通の人間だった。」
アウェイオン戦の地獄の中、少年は悲鳴を上げながらニドホグを仰いでいた。
己の死を確信し絶望している。それでも、少年が征服者であるニドホグに怒りを放つのをフィオナは思い出した。
暫し逡巡した後、レミィを抱えたまま対峙しているフェンリルに向かって声を発した。
「狼のスーツのパイロット、お前の名を教えろ。そうすれば、このスーツを開放してやる」
耳に全神経を集中して様子を窺うが、狼のスーツは攻撃体勢を取ったまま動かない。
「聞こえていないようだな。やはり、あいつの声があたしの耳に一方的に入ってくるだけか」
それにしても。
狼スーツのパイロットが少女の名を大声で連呼しているのが、何とも耳障りだ。
悲しみ。憤り。愛情。また、愛情。
少年の声から溢れる慈しみの全てが、ニドホグの手の中にあるスーツに向けられている。
フィオナには溶岩のように煮えたぎった憤怒と殺意をぶつけてくるのが厭わしかった。
「あの少年、エマという少女を、とても大切に思っているようね」
少年の放つ感情は未熟で脆弱だが、鋼鉄にも勝る強さを芯に秘めている。
「ドラゴン!エマを離せ!離さなければ、お前を殺す!!」
レミィを胸元に押し付けたままのドラゴンに、ケイは怒りの雄叫びを上げた。
「お前がニドホグを殺すだと?面白い!殺せるもんなら、殺してみろ!」
ケイの言葉にかっとなったフィオナは、聞こえないのを承知でフェンリルに向かって大声で叫んだ。
何故だろう。少年の心がフィオナではなく、エマという少女に向くのが不愉快で仕方がない。
「その前に、こいつがどうなるか見るがいい。このスーツの中にいるエマとかいうパイロットを、マクドナルド大佐のようにしてやる!」
フィオナはニドホグの鉤爪をレミィの胸に突き刺した。
高強度の複合素材で作られているスーツの甲冑が薄紙のように引き裂かれていく。
甲冑と共に人工筋線維も引き千切られて、エマの操縦席が剥き出しになる。
金属板で覆われた操縦席の前と上の部分を、ニドホグはいとも簡単に毟り取った。操縦席に座ったまま意識を失っているエマの姿が露わになる。
「エマ!」
エマはヘルメットを装着した状態で前方に頭を落とすような格好で、操縦席に座っていた。
クロスしたシートベルトで固定されていなかったら、レミィから落下してしまうに違いない。
ニドホグの鉤爪の先端が恐ろしく器用に動いて、エマの頭からヘルメットを外した。
ヘルメットから零れ出た美しい金髪が、砂埃を舞い上がらせる風にさらさらと揺れた。
「エマ!エマ―――!!」
我を忘れてニドホグへと駆け寄ろうとするフェンリルを見たフィオナは、ニドホグから上半身を出して叫んだ。
「狼のスーツ!それ以上近付くものなら、この少女を殺すぞ」
凛とした少女の声が砂漠に響いた。
フェンリルの足を止めて、ドラゴンの胸の上から叫ぶ少女を目にしたケイは、驚愕に思わずあっと声を上げた。
白い肌。薄茶色の大きな瞳。
それは、ドラゴンの黒い弾丸を撃ち込まれそうになった絶望の瞬間に見た少女の顔だった。
「お前は、アウェイオン戦の時の…。幻じゃなかったのか!!」
息を飲むケイの前で、少女は全身を露わにしていた。
少女は癖のある毛髪を風になびかせてフェンリルを凝視している。密着した薄い肌色のスーツを着ている身体は驚くほど華奢だ。
少女が動いた。
細くて長い手足がドラゴンのごつごつした皮膚の上を器用に滑っていく。
少女はレミィの操縦席の中に侵入すると、エマの同期装置とシートベルトを全て外した。エマの腰に腕を回してその身体を軽々と抱え上げ、髪を乱暴につかんで首を持ち上げる。
「エマに何をするつもりだ!」
思わずフェンリルの足を一歩進めたケイに、フィオナが鋭い声で一喝した。
「動くなと言った筈だ!狼、こいつが死んでもいいのか?」
言うが早く、フィオナはエマの首を覆っているインナースーツを胸元まで引き裂いた。
露わになった白い喉を人差し指で真一文字にすうっと撫でる。
エマの白い首に一本の赤い線が現れる。線の所々に血の粒が膨らんでは弾けて流れた。
鮮血は首筋を伝ってエマの胸へと零れ落ちていく。
「やめろ!やめてくれ!」
狼スーツの中から聞こえてくる少年の悲痛な叫び声に、フィオナはふんと鼻を鳴らした。
「こいつを殺されたくないのなら、狼スーツのパイロット、スーツのコクピットから出て、あたしにお前の姿を見せろ」
「…え?」
思いもしない少女の要求に、ケイは一瞬ぽかんとなった。
「どうした?聞こえなかったのか?」
苛立った少女の声に、ケイは慌てて返事をする。
「分かった。だから、エマを殺さないでくれ!」
ドラゴンの少女の要求を飲んだケイは、すぐにヘルメットを脱ぎ、同期装置を外して、フェンリルのコクピットを開け放って立ち上がった。
「これで、いいか?」
フィオナは瞬きもせずに、フェンリルのコクピットを見つめた。