誘惑
「チームαのデータですって?それは、全てガグル社に提出している筈ですが」
呆けた顔で首を傾けるミニシャに、ハンヌは顔を近づけて言った。
「私を見くびるな。ミニシャ・ボリス」
突然、ハンヌの涼やかな声が低く皺枯れた。ミニシャがびくりと肩を震わせる。
「お前から渡されたデータは、いくら計算しても数値が合わない個所がある。あれは非常に巧妙に改ざんされたものだ」
「そんな、バカな!私自身が確認したんですよ?改ざんなんて、あり得ませーん!」
青褪めた顔で髪の毛を掻きむしるミニシャの態度を見て、ハンヌは腹立たし気に舌打ちした。
「その様子だと、データの改ざんは知らされていないようだな。ボリス、お前を攻めても仕方がない。それに、誰がこんなふざけた真似をしたのか、検討は付いている」
あいつか!ミニシャは頭を抱えた。やってくれたな、ウェルク・ブラウン!
(あ、そうか。だから、すぐにユラ・ハンヌがヤガタに来たのか)
ようやく理解出来た。あのおっさん、こっちが怖くなるほど頭が切れる。
そして、とんでもない嘘つき野郎だ!
「チームαのパイロットと生体スーツの人工脳のシンクロ部分、一番重要である数値だけ、どうしても計算が合わないのだ。ブラウンめ、ガグル社と取引する(ディール)為に偽のデータを寄こしたに違いない。全く大それた奴だ。私はヤガタ製の生体スーツの正確なデータが欲しい。それを今後の研究に生かしたい」
「今後って…」
ユラ・ハンヌの言葉にミニシャが頬を思い切り引き攣らせた。
「戦闘が開始されれば、プロシアの命運がかかった戦争になります。このヤガタ基地も」
「承知している」
言葉も表情もまるで他人事のハンヌに、ミニシャは思わず声を荒げた。
「軍事同盟に連邦軍が敗北すれば、プロシアはロシアとアメリカ軍に分割されてしまう最悪の事態に陥る可能性があります。祖国の存亡が迫っているという時にデータの話なんかしている暇はない!」
「プロシアが、君の祖国?出自の歴史を失った人間の、なんと哀れなことよ」
ハンヌは皮肉そうに目を細め、薄く開けた唇の間からはっと短く息を吐き出した。
「君の本当の祖国は、エンド・ウォーで国を焼き尽くされたヨーロッパ東北部の小国だ。旧ドイツに逃げて来た君の先祖を永住させる代わりに、耕作地に農奴として縛り付けたのが、プロシアだ。そんな国に、君は忠誠を誓うのかい?」
絨毯の上に広げてあったミニシャの両手が堅い拳に変わる。
「あの地には、私の父と妹がいます」
「十年以上前に君が捨てた家族が住んでいると、ただそれだけの話だろう?虐げられた思い出しかない土地が君の故郷だと本気で言ってるのか?」
「……」
ハンヌに全て見透かされていた。反論する言葉はどこにもなかった。
ミニシャはハンヌの顔から力なく視線を外して項垂れた。
プロシア国家の大激変に不安を覚えても、正直それは、恐ろしく茫漠としたものだった。
真剣に危惧する気持ちも起きず、遠い故郷よりもヤガタを守る事で今は頭が一杯だ。
エンド・ウォーで衰退したヨーロッパの国々が逆立ちしても持つことの出来ない技術を集約したこの基地を、軍事同盟軍なんかに蹂躙させてはならないという思いの方が、ミニシャにとってはずっと強いのだ。
「君の心情を察しているのだよ、ボリス大尉」
ハンヌが和らいだ声を出した。
「理不尽な身分制度の下に生まれ落ちて、少女時代には満足に教育も受けられなかった。君を拾ってくれたプロシアに、軍に忠誠を尽くなければと、刷り込まれた恩義にその身も心も呪縛されている。類まれな才能に目を付けて、利用しているだけの集団にね」
「わ、私は」
床に敷き詰められた絨毯が嫌でも目に入る。
驚くほど繊細な鳥と植物をモチーフにした美しい絨毯だった。
自分の母親と同じような身分の女の手で、昼夜と問わずに織り上げられたものだろう。
どんなに働いても食べるのがやっとの生活だった。
働き過ぎて病に臥せった母に薬を買う蓄えもなく、やせ衰えていく母の身体を抱き起して薄い粥を啜らせるのがやっとの生活だった。
「貴方の言う通りです。だからこそ、私は、このヤガタを死守しなければならない」
ミニシャはぎゅっと目を瞑り、声を絞り出した。
「ここが、私の居場所だから」
「違うな」
ハンヌは涼やかな声に戻り、ミニシャの強張った肩を優しく撫でた。
今迄でからは考えられないハンヌの行動にミニシャは狼狽えた。
「君の居場所は他にある」
「え?」
突然、高い天井から大音響が降って来た。耳障りな合成音が鳴り響く理由は一つしかない。
「戦域で戦闘が始まったんだ!指令室に戻らないと」
ミニシャが弾けるように顔を上げた。
床から身体を起こそうとするミニシャを強い力が押し止めた。ハンヌのか細い腕にいとも容易く己の身体の動きを封じられたのに驚いて、ミニシャは目の前の細面の顔を凝視した。両眼を貫くように、ハンヌの黒い瞳がミニシャの視線と交差する。
「ガグル社だよ。ミニシャ・ボリス。君の能力に相応しい場所は」
「な、な、何を言ってるんですか?ユラ・ハンヌ!」
ミニシャは目を剥いて叫んだ。
「この非常時にいくら何でもそんな冗談…」
「冗談なんかじゃない。私は君をガグル社に連れて行くつもりだ」
「わ、た、し、を、ガグル社に!!」
酸欠の魚のようにミニシャは口をパクパクさせた。
「君はガグル社の正規研究員になれる能力を十分に備えている。退行に身を任せるしか能のないこの世界の為に、その卓越した頭脳を摩耗させる必要はない。だが、君をガグル社に迎え入れるには、社の役員たちを納得させる手土産が必要だ」
「それが、チームα生体スーツの正確なデータだと言うんですか?」
「そうだ」
ハンヌがゆっくりと頷いた。
「ヤガタ基地のメインコンピューターにアクセスしてみたが、生体スーツのデータはきれいさっぱり消去されていた。君はスーツ開発の当事者だ。私が望んでいるデータなど簡単に手に入るだろう?一体どこに隠したんだ?」
「あれは…」
ミニシャの顔が見る見るうちに青褪めていく。
「生体スーツの人工脳データはプロシアの最重要国家機密です。メモリ―チップに保存されて、ヤガタ基地の地下金庫に重要書類と一緒に厳重に保管されています。開発責任者であっても許可なく持ち出す事など出来ません」
「それはフェイクデータだろう」
ハンヌがミニシャの話を聞いて眉を顰めた。
「ガグル社に渡されたものと同じものだ。本物のデータはヤガタ司令官ウェルク・ブラウンが隠し持っている筈だ。私の推測では、ブラウン中佐はヤガタ基地が軍事同盟に陥落する最悪の事態を憂慮して、自分の手元に保管しているのだ。敵の手に渡すくらいなら、彼は破壊も厭わぬ考えだ。だが、そんな事をされたら、ガグル社は大損失を被ってしまう。メモリを奪ってブラウンから彼の個人IⅮを聞き出せ。後は、私がこれで…」
ハンヌは右手の手袋を取って、掌をミニシャに向けた。手の関節に沿って白色に光る筋がゆっくりと移動している。
「私にボディセットしてあるDNAコンピュータだ」
貴族の女性のものと見紛う細く美しい手に再び手袋を嵌めて、ミニシャの目の位置に据えた。
「そして、これはグローブ端末。ブラウンが秘密裏に保存しているメモリを奪い、生体スーツのデータをこれで瞬時に抜き取る」
ハンヌはミニシャの顔の前で五本の指をピアノの鍵盤を叩くように動かした。
「だけど、どうやって?貴方の考え通りなら、ウェルクが大人しくデータを渡す筈がない」
「それは君に任せる。彼が素直に応じなければ、強硬手段を取っても構わない」
「ええっ!それって、まさか」
ミニシャは身体中から冷たい汗が噴き出すのを感じた。
「私にヤガタの司令官に銃を突き付けて脅せってコトですか?そんな事したら、私は共和国連邦プロシア軍大尉の地位を剥奪されて刑務所行きだ!」
「お前の行き先は刑務所ではない、ボリス大尉。いや、ミニシャ・ボリス」
ハンヌは血の気が失せたミニシャの頬に形の良い薄い唇を近づけて、そっと啄んだ。
ひっと声を上げて身を硬直させるミニシャの姿に、ハンヌは愉快そうに目を細めた。
全く熱を感じない冷たい接吻の後、ハンヌの唇がミニシャの耳元に移動する。
悪魔と睦言を交わす堕天使の如き囁き声が、ミニシャの奥深くに放たれた。
「エンド・ウォー後、このヨーロッパ大陸に君臨するガグル社の創設者、ファン・アシュケナジの元に下れ。彼こそ、最終戦争以降の世界に降臨した万能の神だ。アシュケナジを頂点とするガグル社こそが、真の人間が存在する真の世界なのだ。その神聖な場所に、ボリス、お前を招き入れてやろう」