思い出の裏側
養護院の狭い庭をひらひらと舞う蝶を見つけて、ケイははしゃいだ。
「クリス!来て。ほら、モンシロチョウだよ」
「本当だ。かわいいね」
クリスは微笑みながら、ケイの頭をぽんぽんと軽く叩いた。
クリスは昆虫が好きな少年だった。
施設の子供たちは、虫なんてあまり関心を示さなかったが、ケイだけは目を輝かせて、クリスの話を聞いていた。
クリスは昆虫の中でも、特に蝶に興味を持っていた。あの薄くて柔らかい大きな羽が、いかに強靭にできているか、幼いケイに熱心に説明してくれた。
「海を渡って大集団で移動する蝶もいたんだよ。ここじゃない、もっと遠くの大陸にね。戦争で絶滅していなければいいな。そうしたら、いつか見ることが出来るだろうから」
クリスの話は専門的過ぎて、殆んど理解出来なかった。それでもケイは一生懸命、クリスの言葉に耳を傾けた。話を聞くことでクリスに必要とされているのが嬉しかった。
多分、クリスもそうだったのだろう。
養護院でも学校でも突出して聡明だと言われている少年が、自分より一回りも年下の、あまり賢いとはいえない幼い男の子に、通っている学校から分厚い昆虫図鑑を借りてきてまで、熱心に説明していたのだから。
お互い親に必要とされなくて、ここにいるのだという事は幼心に十分に理解していた。
養護院で生活しているのは、似たような境遇の子供ばかりだったし、施設の寮母や職員に愛情深く育てられたから、あまり寂しさを感じなかった。
そうではない。感じても仕方がないというのが本音なのだ。
ここに住んでいる子供達は、子供の人生において最も必要なものを諦めないと、生きてはいけないから。
親から貰える愛情を。
だから、クリスが軍の士官養成学校に行くと決まったとき、ケイは辺り構わず大声で泣き喚いた。クリスには、自分はもう必要なくなったと理解したからだった。
クリスは成長し、自分の道を歩き始めた。士官学校で優秀な成績を収めれば、親の無い貧しい少年でも未来が開けると考えたのだ。
「本当は大学に行って、昆虫の研究をするのが夢なんだけどね」
クリスは、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっているケイの顔をタオルで拭きながら言った。
「士官学校で優秀な成績を収めれば、国から大学に行く奨学金が貰えるんだ。士官として実戦の経験を積む必要もあるから、すぐに行ける訳ではないけどね。でも、どんなに回り道をしても、最終的に自分の思い描いた道に辿り着ければいいと、俺は思っている。ケイも大きくなったら分かるよ。お前も頑張って自分の道を進むんだぞ」
いつものようにケイの頭を軽く叩いて、クリスは養護院を出て行った。
めそめそ泣きながらクリスを見送ったケイだったが、すぐに同年代の子供達と年相応の遊びに目覚めてからは、クリスと過ごした日々の記憶は徐々に薄らいでいった。
養護院に届くクリスの手紙も、年を重ねるに連れて減っていった。下士官の試験に一発で合格したとの知らせに、養護院の大人たちが興奮し喜々として話しているのを、その時のケイは、もう他人事のように聞いていた。
転機が訪れたのは、一年前、クリスが戦死したとの通知が届いてからだった。
クリスは少尉にまで昇進していた。
下級市民出身としては異例の早さだと、ケイの周りの大人たちは口々にクリスを褒め湛えていた。
それが一転してしまった。町で、学校で、養護院で、クリスを知る全ての大人達は、クリスの死を悼み嘆き悲しんでいた。
彼らの姿を見てケイは思った。クリスは夢を叶えたのだ。
クリスは死んでしまったけれど、彼はこんなにも大勢の人間から慕われる人間になっていた。
俺も兵隊に志願しよう。世の中に必要とされる人間になるんだ。
だから、クリスが戦死したと知ったあの時、自分がクリスの代わりになるのだと決心した。
ケイ・コストナーは、クリストファー・エイトンの遺志を継いで、立派な兵士になるのだと。
幼い頃の記憶ほど、曖昧なものはない。
勝手な解釈に作り話を付け加え、自分好みの色を塗りつける。
それが今、現実の世界を突き付けられ、恐怖した挙句にクリスとの本当の記憶がやっと甦ってきた。
蝶が大好きだったクリス。
アウェイオンで死んだキアゲハを見つけるまで、思い出すこともなかった。
クリスは兵士になりたい訳じゃなかった。上の学校に進学する手段として、兵士になることを選んだのだ。親も金もない少年には、将来の夢を叶える手段がそれしかなかったから。
戦場を駆け巡るクリスの雄姿を想像して、自分に当て嵌め、勝手に夢想していただけだ。
「今更、死ぬのが怖いだなんて。誰に言えるっていうんだ」
どんなに後悔しても、時間が巻き戻るわけでもない。
火傷しそうな熱いお湯を全身に浴びたお陰で、レリックの血は綺麗に洗い流されていた。タオルで乱暴に身体を拭いてから、ケイは急いで服を身に着けた。更衣室の前ではハナが静かに、だけどイライラしながら待っている筈だ。
ドアを開けると、案の定、目の前にハナが胸の上に両腕を組んで、仁王立ちして待っていた。
「遅い!」
イライラどころではない。かなり怒っているみたいだ。
(クールな美人が睨むと、こんなに迫力があるのか)
ハナの威圧に背筋がピンと張る。ケイは直立不動になって敬礼した。
「す、す、すいません!」
「急いで!時間がないの。我が軍の戦局はかなり悪い。ハイランドが持ちこたえてくれればいいのだけど。あの飛行兵器がまた襲ってきたら一巻の終わりだわ」
そうだ。今は戦争中だ。そして俺は兵士で、あの飛行兵器が追ってくる。全ての敵を殺すまで、飛行兵器から放たれる、鋭くとがった黒い殺傷兵器が自分に飛んでくる。逃げる場所なんて、ないじゃないか。
この、長い戦争戦争は、終わる。
埃まみれの古参兵の顔が脳裏に浮かんだ。歯をむき出して嬉しそうに笑う、ケイの命の恩人の顔が。
(違うよ、レリックさん)
ケイは胸の中で叫んだ。
(たった今、始まったばかりなんだ)