メロンパンとダウンヒル
速さに羨望していた。
ただ速く滑る。それだけでよかった……。
歓声が煩わしい。俺以外に向けられたそれは騒音でしかなかった。
ゲレンデの一番上からハイスピードで駆け下りてくる奴らは、どいつもこいつもバカだ。それに歓声を浴びせる奴らも同じ。
今はアルペンスキーのちょっとしたイベントをやっている。その中でもダウンヒルと呼ばれる競技は、スタートからゴールまでの滑走のタイムで勝敗が決まる。その為いまも雪煙を派手に立てながら猛スピードで駆け下りてくる。わっと歓声が上がった。
バカバカしい。
次々と参加者がリフトに乗りスタート地点へ向かうその背を見ながら、何度目かのため息を吐いた。
イベントも中盤に差し掛かり、熱気を帯びてくる。それに比例するように俺は冷めてゆく。
「さみー……。」
なんて言いながら、凍える手を揉み必死に温めた。
なんでこんなバイトしてんだか…今更ながらに後悔する。給料はいいんだけどなぁ
自分の首に下がってる「リフト係」と書かれた名札をつまみ上げてはしげしげと眺めた。
しばらくすると、ぞろぞろと集団がやって来る。手元にあった視線を上げ、仕事に戻た。
客がリフトに乗り損なったり、転けた時にリフトを止める。そんな簡単な仕事だった。余程のことがない限りリフトなんてほとんど止めない。ただでさえイベント中、みんなベテラン揃いで俺の仕事が全くない。
ポーン、ポーンと気の抜けた音と共に客が前進し、リフトに運ばれてゆく。それを半分呆けたように眺めた。
そんな時、声をかけられた。
「お前、もしかしてクスノキか?」
突然のことに驚き、慌てて声のした方を向いた。
目の前に同い年と思われる男が立っている。誰だこいつ?
胸元のゼッケンで名前だけは分かった。「ユガミ」と書いてある。
怪訝そうな顔をしている俺のことなど御構い無しに、ユガミは俺に話しかけてくる。
「2年ぶり…かなぁ、久しぶり!」
その言葉で、俺は2年前の記憶をなんとなく思い出そうと試みた。
2年前といえば、高校生のはずだ。
同級生の名前を思い出そうとする。大半の人がおぼろげで思い出せない。
「お前、滑んないの?」
その言葉で引っかかるものがあった。
確かに居たんだと思う。取りに足らないその他大勢の中にこいつが。
凍えていたはずの背中にジワっと汗が浮かぶ。
眼中にすら入れず、バカにしていたこいつらが今の俺を見て何を思うのか、想像しただけで吐き気がする。
「あぁ、滑らないよ……。」
なんとか絞り出した声は、掠れて自分のものじゃないみたいだ。
「ほーん」なんて気の抜けた感じでユガミが声を発する。その裏側にある感情がうかがい知れず、居心地が悪い。何度も視線が胸元の「リフト係」を見られているようで不愉快だった。
「……後、つっかえるから。」
耐えられない俺は、ユガミの後ろを指す。ちょうど次の集団がリフト乗り場にやって来た。それを理由にユガミを遠ざけようと思ったんだ。
「ああ、悪いな」
なんて言いながらユガミはリフトに乗った。だんだんと遠ざかっていく背中を見ていると、少しだけ安心した。
壁に寄りかかり、流れてゆく人だかりを再び見送った。
2年前までは俺もこのイベントに参加していた。
その頃の俺は、敵なしだった。誰も俺より速いやつなんかいなかった。
所詮高校の狭い世界での話だ。
スポーツ推薦で大学に入って、未来の金メダリストなんてもてはやされていた俺は……どうしようもないほどのバカだ。
何一つ通用しない技術に、置いていかれ遠ざかる背中を見るしかない現実に嫌気がさし逃げ出した。
多分今頃大学の奴らはどこかで練習でもしているんだろう。なんだっていいや
別に俺がいなくとも何一つ問題ない。
集団があらかた登って行き一息ついた。イベントもそろそろ終盤に差し掛かる頃だろう。そんな時に、おぼつかない足取りで1人の女の子がリフト乗り場にやって来た。
どこからどう見ても素人な彼女の胸元には、イベント参加者が付けているゼッケンがあった。「ミヤギ」と書いてある。
スキー板に乗れていない。上半身が落ち着きなく左右に揺れ、つられて下半身がバタバタと忙しない。
歩くことすらおぼつかない彼女がリフトに登って滑ろうなんで正気の沙汰じゃない。気の毒だが辞めるように俺は彼女に近づいた。その時、リフト乗り場前のちょっとした下りで彼女がバランスを崩して滑り落ちてきた。俺を巻き込んで。
久しぶりの雪面に転んだ感触に、顔をしかめる。
ぶつかってきた彼女はどこか打ったのか「おぉう」なんて呻き声を上げている。
素早く立ち上がり
「大丈夫ですか?」
と聞いた。
彼女は思ったよりも硬い雪面に目を白黒させていた。どれもレンタル品に身を包んだ彼女は、自力で立ち上がろうともがく。
「あぁ、落ち着いて下さい。」
彼女を助け起こそうと手を差し出した。
素直に差し出した手を取った彼女を引っ張り上げて起こす。
産まれたての子鹿みたいに頼りないが、何とか立ち上がることができたみたいだ。
「すみません……。」
申し訳なさそうに彼女が頭を下げた。
「いえいえ、もし初めての方でしたらリフトには乗らずに、緩やかな坂で練習した方がいいですよ。」
親切心から俺は言ったつもりだ。
彼女は険しい顔つきのまま首を横に振り
「どうしても、滑らないといけないんです」
と言った。
彼女の顔は真剣だった。
俺は、どう言って彼女を止めようか悩む。
ダウンヒルは見た感じこそ斜面をただ滑るだけだ。しかし、スピードが速ければ速いほど怪我に繋がる。その為、高い技術と経験がなければ怪我をしに行くようなものだ。
「……メロンパン。」
彼女がぼそっと呟いた。
「は⁉︎」
なんとも場違いな言葉に驚いた。聞き間違いだろうか
彼女の表情は変わらない。
「滑走後に貰えるメロンパンが欲しいんです」
マジかよ。
俺は目をひん剥いて驚いた。
「だから……行かなくちゃ」
そんな俺など御構い無しに彼女は、死地に赴く兵士の如くある種の気高さを湛え、一歩踏み出し……転けた。
再び巻き込まれた俺は空を見上げ思う。こいつはバカだ。
彼女はどこかまた打ったのか、呻き声を上げている。
「それは…どうしても欲しいものなのか?」
俺は問いかけてみた。
怪我をするかもしれない…いや、彼女ならば確実に怪我する。それでもメロンパンのためにこいつは進むのだろうか。
「はい‼︎」
対する彼女の返事はまっすぐで淀みない。
「大好きですからぁぁ!」
なんて叫び声までついてきた。
スキー場の中心で愛を叫ばれたせいか、周辺が騒つく。
周りへの影響なんてまるで考えない彼女の奇行に思わず笑いがこぼれた。
好きだから、か。単純すぎる
素早く立ち上がると俺は、リフトの前に立ち両手を広げた。
「ここから先へは行かせない!」
俺の頭のネジが、彼女とぶつかった時にでも吹っ飛んでしまったみたいだ。
好きだからの、その先の結果を叩きつけてやりたい。
どれだけ望んでも届かない挫折を知らしめたい。
真っ直ぐ突き進む彼女を俺と同じところまで引きずり降ろしたかった。
ざわざわと周りが騒がしい。そんな事知るか。
今の俺には周りの目なんて全く気にならない。
「なんでそんな事するんですか⁉︎」
彼女が地団駄を踏む。少し慣れたのか立ち上がるのも早く、転けなかった。
「なんでだろうなぁ」
多分俺は嫉妬しているんだと思う。
好きだからの一言で片付けてしまえる彼女に
「うがー‼︎」
雄叫びをあげ突進する彼女を難なく止めた。相手はスキー板のせいで踏ん張りが効かないのか足だけバタバタとさせている。
「……何してんの?」
俺と彼女の取っ組み合いに声をかけてきたのは、ユガミだった。滑り終わったのかメロンパンを手に持っている。
「よぉ、ユガミ!いま素人を止めているところだよ」
俺は彼女を羽交い締めにしながら答えた。
彼女はユガミの持っているメロンパンを凝視している。
「放して下さい‼︎メロンパンが待ってるんです」
彼女は暴れる。
「そいつは出来ないな」
俺は彼女を押さえつけたまま言う。
彼女は「バーカ、バーカ」なんて幼稚な罵声を浴びせてくる。
そんな俺たちを見ていたユガミが
「メロンパンなら俺のやつをやろうか?」
と言ってきた。
彼女の目がカッと見開きユガミを見る。
「駄目だっ‼︎」
俺は怒鳴った。
好きなものは、簡単に手に入らないんだ。
それに…置いて行かないでくれ、俺は仲間が欲しい。
手の届かない苦しさの中で生きる仲間、いや道連れが。
「お…おう。」
俺の剣幕にユガミがドン引く。
「怪我しても構いませんから!行ーかーせーてーくーだーさーいー‼︎」
彼女は陸に上がった魚のようにバッタンバッタン暴れる。
「……なんかよくわかんないんだけどさ」
ユガミが、呆れたように
「クスノキが代わりに滑ってやれば?」
「あぁ⁉︎」
俺は驚いてユガミを見る。
彼女も期待に満ちた眼差しで俺を見る。
見んじゃねーよ。
「ほら、お前滑るの好きだろ?」
痛いところを突かれた。
言葉が出ない、口がパクパクと動きやっと出た言葉は
「バイト中だから…無理。」
好きな事を、否定できなかった自分が嫌になる。しかし、そんな事ユガミも彼女も知らないんだろう。
だからユガミが
「俺が変わってやるよ、だから滑ってこい」
そう言って俺の名札をもぎ取ろうとする。
大した抵抗もできずに俺は名札を取られた。
「いいですね!私はメロンパンが好き、貴方は滑るの好き、最高じゃないですか!」
そう言って彼女はぐいぐいとゼッケンを押し付けてきた。
おい、やめろって
気つけば「ミヤギ」のゼッケンを付けて立ち尽くしていた。
「スキー道具は俺のやつを貸してやるよ」
ユガミはどんどん準備を進めていく。
俺は……。
リフトに揺られていた。
空を見上げ思う。俺は一体何をやっているんだ
今から恥をかきに行くのだろうか?
それとも虚しさを味わいに?
分からない。
止まることもできずにリフトはただ進んで行く。
頂上にたどり着いてなお、俺には分からなかった。
目の前には急斜面がずっと続いており、思わず立ちくらみしそうになる。
はるか遠くに見える米粒程の人の視線が、全身を刺されるかのように痛い。
俺は何をしているんだ?
進まない俺を不審に思ったのか、ざわつき始める。
逃げたかった。そんな時……
「メロンパァァァァン‼︎」
滑走のゴール付近でバカが叫んだ。
いったいあいつは何なんだ?
俺のじゃないゼッケンをつまみ上げた。
叫んだバカはゴール付近でブンブンぴょんぴょんとダイナミックに動き回ってる。
笑えてきた。
バカだ……そして多分俺も
大きく息を吸った。久しぶりに清々しい程澄んだ空気を吸った気がする。
腹に力を入れ、バカに習うよう俺も叫んだ
「好きだぁぁぁぁぁ‼︎」
滑るのが。
息が続かなくて言えなかった、だが問題ない。
いっそう大きくなった騒めきから逃げるように、斜面に身を投げ出した。
ぐんぐんとスピードが増してゆく。
迫り上がる恐怖心を飲み下したその先、周囲の騒音も自分の心音さえも遠くにいき、何も聞こえなかった。視野が狭まりゴールまでの一直線しかもう見えない。
いつから俺はこの感覚を忘れてしまったのだろう?
周りの声に敏感になり、一番大切なことを忘れてしまっていたみたいだ。
腹の底から満足感に満たされてゆく。
………あぁ、やっぱり好きなんだよなぁ。