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騙る心に手を振って

作者: しきなきし

 校舎の屋上で口笛を吹くのが習慣だった。

 高校二年のときに圭一から借りた小説の主人公がやっていたのが印象に残っており、その真似事をしたのが始まりだったように思う。というかそうだ。

 奇異な習慣を植え付けた本人はそんな小説のことなど忘れており、今頃は部室で別の友人たちと音楽の話で盛り上がっているのだろう。借りたままの小説が僕の家の本棚に眠っていることからも彼が忘れていることはうかがえる。

 僕の奏でる旋律に意味はない。続けて高い音を出すこともあれば低い音と交互に出すこともある。要は気分だ。授業中に右手でペンを回すか左手で回すか悩む程度の気まぐれ。

 僕の口から発せられた音は胸の苦しさに比例するようにだんだんとか細くなり、夕暮れの空に消えていくのがたまらなく好きだった。僕の生み出した音は誰の耳に触れることもなくただ宙へと虚ろうばかり。僕もそうでありたい。

 そういえば植物に音楽を聞かせるとよく育つという。だとすれば僕の足元にあるプランターから顔をのぞかせている何かしらの苗も元気よく成長してくれるのだろうか。この学校には吹奏楽部も軽音楽部もないのでこいつが聞く音楽はチャイムか僕の口笛くらいのものだろう。

 あれ。だとすれば僕の口笛はこの苗も聞いていることになる。なんてことだ。僕の口笛は僕だけのものではなくなってしまった。

 なんだか悔しくなって苗の横に生えていた雑草を抜いてやった。友達がいなくなってこいつも寂しがることだろう。

 誇らしい気分で屋上を後にしようとすると、校舎へと続くドアが半開きになっていることに気が付いた。

 僕が屋上に来たときに閉め忘れた、ということは絶対にない。口笛が校舎内に漏れてしまわないように細心の注意を払っているからだ。

 つまり僕以外の誰かがこのドアを開けたことになる。その人物と邂逅していないということは、ドアを開け、僕がいることに気付いて校舎内に戻ったのであろう。

 だとすれば高確率で僕の口笛が聞かれたことになる。なんということだ。

 そんな茶番じみたことを考えながら半開きのドアを開いて。

 僕は彼女と出会った。



 出会ったというのは若干の語弊がある。

 ドアの前に立っていた彼女――森崎柚香は僕のクラスメイトだったからだ。

 肩まであるセミロングの髪にいつも同じ花柄のヘアピン。愛嬌のあるくりくりとした大きな瞳。身長は高くもなく低くもなく。去年行われたミス科倉高校コンテストに友人と参加して十五人中八位。成績は中の中。人柄の良さからか友人は多い。そんな彼女を知らない人間はこの学校にいなかった。


「あれ? 佐山くん?」


 森崎柚香は屋上から現れた僕に驚いているようだった。その様子を見て僕はおや、と思う。


「やぁ。こんなところでどうしたの、森崎さん」


 なるべく平静を装って声を出す。

 森崎柚香は顎に手を当てて首を傾げた。


「うーん、その。佐山くんはよく屋上に来てるの?」


 僕からの質問には答えず、代わりに質問をぶつけてきた。なるほど。いい度胸だ。

 先に彼女からの質問に答えることにしよう。そうすれば相手も答えざるを得ないはずだ。


「まぁね。ここは屋上って呼ぶには狭すぎて誰も来ないし。僕みたいな帰宅部が時間を潰すにはちょうどいい場所なんだ」

「そっか。じゃあ私はこれで」

「待て待て待て」


 流れるように階段を降りて行こうとする森崎柚香を呼び止める。


「僕の質問にも答えてよ。なんで森崎さんはここにいるの?」


 屋上、と一言に言っても、ここは広々とした解放感溢れる場所ではなかった。

 元々のスペースが狭いうえに、室外機や使わなくなったロッカー。足が折れた机などが放置してあり、人が立ち入れるのは二畳程度しかない。その上、誰も管理をしないものだから薄汚れてしまっておりこんなところに好き好んでくる奴の気がしれない。

 僕が質問を重ねると、再び森崎柚香は首を傾げてうんうんと唸った。

 そしてやがて観念したかのように、上目使いで見つめてくる。


「これは二人だけの秘密にしてくれる?」

「僕は秘密を守るのが得意だ」

「ちなみに今まで打ち明けられた秘密は?」

「圭一……高崎が土手で足を滑らせて川に落っこちたことがあってさ。それだけならまだしもそのショックであいつおもらししちゃって。言わなきゃばれないのに僕に黙っててくれって泣きついてきたんだ。だから高校二年にもなっておもらししたってのは僕と圭一だけの秘密だ」


 圭一の過去に引いたのか、僕を見つめる森崎柚香の目は冷ややかなものになっていた。そうだよなぁ。僕も少し引いたもんなぁ。


「……まぁいいか。悪い事してるわけでもないし」


 そう呟くと森崎柚香は屋上へと続くドアを開いた。先に屋上へと足を踏み出し、こちらを手招きする。

 まさかたった今出て来たばかりの屋上へ戻るとは思わなかったが、仕方ないだろう。

 続いてドアをくぐると、森崎柚香はすでに先程まで僕がいた位置に立っていた。柵の前、足の折れた机の側、そしてプランターの横。


「これ、私の子」


 森崎柚香は嬉しそうにプランターの苗を指差した。

 笑えそうで笑えない冗談だった。


「森崎さんは自分の子どもを指差すんだね」

「人生には不可解なこともあるんだよ、って教えたくて」

「いい教育だ」


 改めてプランターの苗を見て、また首を傾げた。どうやらなにかあると首を傾げるのは彼女の癖のようだ。


「あれ? 綺麗になってる」

「あぁ、そこに居た彼……彼女? の友達の雑草は僕が抜いておいた。独りで生きていく辛さを知って欲しくて」

「なるほど。大事な教育だね」


 そういえばこのプランターはいつからあっただろう。少なくとも僕が屋上に入りびたり始めた一年前はなかったはずだ。

 ほぼ廃棄品置き場のような扱いになっているこの屋上に物が増えるのは珍しいことではないのでいちいち何が増えたかなんて覚えていない。


「いつもは昼休みにこの子の様子を見に来るんだけどね。今日はちょっと用事があって来れなかったから今来たの。そしたら佐山くんと出会ってびっくり」

「ふぅん。じゃあちょうどドアを開けて屋上に入るとこだった?」

「うん。どうして?」

「いや別に」


 なるほど。それなら僕の口笛は聴かれていないだろう。

 さっきの茶番じみた考えのように「僕の口笛が奏でる旋律は僕だけのものだ!」なんてことを言うつもりはないが、恥ずかしいものは恥ずかしい。

 放課後に屋上で独りで口笛を吹いているとか……なんだか自分に酔ってると思われそうで。

 普段は昼休みに来るのであれば今後の邂逅に怯えることもない。ただ今日のようなこともあるだろうから油断は禁物だけど。


「佐山くんはいつもこの時間にいるんだよね?」


 どうやら森崎柚香も空気を読んでくれたらしい。僕は深々と頷く。


「そっか。なら明日からは私もこの時間に来るね」


 ……は?


「い、いやいや。なんで?」

「二人でいることの楽しさを教えるためかな」


 森崎柚香は子どもが悪戯を思い付いたかのような笑顔を浮かべた。


「あぁ、それと」


 その笑みが、単純に嬉しさの色を帯びたものへ変わっていく。


「口笛、上手だったからさ。また聴かせてよ」



 森崎柚香の印象といえば、特にないという他ない。

 全くないわけでもなく、特別あるわけでもない。

 初めて知り合ったのは高校二年のときだ。それもクラス替えによってただ同じクラスになっただけ。何の縁か、三年になってまた同じクラスになり今は席も隣だ。

 クラスメイトとしてそれなりに会話もするし、筆記用具などの物の貸し借りもする。この前は僕が修正テープを貸した。その後、彼女から修正テープを借りた。奇遇にも僕と彼女は同じ修正テープを使っているようだった。

 ある程度は冗談を言ったり言われたりできるような関係だったが僕が森崎柚香に対して特別な感情を抱いているということはない。当然、向こうからこちらに対しても。

 だから森崎柚香の提案は不可解だったし、別にいいかという気もしていた。

 僕としてはただ時間を潰せればいい。やることが他にないから馬鹿みたいに口笛を吹いていたのであって、話相手になってくれるのであればその代替になる。

 それに万が一、第三者に見られたとしても森崎柚香が相手なら変に勘ぐられることもないだろう。これがミス科倉一位の水無月さんだったら他の男子からの嫉妬の目で殺されてもおかしくはないが。

 つまり森崎柚香の提案は僕にとってメリットもデメリットもないのだった。だから僕はいいとも悪いとも言わなかったし、実際どちらでも構わないと思っていた。

 そして、森崎柚香は毎日屋上へやってきた。


「近所の人からもらってね。家で育てようかと思ったんだけど家にいたら他にやらなきゃいけないことがたくさんあって面倒見切れなくなりそうだったから」

「へぇ。それで育児放棄するくらいなら環境が最悪な場所でもいいから育てようとここに持ってきたわけだ」

「お昼は意外と日当たりいいんだよ?」


 土から少しだけ顔を覗かせている苗を指でつんつんと弾きながら森崎柚香は嬉しそうに言った。すでに本日分の水やりは済んでおり、後は適当な会話をして帰るだけだ。

 僕と同じく森崎柚香も帰宅部で、暇を持て余しているのだろうと思いきや彼女には門限があるらしく、僕よりも先に帰るのが常だった。一緒に帰ったりはしない。噂されたら嫌だから。


「ちなみにそれって何の苗?」

「プチトマト」

「なるほど。悪魔の果物か。今度踏み潰しておこう」

「……トマトって果物?」


 前よりも近い距離感で話をしてみて感じたのは、森崎柚香は意外と僕と同じような波長を持っているということだった。同じように動いて同じように考えるから、交わることはあってもぶつかることはない。それも僕が律儀に屋上に通い続けている理由の一つなのかもしれない。


「今日は口笛吹かないの?」

「僕の口笛を聴いた人は例外なく不幸な目に合うんだ。だから森崎さんの前では吹けないな」

「そんなの屋上で吹くな」


 そう言って僕は他愛もない旋律を奏でる。

 誰かに聴かれるのが恥ずかしいという感情はまだ無くなったわけではなかったが、森崎柚香にはもう聴かれてしまっているのだ。今更隠しても遅い。


「あいかわらず上手いなぁ」

「一日十時間練習すれば誰だって出来るようになるさ」

「佐山くんはあれかな? 口笛で世界を目指してる人なのかな?」


 けらけらと森崎柚香は笑う。こんな狭い屋上でも解放感があるらしく、教室で話すときよりもずっと彼女は明るかった。


「はー、今日も笑った笑った。じゃあ私帰るね」

「うん、おつかれ」


 僕は軽く手を振って森崎柚香を見送る。その姿がドアへと吸い込まれ、完全に見えなくなってから僕は口笛を吹いた。空に消えて行った。



「佐山くんって将来の夢とかある?」


 次の日の放課後、森崎柚香が言った。


「特にないな。このまま大学に行って適当な企業に就職して……まぁノープランだね」

「あ、進学するんだ」

「そりゃあ。仮にもここは進学校なわけだし。受からなかったら……そのとき考える」

「あはは。本当にノープランなんだね」


 水やりのための水筒の蓋を開けたり閉めたりしながら森崎柚香が笑う。


「音楽は続けないの?」

「なにか勘違いしてるようだけど僕は口笛で世界を狙おうとしてるわけじゃない」

「そうなんだ。じゃあサインはもらわないでおくね」

「そういう森崎さんの夢は? 自慢の子とスペインに乗り込むの?」

「いくらなんでも大事に育てた子を投げ捨てたりはしないかな」


 いつものように森崎柚香は顎に手を当て、首を傾げた。


「うーん。可愛くて家事も出来て仕事もばりばりこなす完璧なお嫁さんかな?」

「そうか。それは頑張らないとな」

「そうだね」

「可愛くなれるように」


 無言で肩パンされた。

 言われてみれば森崎柚香が教室で誰かとこうやってじゃれ合っているのを見たことはない。男子に対してはもちろん、女子に対してももっとおしとやかというか……。まぁ、普段から気にしてみているわけではないので僕が知らないところではっちゃけてる可能性もあるのだが。

 果たしてどちらが本当の森崎柚香なのだろうか。

 それともどちらも本当の森崎柚香ではないのか。

 会話が途切れ、静かな時間が過ぎていく。それに耐え切れなくなったわけではないが、僕は口笛を吹いた。


「相変わらず上手だねぇ」


 呟くように小さく森崎柚香が言った。まるで演奏の邪魔をしてはならないとでもいうように。

 相変わらずの適当な旋律。なんとなくで演奏を止めると待っていたかのように森崎柚香は手を叩いた。


「うん。今日もいいものが聴けた。ところで……まさかとは思うけど夜は口笛吹いたりしてないよね?」

「僕はここ以外で口笛を吹くと死んでしまうんだ」

「その口笛って呪いかなにか?」

「まぁ実際にここでしか吹いてないよ。なんで?」

「ほら、夜に口笛を吹くと親の爪が蛇になって死ぬって言うじゃない」

「まさしく呪いだな」


 混在するにも程がある。


「夜に口笛吹くと蛇が出て……夜に爪を切ると親の死に目に遭えないんだっけか。あれ? 逆だっけ?」


 森崎柚香が変なことを言うので僕まで混乱してきてしまった。間違ってはいないはずだがなんとなく違和感がある。さっきの例えのインパクトがあり過ぎた。


「そだっけ? うーん、どっちにしても夜は吹いちゃ駄目だよ? 怖いから」

「迷信だろ。実際に起こる訳じゃ……」

「駄目だよ?」

「だから……」

「怖いから」

「……おーけい」


 実際に僕が夜に口笛を吹いたかどうかなんて証明しようがないのだが、約束するくらいはいいだろう。約束は交わすもの。


「それにしても蛇が出たら怖いのはわかるけど、親の死に目に遭えないってなんだろうな。なんの脅しにもなってない。死ぬときまで親の顔を見ていたくないな」

「え?」


 今までの茶番とは違い、本気で戸惑うように森崎柚香が声を上げた。それだけでなく、大きな瞳を見開いてこちらを見つめていた。あぁ、これは口を滑らせたな。


「ごめん。今のなし。冗談」


 こういうときは変に取り繕わず謝るのが正解。悪いことをしたとは思ってないけど。

 なんだ冗談かぁ、と森崎柚香の表情が緩む――なんてことは当然なく。


「あ、もうこんな時間。私帰るね」

「……あぁ」


 実際時間が迫っていたのは確かだったのだけど。

 そそくさと逃げるように屋上から出て行った森崎柚香の背中を、僕はずっと追い続けた。



「ただいま」


 ふわふわした気持ちを引きずって帰宅すると、既に夕餉の香りが漂っていた。

 まず真っ先に自分の部屋を目指して廊下を進んでいると、僕の帰宅を嗅ぎつけたのか美鶴さんが後ろから声をかけてきた。


「おかえりなさい、宗司くん。晩御飯できてるよ」

「ありがとう。あとで食べるよ」

「でも、今ちょうど義文さんも食べてるから一緒に……」

「すぐにやらなきゃいけないことがあるんだ。それに父さんもすぐ仕事でしょ? ゆっくり食べる暇なんてないよ」

「……わかった。私ももう出るからきちんと食べてね?」

「わかってる」


 振り返っていないのでわからないが、悲しそうな顔をしているのは簡単に想像できた。

 部屋に戻って床に鞄を放り投げ、ベッドに倒れ込む。もちろん、やらなきゃいけないことなんてない。


「今回この言い訳使っちゃったからしばらくは使えないなぁ……」


 そうそう「すぐにやらなきゃいけないこと」なんてあるはずがない。明日あたりは三人で食卓を囲まなければならないだろう。

 実の父と。

 血の繋がっていない女性と。



「……子どもかよ」


 気に入らないことがあると駄々をこねる子どものようだ。むしろ子どもであると割り切れたならどれだけ楽だろう。思うがままに拒否をして、望むものだけ許容する。

 中途半端に大人な僕は相手の気持ちも汲んでしまうし、周りの目も気にしてしまう。

 その結果、行動すらも中途半端になってしまっている。情けない限りだ。

 ふと、森崎柚香の顔が浮かんだ。僕の失言に、驚愕した顔。

「親の死に目に遭えない」ことについて思わず正直な感想を言ってしまった。そりゃあ普通の人はそんなこと言われたら引くだろう。

 どうも森崎柚香については距離感を掴みきれていない部分があるらしい。ただのクラスメイト相手ならあそこで口を滑らしたりなんかはしなかったはずだ。

 あぁ、そう言えば一つだけ嘘を吐いてしまった。

 将来の夢を聞かれたとき、適当にはぐらかしたけど。

 一つだけ決めていることはあった。

 はたしてそれを森崎柚香に伝えられるだろうか。

 そんなことを考えながら、瞼を閉じた。



「今日はトマトの素晴らしさを佐山くんに説こうと思います」

「…………」

「まずトマトにはリコピンっていう成分が含まれていて」

「…………」

「それがたいそう体に……って聞いてる? 佐山くん」

「いやぁ」


 聞いてるが頭に入らないというか。

 あれから一週間が過ぎた。

 予想通り、次の日から森崎柚香は屋上へやってこなかった。

 席が隣同士なので嫌でも毎日顔を合わすのだが、目が合うことはあっても話すことはなく。

 なんとなく気まずい感じのまま週末を迎え、月曜日がやってきた。

 その放課後に、森崎柚香は何事もなかったかのように屋上へ現れたのだ。

 そして僕にトマトについて説いている。

 なんだこれ。


「森崎さんが何と言おうと僕はその邪悪な果実は口にしない」

「ひどい! 人の子を邪悪だなんて!」

「もし僕が説得されたらその子を食べるんだからな?」


 まるで時が戻ったかのようなやり取り。けれど言葉には出来ない小さなわだかまりは確かにあって。恐らくそれは森崎柚香も感じている。

 たぶんここが別れ道。踏み込むか、否か。

 ほんの少しの沈黙。気まずさで目を逸らそうとした瞬間に、森崎柚香がはにかんだ。


「あはっ。なんかごめんね?」

「別に謝ることなんかしてないだろ」

「そっか。うん。そうだよね

 例のポーズを取りつつ、森崎柚香が切り出した。


「あのね。この場所を共有する仲間としてもっと佐山くんと仲良くなろうと思います」

「僕は既に唯一無二の親友だと思ってたけど」


 ついいつもの癖で茶化してしまう。そんな場面じゃないとわかっているのに。

 それは相手が踏み込んできたことに対する警戒心か。

 踏み込ませてしまった、という罪悪感から来るのか。


「というか単純に気まずいのが嫌なだけなんだけどね?」


 でも。


「私も佐山くんのことを友達と思ってるんだけど……私達お互いのこと全然知らないんだよね」


 あぁ、違うんだ。違うんだよ森崎柚香。

 知りたいと願ってくれるのは素直にありがたい。

 でも僕のことを根掘り葉掘り聞かれるのは本望じゃない。

 それじゃその他大勢と何も変わらないんだ。

 僕の態度を訝しんで、興味本位で訪ねてくるその他大勢と。

 なにひとつ。


「だからもっと私のことを知ってもらおうと思います」

「…………は?」


 森崎柚香の発した言葉の意味がわからず、きっと間抜けな顔を晒してしまったと思う。

 意味というか意図。

 それは僕にとっては遠回りで非効率的で、生ぬるいお湯につかっているような行為だった。


「ここってさ、狭いし汚いし解放感も無くて気持ちなんか良くならないしむしろ圧迫感があって押し込められてるような感覚でそりゃ人も来ないよね、屋上があるなんて知ってる人の方が少ないよねって感じじゃない?」


 森崎柚香は息継ぎせずに一気に言った。


「でもさ、人が来ないってのは見られないってことで。ここだと取り繕う必要がないんだよ」


 あぁ、なるほど。

 派生しているものが違うが根っこは一緒だ。

 僕も森崎柚香も人付き合いを避けてここへ辿り着いた。


「クラスメイトのことが嫌いなわけじゃないんだけどさ。色眼鏡で見られたりとか、それに対してそれらしく振る舞ったりとか。初めのうちは良かったんだけどさすがにずっと続くと疲れちゃって」

「まぁ……わかるよ」

「家に帰っても窮屈で。自分で望んだこととはいえたまには休息も必要かな、と思って独りになれるところを探してたらここに辿り着いて……佐山くんと出会ったの」


 それが事のあらまし。

 何故屋上に来たのか、未だに来るのか。

 なるほど得心した。


「残念だけどこの場所を譲る気はない。どうしてもというのなら僕を倒してからにするんだな」

「私は平和主義者だから排他じゃなく共存を選ぶの」

「教室で共存を選んだ結果が今だろ」

「排他を選ばなかった結果が今なの」


 本当に引かないな、こいつ。言葉遊びをする人間は嫌味な奴だと相場が決まっているので森崎柚香の性格の悪さが証明された。なんてことだ。


「そんなわけでこれからもよろしくね、佐山くん。私と一緒にこの場所を守ってね」


 一体なにをよろしくするのか。

 なにからこの場所を守るのか。

 つっこみたいことが山ほどあったがそれよりも僕が気にかかったのは。


「……それだけ?」

「? それだけって? 私の話はこれで終わりだけど……あ。そんなオチとか求められても困るよ? 私、面白いことなんかこれっぽっちも言えないからね?」


 どの口がそんなことを言うのか、と思ったがそこには触れないでおく。


「じゃなくて。森崎さんの事情はなんとなくわかったけど……その、なんていうか」


 僕のことを聞かなくていいのか? とはっきり言うのが躊躇われてなんだか妙な言い回しになってしまった。同時に自己嫌悪に襲われる。一体何様なんだ、自分は。

 僕のことなんか聞いて欲しくなんかないくせに。

 聞いて欲しくなんか……ない。そう。だからこれは再確認。

 どうやら僕の言葉から察したようで、森崎柚香は首を傾げた。


「んー。そりゃ佐山くんのことも話してくれれば嬉しいけど。私が話したから仕方なく佐山くんも話す、なんてのは嫌じゃない?」

「別に仕方なくなんかは」

「実際はそうでもね。私の中ではそういうことになっちゃうんだよ」


 なっちゃうのか。

 なるほど手ごわい。


「……でもそれじゃあ先に言われてしまったらどうあがいても僕は言えないじゃないか」


 僕の愚痴に対して。

 森崎柚香は僕の目を見て、にこやかに笑った。


「あはは。あがくつもりだったんだ」


 ――あぁ、そうか。

 森崎柚香はすべて気付いたうえで言ってるのだ。

 僕と森崎柚香とその他大勢。

 妄想空想絵空事。

 興味を持っているのは――。


「? どしたの? すっごい間抜け面してるよ? この世の始まり、みたいな」

「……そりゃ世界が始まる瞬間を見たらこんな顔にもなるさ」


 続く森崎さんの声でなんとか自制を取り戻す。

 深呼吸一つ。

 うん。よし。落ち着いた。

 今の僕は生涯で一番落ち着いていると言っても過言ではない。冷静沈着。

 だから。


「森崎柚香」

「なんだね、佐山走司」


 僕は森崎さんの目を見て言った。


「僕とデートしてくれ」



 断られなかった僕はいつもよりも少しばかり身だしなみに気を付け、駅前に佇んていた。


「断らないんだ……」


 この三日間で何度呟いたかわからない言葉を改めて口にする。

 僕のとても冷静とは思えない提言に森崎さんは「友達としてならいいよ」と明るく答えてくれたのだ。

 当然、家族以外の異性と二人で出かけるなんて初めてのイベントなので多少なりとも緊張しているのは自覚していた。

 僕なんかが、と卑下するつもりはないが見合っていないのは明白なのだ。

 提言した僕が言える台詞ではないが例え「友達として」でも異性と二人きりで出かけるなんて許されるのだろうか?

 少なくとも心の片隅では僕は楽しみにしていたのだろう。約束の三十分前に待ち合わせ場所に着くくらいには。

 壁に背中を預け、辺りを見渡す。

 当たり前だが、こうして見ると様々な人がいる。

 ネクタイのよじれたスーツ姿の男性も、キャリーケースを引きずる女性も、睦まじく会話をしながら歩いている小学生も。

 ここは以前からこんなに賑わっていただろうか?

 都会でも田舎でもない中途半端なこの町だから、日によってばらつきはあるのだろうけど。


「……そんなきょろきょろしてると不審者みたいだよ」


 ちょうど向いていた方向とは逆側から話しかけられる。

 正直、心臓がスクワットを始めたかのように躍動したが努めて冷静に振り返る。

 そこにはいつも通りの森崎さんが居た。

 当然、制服ではなくカジュアルな私服にいつものヘアピン。大きな瞳を少し細めてこちらを見ていた。


「外の世界に出るのは久しぶりだからね。堪能してたんだ」

「あー。学校は閉ざされた世界とかいうアレ?」


 多分、きっといつも通りに返答できたと思う。

 改めて森崎さんの恰好を眺める。

 白いワンピースに薄手のカーディガン。足の形がはっきりとわかるくらいの細身のジーンズ。

 あぁ、なにか違和感を感じると思ったら厚底のサンダルを履いているからか。いつもより少しだけ距離感が近い。


「っていうか待たせてごめんね? これでも早い方だと思ったんだけど」

「まだまだだね。全世界待ち合わせ選手権で一位を取った僕には敵わないさ」

「それって早さを競う大会なの?」

「まぁこれは癖みたいなものだから。森崎さんは気にしなくていい」

「ふぅん。難儀な癖だね」

「まったくだ」

「それで……今日はどうする?」


 早速の難題を提示されてしまう。

 異性と出掛けるのが初めてな僕が綿密な計画を立てられるわけもなく。

 もしかしたらその辺を気遣って森崎さんが計画してきてくれるかな、などと女々しいことを考えていたが聞いてくるということはそんなこともないようで。

 目的地だけ決まっていて、出航すら出来ずに暗礁に乗り上げた舟のようだった。


「正直なにも考えてない。こういうことに慣れている森崎さんがエスコートしてくれると思ってた」

「別に慣れてるわけじゃないよぅ……まぁきっと佐山くんは何も考えてないだろうなと思って……」

「お?」

「戸惑う佐山くんの顔が見たくてあえて何も用意しませんでした!」

「森崎さんっていい度胸してるよね」


 一瞬期待を持たせる言い方をするのがまた性格の悪さを現している。


「あはは。でももう十分そんな表情が見れたからいいかな。ね、文房具屋さんに行かない? ちょうどルーズリーフと修正テープとボールペンとはさみを切らしちゃってるんだ」

「……なるほど。突っ込みたいことは山ほどあるけど」

「けど?」

「修正テープは買わなくていいかな」



 文房具店を回る森崎さんはやけにテンションが高かった。

「ねぇ! このボールペン可愛くない? ずっとノックしてたい! あぁ、でもそしたら親指痛くなっちゃう!」とか。

「なんで私たちは未だにはさみを使ってるんだろうね? 今の科学の力ならもっと便利な物が作られてそうじゃない?」とか。

「下敷きはいなくなって初めてその存在の素晴らしさに気付くんだよ……お気に入りの下敷きを無くしたあの三日間は本当に地獄だったよ……」とか。


 それに対していつものように茶化して返事をしたような気がするがあまり覚えていない。

 そして気付けば文房具屋を後にしていた。


「はー。楽しかった。やっぱ文房具屋さんは最高だね!」


 この頃になるとようやく僕も落ち着いてきて、冷静に自分を見ることができた。


「文房具なんて使えればいいと思ってる僕にはよくわからないな」

「そう? それにしては佐山くんも楽しそうだったよ?」

「わからないとは言ったけど楽しくないとは言ってないさ」

「あはは。なんだそれ」


 森崎さんは未だ興奮冷めやらぬようだった。

 クラスでの彼女の姿とは違う、それでいて屋上での彼女の姿ともまた違う、新たな姿。

 なんというか……すごく自然体だと感じた。これが本来の森崎さんなのではないかと。

 閉ざされた世界で、閉じこもっている彼女。

 きっと、今の彼女は狭間にいるのだ。

 あちらでもなくこちらでもない、誰の手も届かない場所。

 だからこそ思うがままに自分を出すことが出来る。

 ……なにをわかったようなことを。


「ん? なにか言った?」

「いや別に――」

「あ、見て佐山くん! 今ドーナツ百円だって! これは行かなきゃ! 食べなきゃ!」


 食い気味に森崎さんは道路を挟んで反対側にあるドーナツ店を指差した。

 昼にはまだ早いものの、小腹が空いた感じはある。

 というかこの様子では行かざるを得ないだろう。

 短い時間だが森崎さんと行動を共にして気付いたのは、狭間の彼女は自分を曲げないということだった。

 やりたいことはやる。見たいものは見る。言いたいことは言う。買いたいものは買う。

 すがすがしいほどにまっすぐだった。

 僕には眩しすぎる。

 横断歩道を渡り、ドーナツ店へと入る。既に幾人かが行列を作っていたがそこまで待ち時間は無さそうだった。


「どうする? 持ち帰る? ここで食べる?」

「歩きながら食べるのは行儀が良くないな。僕は貴族の生まれだからそんなことはできない」

「奇遇だね。私もカウンテスの位を持つ女だからそんなはしたない真似はできませんわ」


 そんなことを言いあっている内にすぐ僕たちの番となり、お互いにドーナツを選んだ。

 僕はオールドファッションとシュガーレイズドを。森崎さんはチョコファッションとチョコリングを頼んだ。もちろん自分の分は自分で払った。

 森崎さんが先で、僕が支払いを済ませるころには既に席を確保しており笑顔でこちらに手を振るのだった。

 森崎さんが選んだのは窓際の席ではなく二方を壁に囲まれた隅っこの席で、その「らしさ」に思わず笑ってしまう。


「それはあれかな? 先に席を取っておいた私に対する感謝の微笑みかな?」

「人の見世物にはならないという意志を持った森崎さんへの憧憬の笑みだよ」

「いやだってさ。ここじゃなくても他の店にもあるよね? なんていうのかわかんないけど窓際で外に向けられてる席。私あれ嫌いなんだよ。動物園みたいで」

「わからんでもない」

「それに佐山くんでもこの席にしたでしょ?」

「失礼な。あいにく僕は見られて困ることはしてないんでね。堂々と窓際の席で猿のようにドーナツを食べてやるさ」

「じゃあ今から独りで行ってもらっていい? 私それ写真撮るから」

「肖像権って知ってる?」


 普段屋上で話しているように、冗談交じりで会話できていることに少しだけ安心する。

 ……安心?

 一体なにに安心して何を恐れていたんだ。

 いつも通りは安心で。

 怖いのは――。

 嬉しそうな顔でドーナツにかぶりつく森崎さんを見ると、彼女もこちらを見返してきた。


「ふぁひ?」

「……そのヘアピン。いつもつけてるね」

「お? 佐山くんってそういうとこに気付く人だったんだ」

「僕がそういうとこに気付かなかったことあるか?」

「あぁ、ごめんごめん。気付いたとして言うんだなって」

「正直話題に困ったから適当に目についた物について言っただけだ」

「そういうことは言わなくてもいいよ……」


 軽く左手を拭いてから森崎さんは花柄のヘアピンを愛おしそうに撫でた。


「これはね、お兄ちゃんが入学式のときに買ってくれたんだ」

「へぇ、お兄さんいたのか」

「うん。無口でぶっきらぼうで、愛想のないお兄ちゃんが初めて買ってくれたのがこのヘアピンなの。そのときにようやく嫌われてるんじゃないってわかって嬉しかったなぁ……」


 なにやら深い事情がありそうだが踏み込むべきではないのだろう。

 そんな僕の表情から察したのか、対照的に森崎さんは明るく笑った。


「あはは。今はすっごく仲いいよ? お兄ちゃんも社会人になって人付き合いも上手くなったみたいだし。あとは早く結婚してくれれば言う事なしかな?」

「森崎さんに言われるのはきついだろうなぁ」

「佐山くんは? 兄弟はいないの?」


 踏み込まれる。


「僕も兄が……いたよ」

「いた……って」

「あぁ、多分考えてるようなことじゃない。なんていうか……うち両親が離婚しててさ」


 もう、遥か昔の話。


「僕は父に引き取られたんだけど、兄は母の方に引き取られて。そこから会ってもないし、連絡も取れないからいないも同然というか。正直顔ももうあまり思い出せないレベル」

「……そっか。ごめんね、なんか」

「別にいいよ。もう気持ちの整理はついてるし」


 そう。そのことについては気持ちの整理はついてるんだ。

 だからと言って問題がないわけではないけど。

 森崎さんはドーナツを食べるのを止め、口に手を当てた。

 そこまでショックを受けることか? と思ったが目元を見るとどうやら違うようだった。


「……どうしたの?」

「いや、うん。ごめん。不謹慎だとはわかってるんだけど……」


 左手を降ろすと、緩みきっている口が露わになった。


「佐山くんが自分のこと話してくれたのが嬉しくて」


 心臓が痛む。

 僕に対して向けられている笑顔なのにきちんと見ることができない。


「これで屋上制圧組として一歩進展した感じかな」

「百歩行ってもどうもならないけどな」


 つい茶化してしまったが、森崎さんが喜んでくれたのなら話した甲斐もあるものだ、と心の中で頷く。

 それと同時に、心の中には怯えている自分がいることにも気付き、見ないふりをする。

 わかってる。本当はすべてわかってるんだ。

 それからは他愛もない話を続け、気付けば昼をとうに過ぎていた。きっと、ドーナツでお腹が膨れていたから昼だと気付かなかったのだろう。


「……っと。ちょっとごめんね」

「ん」


 森崎さんが鞄からスマホを取り出す。

 僕には聞こえなかったが着信があったようだ。

 電話ではなくメッセージだったようで、手慣れた手つきで返信すると申し訳なさそうな顔でこちらを見た。


「ごめん。私帰らなきゃいけなくなっちゃった」

「そっか。それは仕方ないな」


 声が震えていないか心配だったが茶化してこないということは大丈夫みたいだ。


「でも今日は楽しかったなぁ。久々に友達と遊んだ―っ! って気分だよ」

「僕もだ。有意義な時間を過ごせた」


 掛け値なしの本音で話す。

 心から有意義だったと思っている。おかげで気付くことができた。

 暗礁に乗り上げた舟は、そこが目的地だった。


「ここに迎えが来るんだけど……佐山くんはどうする? 先に帰ってもいいよ?」

「……いや。せっかくだから居るよ。こんなチャンスは滅多にない」

「あはは。そうかもね」


 そこからは途切れ途切れに会話をし、再び森崎さんはスマホをチェックした。


「あ、来たみたい」

「よし。じゃあ行こうか」


 少しだけ鼓動が早くなるのを感じながら立ち上がる。

 森崎さんはまだ座ったままで僕を見つめていた。


「…………」

「ん? どうした? 何か言った?」

「……んーん。なんでもない。いこっか」


 一瞬だけ視線を落とし、次の瞬間にはいつもの笑顔に戻って森崎さんは立ち上がる。

 そのまま出口からドーナツ店を出ると、目の前に派手なスポーツカーが止まっていた。

 あいにく車には詳しくないが、それでも高級なのだろうことくらいは僕でもわかった。

 そこから、一人の男性が姿を現した。


「柚香」


 背が高く、清潔感のある短髪に、またぞろ高級そうなスーツを着こなしている姿はまるでモデルのようだった。

 なるほど、と。

 すぐにこの男性が件の人物なのだと気付いた。


「ごめん。待たせちゃった?」

「別にいいさ。待つのが俺の仕事だ」


 男性はすぐに僕へと視線を向けた。いや、意識はずっと僕の方にあってようやく視線が追いついたのだろう。


「あ……」

「はじめまして。森崎淳也です」


 一瞬戸惑ってしまった僕とは対照的になめらかに彼は自己紹介をした。


「僕は、佐山走司です。柚香さんにはお世話になってます」

「キミのことは柚香から聞いてるよ。同じクラスなんだろう?」


 果たしてどこまで話しているのか。

 僕を見て驚きもしなかったということは、元より僕と森崎さんが今日会うことは知っていたみたいだけど。

 横目で森崎さんを見ると、恥ずかしそうにもじもじとしていた。

 森崎さんのためにも早く切り上げるが吉、か。


「知っての通り、柚香は友達が少なくてさ。キミさえよければこれからも仲良くしてやってくれよ」


 そんな考えを知ってか知らずか、彼は悠長に話を続ける。


「そうだ。柚香とは連絡先を交換してるんだろう? なら俺とも交換しようじゃないか。柚香がどんな学生生活を送ってるのかも気になるしね」

「え? あぁ……はい」


 どんな提案だ、と思ったが無下に断るわけにもいかず、交換に応じてしまう。

 別にこちらとしてはあって困るものではないが、あちらからすればどんな意味を持つのか。考えただけで嫌気がさした。まるで閻魔大王に舌を掴まれているような緊張感。一瞬でも下手を打てば引っこ抜かれてしまう。

 僕の連絡先を手に入れた彼は満足そうに頷いた。あぁ、閻魔帳に名前が載ってしまった。


「じゃあまたね、佐山くん」


 連絡先交換会が終わったのを見計らってか、森崎さんはぎこちなく別れの言葉を言った。

 森崎さんが助手席に乗り込み、彼も運転席へと戻る。車はすぐに出発し、僕はただ取り残されてしまった。

 運転席側が僕の方に向いていたので、手を振ることはしなかった。



「で? それを俺に話してどうしたいんだよ」


 夜、誰かに今日の出来事を話したかった僕は思わず圭一に電話していた。

 まさか圭一に明確な答えを求めていたわけではないし、そもそも答えなどとうの昔に決まっているのだった。

 だからこれは再確認。

 言葉にすることで改めて自分の気持ちを整理したかっただけなのだ。


「別にどうもしないよ。ただ話したかっただけ」

「気持ちわりぃな」


 ぶつくさ文句言う割に話を最後まできちんと聞いてくれたのはさすがだと思うが、わざわざ言わない。きっとそれでまた文句を言うだろうから。

「っつーかさ」と少しの間を置いて圭一は言った。

「お前、本気なの?」


 何に対してかは圭一は言わなかった。

 言わなくてもわかるのもあるが、明確に言葉にするのが躊躇われたのだろう。

 だから僕も敢えて一言で答えた。


「本気だよ」

「……そうか。まぁ好きにしろよ」


 それだけ言うと、最後に「じゃあな」と言い残し圭一は電話を切った。

 無機質な機械音が耳元で鳴り、やがてそれも聞こえなくなる。

 閉め切っていた窓を開けると、涼しい風が流れ込んできた。体温が下がっていくのを心地よく感じる。

 これは再確認。

 僕にその覚悟があるかどうか。

 僕自身が、宙に虚ろうばかりでいられるか否か。

 下がった体温が震えさせる指先を止め、再び携帯を操作した。



 声に芯を通すことができなかった。

 僕の口から発せられた音は弱弱しく進み、相手まで届いたかどうかすら怪しかった。

 けれど止まる訳にはいかない。ここまで来たのだから突き進むしかない。

 当然、相手の反応は訝しげなものだった。

 それはそうだろう。僕だって深夜にどこの馬の骨かわからないやつから呼び出しがあったら訝しむどころではない。

 相手が了承してくれただけありがたいと思わなければいけない。

 日を改めることは簡単だったが、僕のこの心にある想いが冷めて小さくなってしまわない内に形として出しておきたかった。

 形として、残らなくとも。

 形として、無くなっても。

 きっと今のままよりも、前には進めるはずだから。


「僕は、森崎さんのことが好きです」

「…………」

「こんなことを言うのが間違いだっていうのはわかってる。でも、伝えずにはいられませんでした」

「…………」


 返事はない。

 それでも言葉にして吐き出したことによって、自分の心が軽くなったのを感じた。

 だから、これで満足だ。


「えっと……」


 自己満足に浸っているとようやく向こうは状況を整理できたようで、ゆっくりと喋り出した。


「一応確認したいんだけど」

「はい」


 夜の公園。全体を照らすには街灯の量が足りていないが、幸か不幸か今日は満月で月明かりだけでも十分見渡すことができた。


「それは、俺じゃなくて柚香のことを言ってるんだよね?」


 月明かりに照らされた、森崎淳也さんが言った。

 その顔は怒りや不愉快といった類の表情ではなく、ただただ困惑しているようだった。

 そりゃあ、そうだ。


「はい」

「それは俺に伝えることじゃないんじゃ……あぁ、そういうことか」


 なんとなく理由を察したのか、困惑から苦笑いへと表情が変わる。


「なるほど。礼儀知らずなガキだと思ってたが……そうでもないらしい」


 僕の告白によって、彼の中で優劣が決まったのか、若干語気が強まっていた。


「一応聞くぜ? キミはどうしたいんだ?」

「……僕は」


 そんなの、決まっている。


「どうも、したくないです。森崎さんと付き合いたいとか、一線を超えたいとか考えていません。ただ、貴方には伝えておかなければと思っただけです。それで――」

「わかってる。柚香には言わないよ」


 僕の言葉を遮って彼は言った。


「キミは自分のことを良くわかってるんだろう。だからこれ以上の進展を求めない。追わない。奪わない。男としちゃどうかとも思うが……まぁ俺が口出しすることじゃないしな」


 彼は流れるような手つきで煙草を取出し、火を点けた。


「きっとキミはこのまま自分の想いを閉じ込めて生きていくんだろ? だったら、最後に聞いてやる。思ってることを全部言えばいい」

「…………」


 言いたいことはたくさんあった。

 でもそれは言うべきではないし、言ったところでどうにかなるものでもない。

 だから、繰り返した。


「僕は、森崎柚香さんのことが好きです。でも、僕は柚香さんを幸せにはできないから。だから……」


 言葉が詰まる。喉が詰まる。鼻が詰まる。息が詰まる。心が、詰まる。

 彼が煙草を吸い終わっても、言葉を紡ぐことができなかった。

 彼は、笑った。


「わかった。もういい。キミの想いは十分に伝わったよ」


 背を向けて、出口へと歩き出す。

 左手を挙げて、彼は言った。


「俺はなにがあっても柚香をキミにはやらない。だから、キミは安心して余生を過ごしてくれ」


 僕の返事も待たずに、そのまま公園が出て行き、やがて姿が見えなくなる。

 残された僕はただ茫然と立ちつくし。

 いつものように口から息を吐いたが、上手く音は鳴ってくれなかった。

 まるで呪いのようだった。



「……ねぇ」

「…………」

「ねぇ、佐山くんってば。聞いてる?」

「ん、あぁごめん。南アフリカの情勢について思いを馳せてたよ」

「ケープタウンでは気を付けないとね」


 いつものように森崎さんと他愛のない話をする。

 やはりそれは、僕にとってとても心地の良い時間だった。

 けれどどこか上の空になってしまうのは仕方ないのだろう。


「で、なんだっけ? ヨハネスブルグだっけ?」

「南アフリカじゃなくて。この間は急に帰っちゃってごめんね、って話」

「あぁ、別にいいよ。全然全然全然全然全然全然全然気にしてないから」

「ゲシュタルト崩壊起こしそうなほど言わないでよ」

「崩壊することによって進む未来もあると思うんだ」

「ベルリンの壁的なね」


 直前の授業が世界史だったせいか、どうも外国の話が多くなっているのはお互いに自覚しているところだろう。

 言わなくてもわかる程度には、仲良くなったのだと思う。


「佐山くんが良ければ今度埋め合わせしたいなーって思うんだけどどうかな?」

「それはそれは……」


 とても魅力的な提案だ――だけど。


「じゃあ次は外国に行ってみようか。夢の国とか行ってみたいな」

「あぁ、パスポートもいらないからお手軽だね」

「年間パスポートがあれば便利だけど」

「……あれって元取れるのかな」

「少なくとも僕達みたいな人じゃあ取れないだろうね」


 森崎さんの提案を受けるわけにはいかない。

 それは約束ではなく、境界線。

 安易に超えると、戻って来れなくなるから。

 僕の願いは一つだけ。

 森崎さんが、楽しく笑ってくれること。

 少しの間でも。偽りでも。

 楽しく笑ってくれれば、それだけで十分なのだ。

 だからこれ以上は踏み込まない。踏み込ませない。

 幸せな未来は、僕の隣にはないから。

 向かい合って、笑っていこう。


「あ、私そろそろ帰るね。スーパー寄らないと」

「特売?」

「イエス! じゃあ、また明日!」


 彼女は元気よく手を振る。

 僕はその姿を眺める。

 彼女の、左手を。

 薬指を。

 羨ましそうに、ただ眺める。


「……また、明日」


 僕は軽く手を振って森崎柚香を見送る。その姿がドアへと吸い込まれ、完全に見えなくなってから僕は口笛を吹いた。空に消えて行った。


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