黒い包囲網
忠一は絶対絶命だった。別に山賊や魔物とやらの襲撃を受けているわけでもない。最初こそ初めての馬車搭乗経験でテンションが上がっている忠一であったが、カルディアを出てしばらくし、ろくに舗装されていない道に入ってから段々様子が変わって来た。
めちゃくちゃ揺れるのだ。サスペンションなどないのでどうにもこうにも揺れまくる。今日1日この調子なのかと思うと憂鬱を通り越して絶望的な気分だった。
「あんた。なっさけないわねぇ」
と対面に座る依頼主の美少女が呆れ顔になる。忠一の持ち場は5台の馬車の一番先頭であり、その馬車には忠一と枕ほどの大きさの、布袋に包まれた大量の積荷の他に依頼主であるクレイン商会の少女も同乗している。
「すみませんね...えーっとクレインさん?」
「ウルスラ・クレイン。ウルスラでいいわ。クレインは私の父の名前で街でクレインと言えば父のことを指すから」
「わかりました」
そう言いながら口を押さえる忠一にウルスラは「あっきれた」と首を振る。
「馬車停めてあげるからその辺で吐いて来なさいよ」
「い、いや大丈夫です...」
全然大丈夫じゃなさそうな忠一にウルスラはため息をついて「分かったわよ」と言う。
「でも馬車の中では絶対吐かないでよね。ものすっごく高いのよ」
そう言ってウルスラは積荷を指差す。中身を見たわけではないが、匂いからして胡椒を含めた香辛料のようだ。
(まさか馬車がここまで揺れるとは...)
と忠一はサスペンションすら開発されていないこの世界の技術力の低さと自分の脆弱な三半規管を呪った。唯一良かったことといえば馬車にシンクロしてウルスラの胸も揺れまくることだが、転生以来初めて死にかけている忠一にはそんなことに関心を払う余裕はなかった。
2時間ほど平原を行くとロイドが言っていた黒い森の中に馬車は入っていった。背の高い木々が生い茂る深い森だが、馬車道は最低限整備されている。
商人たちが金を出し合って行商路を整備したのだという。
森の向かい側までは40キロほどもあり、抜けるまでに時間がかかるので、森の半ばにある小屋で1晩過ごすらしい。これもやはり商人たちが建てたものだという。
そんなウルスラの話を忠一はほとんど聞いていなかった。というより聞こえなかった。というのも森に入ってからは先ほどよりも目に見えて揺れが激しくなり忠一にはそれどころじゃなかった。2度目の人生が馬車酔いで終わるのではないかと考え始めるほどだった。
忠一の不甲斐ない姿を見てウルスラは顔をしかめる。
「ほんとにそんなんで護衛が務まるの? 絶対にここで吐かないでよね。積荷を台無しにしたら弁償させるから。私の服にかけても弁償させるわよ。ケープだけで80デナリもするのよ」
そう言われて忠一はヒヤリとする。80デナリというと依頼10回分ほどに値する。
どうにか5時間ほども吐き気をこらえ。例の小屋にたどり着くと忠一は命拾いした気分になるど同時に暗澹たる気分に陥る。あと3日間もこんな馬車の上で揺られなければならないのだろうと思うと最悪だった。(もう2度と馬車の護衛なんか受けるか)と忠一は心に固く誓った。
しかし人の馴れとは不思議なもので、小屋とはいえ20人は軽々収容できる立派な建物で一晩休み、翌日馬車に乗るとどんなに揺れてもへっちゃらになっており、昨日とは打って変わって(座ってるだけで金がもらえるとか美味しいな)なんてお気楽なことを考えながら森の景色を楽しんでいた。
「あんた今日は元気ね」
と景色を楽しみながら鼻歌など歌っている忠一に呆れ返った顔でそう言うウルスラ。
「馴れたからな」
「あら。私にも馴れたみたいね」
ウルスラが意地悪に笑う。そこで忠一は自分が依頼主に対してため口を使っていたことに気付いた。どう見ても年下の少女なのでうっかりしていたのだ。
「ああ、すみませんウルスラさん」
「私がその気になればあんたにはどの商会からも2度とお声がかからなくなるわよ」
冗談っぽく言うが、忠一にとっては洒落にならない。ウルスラの態度に若干むっとするが、上下関係でいえば確かに向こうの方が上なのだから我慢する。
「ところで、昨日はあんたあんなだったから聞けなかったけどそれなに?」
そう言って忠一の歩兵銃をウルスラが指差す。
「ああ、お守りがわりですよ。あといざという時はこれで敵を殴ったりもできます。杖にもなるし...」
などと思いつく限り適当な用途を並び立てるが、銃を知らない人間には本当のことなど分からないのでウルスラはそれを信じるしかなかった。
「ちょっと貸してみなさい」
と手を伸ばす。本当はめちゃくちゃ嫌だが、仕方なく弾を抜き、安全装置をかけて「ここに指を入れないでくださいね」と引き金を指差してから手渡す。
「おもっ!」
まさかただの杖が4キロ近くあるとは思わなかったのだろう。ウルスラはうっかり取り落としそうになる。
「お守りや杖にしては重すぎるわよ! つーか武器にならないなら置いてきなさいよ! 馬車だって積載量には限りがあるのよ! それにしても綺麗に加工された木ね...どこの技術かしら...それにこの部分はなんで鉄が使われてるの? 」
などとあれこれ質問してくるが、忠一は適当に答えた。
しばらく銃を眺めていたが、やがて飽きたウルスラは今度は刀を見せてくれと言い始めた。
「すごいわね...この剣。何層あるのかしら。それに凄く綺麗」
と、刀の方にはやけに食いつく。
「これ、多分コレクターに売ったら1000デナリは下らないんじゃないかしら」
「そうですかね」
とぶっきらぼうに言いつつも、鎌倉時代より代々伝わる家宝の刀が高評価を得て密かに心を弾ませる忠一。型に鉄を流し込み、日本刀の形に鋳造されただけの国中に氾濫する粗悪な軍刀とは物が違うのだ。
「これ。どこで買ったの?」
「うちに代々伝わる刀なのでそれはわからないですね」
「ふーん。いつかこんな刀剣もうちで扱ってみたいわね」
そう言うウルスラの目は商人の目になっていた。
しばらくすると森を抜け、さらに3時間ほど行くとついにモラベの街にたどり着いた。
中央に大きな石造りの建物があり、その周りをコゼットの村で見たよりは大きな家々が整然と立ち並んでいる。大きな畑には何頭かの牛が鋤を引いており、さらには数十匹の豚が辺りをうろちょろしている。
忠一たち5人の護衛は木賃宿で黒パンと干し肉と薄いキャベツの大雑把な食事を与えられてあとは翌日まで放置された。
翌日ほくほく顔のウルスラが護衛を集め馬車に乗せる。忠一が馬車に乗り込むなりウルスラが我慢できずに口を開く。
「すっごい高値で売れちゃったわ! 最近黒い森で魔物が増えてるっていう噂のせいで商人がこの町に来たがらなくて取引ができなくて困ってたらしいのよ! なんと相場の2倍よ! 2倍! うわさ様様ねホント!」
興奮冷めやらぬといった感じで忠一に自慢しまくるウルスラだが、別に報酬が変わるわけではないので忠一としてはどうでもよかった。それよりも香辛料の代わりに詰め込まれた熊の毛皮が場所をとって邪魔だった。
「こんなに儲かるならまた来たいわね! なにが黒い森よ恐ろしい名前つけちゃって! 楽勝じゃない!」
などとはしゃいでいたウルスラもしばらくすると疲れたのか黙り込んだ。
黒い森に馬車が入りさらにしばらく進む。
(あと30分ほどで例の小屋だな)
忠一がそう思うと同時に不思議な違和感に気付いた。少し考えて違和感の正体に気付く。
ーー鳥の鳴き声が聞こえない。
ウルスラはそのわずかな異変には気づかないようで、眠そうに目をしばたかせている。
ただの偶然かもしれないが嫌な予感が忠一の体を支配する。戦場で嫌でも培うことになった、言葉では言い表せない第六感。それが忠一の脳内で警報を鳴らしている。小銃に弾を込めて馬車の外を見回す。
50メートルほど先、深い木々の間に見える黒いなにかーー忠一には最初それが熊かと思った。目を凝らした瞬間後ろの馬車の方から絶叫が響いた。
「出やがった! ヘルハウンドだ!」
ほとんど寝かけていたウルスラが跳ね起き馬車の外を見回し悲鳴をあげた。
体高1メートルほどはある黒い毛皮に覆われた4つ足の生物。垂れた大きな耳に口から見える10センチはあろうかという鋭く尖った牙。体はやけにがっちりしていて、犬や狼というよりは少し小さめの虎といった感じ。太く大きい前足なら爪は長く、鋭そうだ。
そしてなにより異常なのはその目、額に握りこぶし大の鈍く光る黄色の瞳がただ1つ。
(この一つ目の化け犬がそのヘルハウンドとやらか)
忠一は息を飲んで銃のボルトを引く。構えてヘルハウンドに照準を合わせようとした瞬間忠一は戦慄した。
木々の合間合間から同じような黒い影が続々と姿を現わす。銃を構えたまま辺りを見回すと数十匹のヘルハウンドが忠一たちを取り囲んでいる。
さらによく見るとその包囲網を取り囲むようにさらに大きな輪を作る集団。全部で100匹はいる。
忠一たちは初めて二重の包囲網に囲まれていることに気付いた。辺り一面が漆黒に塗り尽くされたような錯覚に陥る。
「なるほど...それで黒い森...ね」
忠一は額を流れる冷たい汗を拭うこともせずに密かにそう呟いた。
黒い包囲網がじわじわと狭まってくる。忠一たちが護衛が馬車を降りる。みんな腰が引けているが精一杯に武器を構えた。
とはいえ戦いになればあっさり揉み潰されるのは目に見えている。ヘルハウンドの群れが戦うのを諦めてどこかへ行くのを期待するしかないのだ。
そんな中、忠一だけは違った。死線を幾度となくくぐり抜け遂に壮絶な戦死を遂げた忠一にとっては九死に一生も期待できない状況というのは初めての体験ではない。
冷静に頭を働かせこの場を切り抜ける算段を考える。それと同時に恐怖と不思議な高揚感で体が研ぎ澄ませれるのがわかった。
別に楽しいわけではない。ただ、血と火薬の匂いの立ち込める戦場で覚えた不思議な感覚だ。
包囲網がジリジリ狭まる。護衛の1人が武器を構えたまま膝をついて泣き始めた。呼応するように忠一を除く護衛たちも震え始める。
腰を抜かして立ち上がれないウルスラが馬車から出ようとするが、忠一が首根っこを掴んで馬車に引き戻した。
「死にたくなかったら馬車にいろ。わかったな?」
ドスの効いた低い声で忠一がウルスラにそう告げる。
「な、なにすんのよ!」
そう震える声で叫んでウルスラは忠一の目を睨みつけたが「ひっ!」と短い悲鳴をあげて後ずさった。
裕福な商館に生まれ、ひたすら商人の道を進んで来たことしかないウルスラは見たことなかったのだ。
死線を幾度となくくかいくぐり、死を前提とした戦場に立たされてなお、自分の使命を果たすために最善を尽くそうとする狂気と覚悟に燃えたその瞳を。