海は凪いでいる
病院で一人、ベッドの側に座っている。その時間は、私にとって苦痛と不安と、死に限りなく近いものに触れている恐怖と、悲哀の時間だった。
「お兄ちゃん」
呼んでみても返事はない。
「私だよ」
流れるのは風だけ。本当にまずい。薬品と、病院に染み付いた『命』のにおい。この場合の命は、ただ生きながらえているだけのものや、今、生死の境目をさまよっているもの、数日の間安静にしているだけのものなんかだ。でも、その差は大きい。
兄には、既に峠は存在しない。だから越えるものがない。目標がない。戻ってこない。
──零波って名前は、兄ちゃんが考えたんだ。ほら、ケンカしたりしたとき「波風が立つ」っていうだろ? だから、周りに平穏をもたらすって意味で、ゼロの波、零波だ。
私と兄は、兄妹にしては私と歳が離れていた。本を読むことが大好きだった兄は、従姉妹の梨花姉ちゃんや私に、よく絵本を読み聞かせてくれた。
そんなときだった。兄が倒れたのは。
「兄ちゃんは?」
幼い私の問いに、当時もう小学三年生だった梨花姉さんは言った。
「零兄ちゃんは、病院に行ったの。でも、零波がお見舞いに行っちゃうと零兄ちゃんは恥ずかしくなっちゃうから、行っちゃダメ」
梨花姉さんは、そのときから本当に賢い人だったのだと思う。
私が病院に行ったとき、兄は笑っていた。
──なんだ零波、来ちゃったのか。ここ、本もなくてつまんないな。空気はまずいし、いいことないな。
それから数日後、兄は意識を失った。
「嫌になるよね、毎日ここじゃあ。でも、私力無くてさ。兄ちゃん、こんなに軽いのに私は持ち上げてあげられないんだ。ごめんね」
機械に埋もれた、小さな兄。私と同じ歳で意識を失って、一度も戻らない兄。もう長くない、兄。
もう、嫌だよね──私は呟いた。
機械の中で、無駄に生きながらえているだけの今の自分の状況を、優しい兄が甘んじて受け入れるはずがない。私は立ち上がった。
「また来るね、お兄ちゃん」
私は、非力だ。勉強ができたって、楽器ができたって、人を助けられない。なにもできない。医者でもなければ、看護師でもない私には。
「ね、来週も遊べるって、前言ってたよね? また一緒に行かない?」
実結の声に我に帰る。私は来週の予定を思い出した。
兄は、もうそろそろだ。昨日、危篤に陥ったと聞かされた。去年の八月ごろにも同じようなことがあり、次はもうないと言われていた。だから──。
「あ……、ごめんね、実結。来週は、お兄ちゃんのところに行かなきゃいけなくなっちゃったの」
そして、再来週は葬式なんかが入るかもしれない。実結には、心配させられなかった。葬式だから、いけなくなっちゃた──そう言って、親友に気を使われたくはなかった。
「再来週は家の用事で……」
実結は激昂した。そうだよね、突然、だもんね。実結はそういうの、嫌いだよね。私も嫌なんだ。でも、お兄ちゃんは──。
実結が怒鳴った。ごめん、ごめんね。でも嫌わないで、お願い。
実結の目が、泳いだ。点滅する信号機を捉える。
私ははっとした。実結──!
実結は横断歩道に飛び出した。やめて、実結。お願い、私を一人にしないで──。
手を伸ばしたとき、「零波!」という実結の声が聞こえた。
私に聞こえたのは、その声が最後だった。




