女心…。 ※
生まれて初めて貴族のパーティーに行くことになった。
肩と胸の大きく開いたフリルだらけのドレスを着せられて、目も眩むような豪宅にエマは両親と共に訪れた。
父が平身低頭でお辞儀する老人がこの邸宅の主人だった。
「ようこそ、エマ。美しく育ったね。君のお祖母様に瓜二つだ。君を見て感激する紳士も少なからずいるだろう。何せ名前も同じなのだから。結婚して侯爵夫人となった暁には、君も彼女と同じく社交界の花となって、プロシアの上流階級を風靡するようになるだろう。今から楽しみだ」
老紳士の言葉に、エマは衝撃を受けた。
(結婚?私が?侯爵って、誰?)
ホールに両親を残して、エマは老紳士と一緒に贅の限りを尽くしたな綺羅部やかな応接室に案内された。
老紳士の後から丈の長い純白のドレスを引きずって部屋に入ると、大きな窓を背にしてな豪奢なソファに踏ん反り返るように中年の男が座っていた。
男のソファの後ろと両脇に陣取っている派手な装いの女達が、一斉にエマに尖った視線を投げつける。
エマは才気の欠片もない男の姿をまじまじと見た。
男は人生を無為徒食と色欲に費やしたとしか思えない、崩れ切った風貌を晒していた。
突き出た腹のせいで、ソファの背に凭れるようにしか座れないようだ。
男の持った大ぶりのグラスに、隣の赤いドレスの女がデカンタの瓶をうやうやしく傾けてワインを注いでいる。肉付きの良い頬がだらしなく弛緩して、分厚い唇が品の無い笑みを作った。
「このお方は、君の夫となるヨハルトマン侯爵だ。ヨハルトマン家はハプスブルグ家の分家で、名門のお家柄だ。本来ならば新参者のヤコブソン家などとはとても釣り合いが取れないのだが、侯爵が君をいたく気に入られてね。身分など関係なく娶りたいと仰っている。エマ、君は本当に果報者だよ」
老紳士はひどく優しい口調で、エマに残酷な未来を宣言した。
「さあ、君の夫となるお方にご挨拶しなさい」
無慈悲に背中を強く押された。
服従を強制する手の力だった。屈辱に震える身体に鞭打って、エマはヨハルトマンに深く会釈をした。
胸元の大きく開いたドレスで、正面に座っている男に身を屈めた。
顔を上げて男の表情を見たその時の羞恥の鮮烈さは、エマの脳裏から決して消えることはなく、思い出す度に今でも吐き気が込み上げる。
「それは…大変だった、ね」
どんな言葉をかけていいか分からないといったケイの固まった表情を横目で見ながら、エマは大仰に溜息をついた。
「まあね。その時はこの世はもうお終いだってくらいに絶望したけど」
舌なめずりしながら自分の身体を抱き込もうと両手を伸ばしてくる侯爵を振り払って、人気のないバルコニーに逃げた時、そこで出会った一人の兵士が自分の運命を変えたのだった。
老紳士の邸宅にはプロシア軍の貴族将校も招待されていたのだろう。上官の護衛の為にバルコニーに一人で待機する兵士は、息を切らして手すりにしがみ付き嗚咽を洩らし始めたエマを一瞥して静かに言った。
「泣いている暇があったら最善策を考えろ。そして行動しろ」と。
エマは手すりから顔を上げて、兵士の顔を見た。端正な顔立ちの青年だった。
「その人の言葉があたしを変えたの。で、その日のうちに家を飛び出して、兵科に入隊したってわけ」
「すごい行動力だね」
「すごくもなんともないよ。侯爵って身分だけで偉そうに踏ん反り返っているキモいおっさんと結婚させられるのが、死ぬより嫌だったって話」
エマは心底嫌そうに顔を顰めて身体を震わせた。
「ううう。今思い出しても、背中に虫唾が走る!だから、兵士になろうとした動機はあなたと一緒ってことね。あたしにも崇高な精神は何処にもないんだ。ただ、あの時の兵士にはすごく感謝している」
シーツの上に“の”の字を繰り返し書きながら、エマは少し恥ずかしそうに顔を伏せた。
「貴族の社交場の警護に当たれる兵士だから、下士官くらいの地位にある人だと思う。いつかまた会えたらいいなって思っている。お礼を言いたいの。あたしの運命を変えてくれた人だから」
エマは顔を伏せたまま、自分の膝の上に両手を乗せると指をもじもじと動かした。
「それでね」
「うん」
「随分と前置きが長くなったんだけど、今から本題に入るね」
「前置き?」
ケイは盛大に首を傾げてエマの言葉を反芻した。
「本題?」
エマは背筋を伸ばして顔を上げると、ケイに険しい視線を向けた。
さっきまでの麗しい乙女の表情が嘘のように掻き消えて、訓練時の厳しい目付きでケイを睨んでいる。
「あのさ、訓練中に、あのバカがとんでもない事をあんたに吹き込んでいたようだけど、全部嘘っぱちだからね!」
「あのバカって…」
ダンの事だ。
「ああ、君がダガー軍曹に惚れているって」
「だからね、それ、全然、違うから」
思わず口にしてしまった言葉にエマがすかさず反応した。
両肩を小さく持ち上げ目を眇め、薄ら寒い微笑みをケイに向けた。二オクターブ低くなった声が、威嚇する猫の唸り声のように聞こえて、ケイの背筋が冷たくなる。
「確かにあたしは軍曹をとても尊敬している。だけどそれは、好きって言うのとは全く違うの。さっきの話、ちゃんと聞いていたよね?だったら、分かるよね?分かったよねぇ?」
「うんうんうんうん。分かる、よぉぉく分かっているよ!」
高速で首を上下に振って、ケイはエマに同意した。
「全てダンの思い込みだ。あいつの勘違いなんだよね」
「そう、そうなの!良かったぁ。誤解されたまま実戦になったらどうしようかと思ってたの。こんなもやもやした気持ちのままじゃ、全力を出して敵と戦えないじゃない!」
ケイの部屋を訪ねて来た時の深刻な表情と打って変わって晴れやかに笑いながら、エマは勢いよくベッドから立ち上がった。
「あたしの話に付き合ってくれたありがとう。貴重な睡眠時間を削っちゃって、ごめんね、ケイ」
ベッドに座ってぽかんと口を開けたままのケイに軽いウインクを残すと、エマはさっさと部屋から出ていった。
「エマ。君は一体、何しに来たんだ?」
一人に戻った部屋の中でぼんやりと壁を見つめながら、ケイはしきりに首を傾げた。
お互いの生い立ちまで話して、一気に親交が深まったと思ったのに。
残念ながらそれは自分の完全な独りよがりで、最初から訓練時のダンの話を否定するためだけに、彼女はこの部屋を訪れたのだ。
ダガー軍曹に惚れているとかいないとか。
あんなの、ダンの負け惜しみだって分かっているのに。
長い長い前置きなんて必要だろうか。それも、普通なら喋りたくもない重い過去を持ち出して。
(軍曹が好きだって勘違いされるのが、そんなに嫌だったのかな)
そうだ。エマは俺に誤解されたまま戦闘に入るのが嫌だって言ったじゃないか。
だったら、それは、それは…。
(エマは、俺に、少しは気があるってこと?)
「いや、いや、いや」
ケイは激しく左右に頭を振った。
エマの話の内容からすると、運命を変えてくれた兵士に彼女は未だに好意を寄せている。
「…気がする。いや、本当はダンが好きとか」
まさか。それは絶対にあり得ない。好きな男に鉄拳を振るい、腹に足蹴りを食らわせる女子がこの世にいるとは思えない。思いたくもない。
(だけど、あれだけムキになって否定するエマを見たら、軍曹に惚れているっていう、ダンの見立ては強ち間違っていないような気もするし…)
身の上話をしてくれたのは、自分に心を開いてくれているからなんだろうけど。
やっぱり、エマは、ダンよりは自分に好意を持ってくれているってことなのだろうか。
(ああっもう!だから、そういうことじゃなくて)
何考えてんだ、俺。ケイはベッドに乱暴に横たわった。
(これからの戦闘には、全く関係ない話じゃないか)
そうだ。もうすぐ戦争になるんだ。
今の自分に必要なのは睡眠だ。フェンリルとの同期で疲労した脳と身体を早く休ませなければ。
瞼を閉じてみるものの、頭は完全に冴えてしまっている。
(女の子って)
さっぱり分からない。