逃避行
夜が明け、全てをかき消すような土砂降りの中2人は小屋を出てカルディアへの道をヘルハウンドに見つからないように慎重に進んだ。
傷口が冷たい雨に打たれ、痛みがどんどん増していく。忠一は顔が歪みそうになる苦痛を必死に噛み殺して平気なふりをするが、たまに傷跡を抑えるたびウルスラが心配そうな顔で忠一の顔を覗き込む。
時折3~4匹のヘルハウンドの群れがうろつきまわっているところに遭遇し、その度に「しっ」と忠一はウルスラの肩を抑えて木陰に隠れた。
本当に雨で助かった。忠一は心からそう思った。もし今が晴天であれば連中の鼻と耳で、人間の動きなどすぐに捕捉されてしまうだろう。
(それにしてもーー)
と、忠一は不思議だった。ヘルハウンドたちは随分統率のとれた動きをするのだ。まだこちらは見つかっていないものの、忠一たちは一定間隔で辺りを警戒するヘルハウンドの群れに遭遇するのだ。それも単体ではなく常に3~4匹のチームを組んでいる。まるで戦闘に勝った軍隊が行う敗残兵狩りのように徹底している。
とはいえ、戦争と違うのは手を挙げて降伏しても絶対に捕虜になどしてくれないところだ。
森を抜けるまで残り3キロほどとなった時だった。
30メートル程離れた背後から敵意に満ちた遠吠えが忠一たちの耳に響いた。
とっさに振り向くと3匹のヘルハウンドが横一列になって突進してくる。
「くそ!見つかった! 俺の後ろから離れるなよ!」
忠一はヘルハウンドから視線を離さずにそう叫ぶと列の中心のヘルハウンドの頭を撃ち抜き、すぐさまボルトを引いてさらにもう1匹撃ち抜く。
残ったヘルハウンドが後ずさりし、背中を向けて元来た方へと走り去った。
「助かったの?」
縋るような声で忠一の腕を掴むウルスラに彼は首を横に振る。
「走るぞ。 すぐに追手が来る」
後ろから凄まじい速度で大量の足音が2人に迫って来ているのが分かる。それだけではない。前方から多くの黒い影がぼんやりと2人に向かって来る。
「挟み撃ちにされてる。馬車道から出るぞ」
そう言って忠一はウルスラの腕を掴み木々の間に飛び込んだ。はぐれないように手を繋ぎ、身を屈めて息を殺して腰の高さほどもある生い茂った草木を慎重にかき分けて進んだ。
大きな木の空洞部分に身を潜めて忠一は馬車道を覗き込み、思わず悲鳴が出そうになるのをなんとか押し殺す。
前後から来た30匹程のヘルハウンドの大群、その中に明らかに異形の姿の化け物が1匹混じっている。
肥満体型の人型のそれは身長が250センチほどもあった。
象の皮膚のような灰色の身体に、胴体の太さもある手足。人間の3倍ほどはある巨大な顔は頭に髪はなく、茶色く濁ったその瞳は顔の大きさに対し馬鹿みたいに小さかった。鼻は潰れているのかそもそもいのか、穴だけが開いており半開きになった口からは歯不潔で嫌な臭いのしそうで並びが異常に悪い茶色い歯が覗いている。
その化け物が数十匹のヘルハウンドに命令を下すようにあちらこちらを指差したり、低く汚く呻き声のような声でなにかを言っていた。明らかにあの化け犬たちを指揮している。
「ハイ...オルガ...」
荒い呼吸の合間にウルスラはそう呟く。
「なんであんなやつが...300年前にとっくに滅びたはずじゃない」
「なんだ。そのハイオルガとかいうのは」
忠一が銃を固く握り、視線をそのハイオルガという化け物から離さずにそう尋ねる。
「わかんないわよ! 私だって初めて見たの! 文献じゃ、300年前、魔王が封印された時から姿を見せなくなったって!」
「しっ。静かに」
動揺し声が大きくなるウルスラの口を忠一は慌ててふさぐ。幸い今ので居場所がバレたということはないようだった。
少し落ち着いたところで忠一はウルスラの口から手を離す。
「でもおかしいわよ」
「なにが?」
「ハイオルガは豚よりもはるかに知能の劣る戦闘狂って聞いたことあるわ。でもあのハイオルガ...」
豚は意外と知能が高いんだぞと頭の片隅で思いつつも水は差さない。
「ああ。どう見てもあの犬どもを指揮してるな」
ウルスラはどうしてどうしてと呟いていたが忠一からすれば転生してわずか数日で不思議なことばかりだったし、そもそも死んだ後に違う世界に生まれたこと自体が一番不思議だ。
それに比べれば文献で頭が悪いといわれていた化け物が実は思っていたよりも知能が高かったくらいのことなんでもない。
忠一は1つの作戦を思いついた。指揮官というのはその部隊の頭である。頭を潰せば部隊は瓦解する。
それはあまりにも単純な作戦ではあるものの、効果は非常に高い。戦争でも数で圧倒的に劣勢に立たされることがほとんどである日本軍はよくこの手を使った。
すなわち、周りの兵士は無視して指揮官のみを一撃必殺の銃弾で殺害し、部隊を混乱に陥れる作戦。
作戦がうまく行くかどうかは未知数だ。しかしやるしかない。どうせあの数のヘルハウンド相手にこのまま逃げ切れるわけがないのだ。
忠一は拳銃を抜いて銃弾が入っていることを確認し困惑するウルスラに手渡した。
「どういうつもり...?」
拳銃がどういう武器かをはっきりと見ているウルスラは震える手で銃を握り困惑した視線を忠一と拳銃に交互に向ける。
「あのデカブツを始末してくる。もし失敗したら俺はあっちに連中を引きつけるから」
そう言って忠一は元来た方角を指差す。
「お前は反対方向に逃げろ。もしあの犬どもが襲って来たらそれを敵に向けてこの部分を指で引け。でもできるだけ使うなよ。それと、うまく逃げおおせたらその武器は捨てて存在ごと忘れろ。わかったな」
有無を言わさぬ忠一の瞳と物言いにウルスラは頷きかかるが、すぐに彼の言っていることの無謀さに気付き激しい勢いで食ってかかった。
「あんたバカなの? バカでしょ? 囮になるつもり? 私がそんなこと聞いて頷くと思ったの? バカにしないでよね」
「ウルスラ...俺は絶対に生きて帰る。お前も生きて帰す。だから俺の言う通りにしてくれ。これしかないんだ」
忠一が考えを変えないことを悟ったのかウルスラはその宝石のような青い瞳をうるませ、無言で頷いた。
「じゃあ、行ってくるから」
そう言ってその場を離れようとするとウルスラが急に忠一の手首を掴んで力強く引き寄せた。
泣くのを必死でこらえた表情のウルスラが忠一の目と鼻の先に顔を近づけた。鼻先同士がほとんど触れ合っている。首にウルスラの手がゆっくりと廻る。
「な、なんだよ」
ヘルハウンドに囲まれた時もハイオルガを見た時も表面的には冷静さを見せていた忠一がここに来て動揺しまくっていた。
「追加の報酬を先払いであげるわ。でもあなたと私が無事に帰るのが条件なの。もしあなたが死んだら契約不履行で地獄の底からでも引っ張って来て訴えてやるから」
ウルスラは優しいーーしかし感情のこもった声色ではっきりとそう言うと、ゆっくりと忠一の帽子のつばを上に向け、自分の唇を忠一の額に合わせた。
突然の出来事に思考回路がショートし、固まってしまった忠一。冷たい雨に打ちひしがれているのに、接している額だけは溶けそうなほど熱い。
「んっ...」
ウルスラがそう小さく声を漏らすと少しだけ唇を離し、恥ずかしさを隠すように小悪魔な絵柄を忠一に見せた。
「帰ってきたらもっと高い報酬を払ってもいいのよ。あなたが良ければね...ねぇ忠一...初めてだったのよ...死んだら契約不履行で絶対に訴えるから。許さないから」