表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/3

第一話

 ドアの三つ目の鍵が開いた。靴を脱ぎ終わると同時に廊下の照明が灯り、女の声が聞こえてきた。

「おかえりなさいませ。お留守の間に電話が一件、メールが五件届いています。お届け物がヤマオ運輸で一件ありましたが、不在のため配送センターに」

「分かった、もういい。クリス、荷物は誰からだ?」

「お待ちくださいませ…配送トレースサービスに照会…株式会社キンマン・ユニット様より、内容は書籍となっております。」

 聞きなれない会社名に首を傾げたが、それが五日前にネット通販のリエゾンで申し込んだ古書専門サイトの運営会社であることを思い出した。クリスでは不在時受取の際の認証が通らなかったらしい。この辺りはオムニスによって大きく差が出るところらしいが、困り顔で引き返す配送業者の顔が浮かぶようだった。といっても、ヤマオ運輸の配送所は歩いて三分もかからないところにあるから再配達されるより受取りに行ったほうが早い。

「クリス、その荷物の配達所留めを依頼してくれ。」

「はい、ただいま…依頼連絡完了しました。ヤマオ運輸のお問合せ伝票番号は…」

 クリスを適当に聞き流しながらシャツを脱いでスウェットに着替え、冷蔵庫からアップルタイズを取り出す。天然のリンゴ果汁に強めの炭酸を加えた昔ながらの清涼飲料だが、近所の酒店ではひと月前に取扱いを止めてしまい、これからは通販でしか手に入らなくなりそうだ。ガラス瓶の確保が難しくなっただの、強炭酸と天然果汁の酸味がこのご時世では受けなくなっただの、何も知らず買って帰った子供連れの母親がひと口飲んで怒鳴り込んできただのといった話を酒店のおやじがぶつくさとこぼしていた。

「クリス、なあクリス」

「はい、ご用でしょうか」

「リエゾンの配送について調べてくれ。ガラス瓶、ダース売り、保険、で頼む。それと、テーブルのPCを起動だ」

「かしこまりました…照会完了。お問合せの条件では、配送カテゴリはCとのことです。商品が輸送中に破損した場合は新品の再配送にて保証、交換分の入荷に一週間以上かかる場合は自動的に返金の上、注文をキャンセルします。」

 アップルタイズを注ぐグラスを探しながらクリスの言葉を聞き、舌打ちして首を振る。正規輸入品の取扱店の酒店でもひと月ごとにしか入荷しないというのに、アルゾンに出店の小さな会社がまとまった量を確保できるはずがない。まずいことに最近では運送会社によるガラス瓶の破損がこのところ後を絶たず、先月はそのあおりをくらった海外のワインセラーと国内のとある通販サイトの間で国際訴訟までこじれたという。最新型の輸送用シーリングはつい先日活魚の全身密封による輸送を実現したらしいが、何世紀にもわたって人類の舌と喉を潤してきたガラス瓶はもはや厄介者扱いである。

 カットガラスの背の高いタンブラーに氷を三つ入れ、たまたま手に当たった箸で回す。タンブラーの表にわずかに霧がかかったのを見計らい、箸で氷を押さえながらタンブラーを傾けると氷から融けだした水が数滴流れ出てくる。それをシンクに落とし、タンブラーの中の氷が乾ききったらもう一つ氷を追加する。アップルタイズの瓶を開け、一番上の氷に向けてゆっくりと、慎重に注ぐ。数えきれないほどの細かな泡が氷の上で転がり、秘めやかなささやきが聞こえてくる。氷が全て満たされる頃にはタンブラーの口から弾け出る微細な泡がさらに細かな果汁の霞を立ち上らせ、瓶をもつ指が濡れる。

 キッチンの照明を落として部屋に移る。PCのあるテーブルにタンブラーを置き、壁際のオーディオに歩み寄る。主電源を押して何秒か待ち、スピーカーからかすかなノイズが聴こえたらCDプレイヤーの再生ボタンを押す。柔らかく、ややくすんだようなピアノの音が揺らぎながら立ち上り、ついで粒の揃ったスネアのブラッシュが続く。八〇年以上前の、大都市の片隅の地下室で生まれたジャズを蘇らせるのに、圧縮データや現行の十五ビットデジタル方式は力不足である。せめてSACDだ。そうでなければ、面倒でも近所の図書館へ行ってデジタルアーカイヴスを片っ端からクリックすることだ。幸いなことに昨年の夏、往復六時間かけてたどり着いた母方の親類の倉庫から二十三年前の国産オーディオセットを譲りうけることが出来たので、今では図書館の居心地の悪いパイプ椅子ではなく自宅の床のカーペットの上に座り込んで、しかもアップルタイズを片手にレッド・ガーランドのメロウなブルーズを聴くことが出来る。

 テーブルの上のPCはまだ起動していなかった。アップデイトにも限界があるかもな、とぼやきながらアップルタイズを口に運ぶ。細かな泡はなおも弾け続け、鼻の先をかすかに濡らす。キリリとした酸味が真っ先に喉を駆け下り、しばらくすると果汁の滋味あふれる甘みがおずおずと舌の上に現れ、しばらくとどまった。鼻から息を抜くと、皮ごと切り分けられたリンゴを目の前に置かれたような瑞々しい香気が広がった。この味を分からないなんて、親の世代の味覚が自動調理で幼稚化している証拠だぜ、と独り言が口をつく。

「クリス」

「はい、ご用でしょうか」

「電話の履歴を教えてくれ」

「はい。午前十一時三十五分、ベイネットお客様センター様。メッセージはありません。」

 このマンションのオムニスを管理している会社からか。クリスから他のやつへ移行したところで大して変わらないだろうに、このところやたらとインストールを勧めてくる。

 クリスが発売されたのはオムニス(OMNIS)というニックネームが家電統合システムに付いた頃だから、二〇四〇年現在で既に五世代前のものだ。半月前に発売の「オルカ」は乳児の深夜救急に対応し、その上位モデル「ベルーガ」が要介護の高齢者の、しかもクラス6までサポートできるらしい。現在仕上げている住宅展示場のモデルハウスにいきなり設置が決まったときは納期との兼ね合いで散々な目に遭ったが、起動したとたん目の前に現れたシロイルカのホログラフィにはみな腰を抜かしていた。クリスというのはこの部屋の前の住人がオムニスに付けた名前で、話によると管理会社がいくら初期化してもクリス以外の名を受け付けなくなっているらしい。二〇三五年頃に世界規模で問題になったオムニスの誤作動問題に何らかの関係があるとかいうことだったが、名前以外は全て初期化で真っ白になっており、そう使いづらいわけではないのでクリスのままにしてある。

 新型のオムニスをインストールすると、現在使っている家電製品のあれこれを同期させなければならないのが煩わしい。今使っている家電のほとんどはもらい物か、もしくは十年以上使い続けてきたもので最新のオムニスに対応しないものも多いし、今の生活でオムニスにやらせるのはエアコンのタイマーぐらいだ。手を煩わせる幼児も、介護が必要な老人もいない、四十五歳の独りもんがいるだけの部屋にはクリスで十分である。

 自動調理の便利さをほめそやす友人もいるが、そいつらの家に招かれて出される料理に満足したことなど一度もない。調理データの配信サービスはフレンチのフルコースから夜食の卵雑炊までをうたい文句にたいそうな勢いでユーザー数を増やしつつあるが、時代の趨勢だろうか、どれも味が薄いか、時短のために冷凍食材を使いすぎているかのどちらかだ。

 実家が寿司屋で和食の修業の経験もある小学校の同期の小島が結婚した時、ITエンジニアだった奥さんが真っ先に最新型のホームネットを自宅に導入した。おかげで最初期型の自動調理の悲惨と、夫の和食で鍛えられた味覚と、妻の徹底的な合理主義が繰り広げる大騒動を間近で観戦させてもらった。ある夜に突然現れた小島はラーメン店を二軒はしごした上にピザスタンドでビールを三本開け、飢えを満たした獣のようによろめきながら裏通りのカプセルホテルに消えていった。それからしばらく後の夏に郷里の妹から特級本醸造の濃口醤油が送られてきたのでプレゼントしてやったら、数日後に自宅で手打ちそばをご馳走してくれた。天ざるの美味さは絶品だったが、テーブルの向かいに座った奥さんの冷たい視線は今でも忘れることが出来ないでいる。

 PCの画面がやっと開いた。メールを開く。最初に届いていたのは、オフィスで今朝渡された、「ヘリックス」だったか、身体データ採取用端末を管理するニプロム社のカスタマーサポートセンターからだった。右手首に巻かれたバイオラバー製のベルトとその上に付いた少し大きめの腕時計のような画面に眼をやる。会社の健康診断の受診を、一日つぶしてまで行きたくないと渋っていたら代わりにこれを3日間着けておけとこのヘリックスを押し付けられたのだった。そいつには簡素だけど情報端末としての機能もあるから使ってみたら、と会社と付き合いのあるシステムインテグレータ会社の担当者が言っていたが、わざわざ使用上の注意をメールで送ってくるとは思わなかった。

「クリス」

「はい、ご用でしょうか」

「血圧、体温、わかるか。」

「はい…血圧は百二十五と八十二、正常範囲内です。体温は三十六度です。」

 どうやら、こいつは既にオムニスにつながっているようだ。ケータイの充電が切れた時にでも使ってみるか。どうせ会社からの支給品だ、経費は出入りの業者に負担させているはずだし、性能なんてタカが知れているだろうが。

 ニプロムからのメールをゴミ箱に入れると、次のメールが開いた。自動的に流れるオルゴールの音は聞き覚えがある、G線上のアリアだ。ということは送信者はニューロマンスか。アップルタイズをこぼしそうになり、慌ててテーブルに置く。メロディはほんの数秒で止み、動画が立ち上がった。

「おっす、ユッキー。元気か。ちょっと気になったんでな。また今度メールするわ。暇だったらいつでも連絡をくれ。じゃ。」

 画面の向こうには拳人けんとがいた。八年前と変わらない、黒く豊かな髪をきっちりと刈り上げていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ