Touch The Rainbow 1
暖かな午後の日差しが差し込でいるというのに、どこか冷たい空気が支配するストロムブラード邸の1室。そこには真新しいホワイトボードを背にした静音と顔を引きつらせるソフィアが居た。
「うちは言うたはずやんなぁ。テキストは手間が掛からんさかい、時間作ってやらなあきまへん、て」
穏やかな口調のはずの言葉に、ソフィアの背に冷たい汗が伝う。
確かに1週間前、そう言われた事をソフィアは覚えている。
「うちは言うたはずやんなぁ。得意な数学を先に終わらせはったら、苦手な科目の課題を一緒にやりましょか、て」
一見穏やかそうに見える微笑に、ソフィアはそっと目を逸らす。
確かに1週間前、その静音の申し出にソフィアは楽勝だと答えていた。
「うちは言うたはずやんなぁ。ストロムブラード社へのレポートはクロードはんが書いてくれはるさかい、時間はたっぷりあるはずや、て」
近づいてくる雪駄が床を打つ硬質な音に、ソフィアはひとりでに震え出した体を抑えることが出来ない。
確かに1週間前、クロードは家事の合間にレポートを作成し、ストロムブラード社へと郵送していた。もしソフィアがレポートを製作していたのなら、今でもパソコンに噛り付いていただろう。家事や学校の課題など出来るわけもなく。
フワリ、と香る柔らかな睡蓮の香りに導かれるように、ソフィアは正面へと視線を戻す。
紅のラインが走る若草色の帯、睡蓮の模様が入った浅葱色の着物、姫カットに切り揃えられた烏の濡れ羽色の髪。
そして色素の薄い灰色がかった黒い瞳は、ソフィアのエメラルドの瞳を覗きこんでいた。
「灸、据えたりますえ?」
「……ゴメンなさい」
ようやくソフィアが素直に謝ると、静音はどこか呆れたように肩を竦める。
真新しいホワイトボードは黒板、上等なソファとローテーブルは席。その部屋はソフィアのための教室として設けられた部屋で、静音はクロードとの約束通りソフィアの教師役を買って出ていた。
幼い頃からの寄宿舎生活から解放され、ようやく手にした僅かな自由にはしゃいでしまう気持ちは分からないでもないが、ソフィアを守る事を約束した静音にはソフィアの怠慢を許す事は出来ない。
寄宿舎があるような由緒正しい学園であっても、資本を通した介入は避けられない。卒業や進級が出来なければ、ソフィアの華奢な首には新しい首輪が嵌められてしまう事は明らかだった。
中途半端に世間に揉まれ、裏切り者に縋る事で保ってきた自尊心。その不幸に同情しているからこそ、静音はソフィアに危機感と危機に対する立ち向かい方を教えなければならないのだ。
「分からへんとこは教えるさかい、ちゃんとやらなあきまへんえ?」
「……はい」
すっかり落ち込んでしまったソフィアの返事を聞きながら、静音は課題の答えあわせ用に作っていたテキストをファイルに戻し、代わりに自作のテキストを取り出す。
静音がソフィアに教えているのは、特殊な技能が必要な一部を除いた高等教育、そして交渉などにおける話術だ。
今でこそ特殊ナノマシン課は凍結となったが、企業間に置ける言葉の重みを理解し、現地を取らせない事こそがソフィアを守る無形の盾となる。クロードとグレナが結んだ契約内容や雇用期間の詳細が分からない以上、ソフィアは暴力以外に立ち向かえるように強くならなくてはならない。
「はて、昨日はどこまでやりはりました?」
「昨日までが言質を取らせない喋り方で、今日からは交渉術の初歩、ですよね?」
2度も怒られてはたまらない、と慎重にソフィアは答える。
採取後3分というタイムリミットで死滅してしまい、ソフィアの体内でしか培養出来ない"Sheep Tumor"。父の迷惑な置き土産が起こしたトラブルは1つや2つでは利かなかった。
ストロムブラード社との"Sheep Tumor"の所有権争い。医療機関からは治療と銘打った軟禁の誘い。挙句の果てにはクロードの美しさに熱を上げた女が、"Sheep Tumor"を得る事でクロードを自分に縛り付けようとした。
ストロムブラード社との"Sheep Tumor"の所有権争いは、"Sheep Tumor"がグレナのプライベート・ラボで作られ、ストロムブラード社の施設も何も使用されていない事からストロムブラード家の所有物であるという事にはクロードがしてくれた。しかし当時ミカエラを慕っていたソフィアは、クロードの努力を無駄にするように特殊ナノマシン課の課長に就任してしまった。
その際に摂った血液サンプルのおかげで、タイムリミットと培養不可能のルールは証明はされた。だが他のどこでも手に入らない未知のナノマシンは、研究者達の好奇心とテロリスト達の金銭欲を刺激した。ソフィアという新鮮なサンプル兼培養プラントは、金のなる木となりえるのだから。
先日のジェスターとの戦闘の際に、ソフィアは迂闊な行動から静音に"Sheep Tumor"の情報を与えてしまった。クロードはその事でソフィアを責めたりはしなかったが、ソフィアを守る側に立った静音はソフィアの甘さを危惧して高等教育から外れた話術を教える事にしたのだ。言質を取らせて軟禁されてしまえば、洗脳の後に所有権を剥奪するのは容易い。
そしてソフィアに滂沱の如く、それでいてあらゆるタイミングで不規則に叩きつけられたのは、クロードと静音が思いつく限りの多種多様な「サンプルが欲しい」という言葉。
寝起き、食事、報告、ティータイム。どの瞬間も気を抜く事すら出来なかったソフィアが、観念するようにファイルからテキストを出したその時、部屋の扉がノックされる。
「お入りやす」
たった1人しか居ない訪問者を静音が呼び、扉をノックしたクロードは恭しく頭を垂れて入室する。
無用な音を出してソフィアに煩わしい思いをさせてはいけない、と授業中は洗濯機や掃除機ですら動かなさいよく出来た執事。そのクロードが授業中に部屋を訪れた事にソフィアが首をかしげていると、失礼します、と扉を開けたクロードはどこかバツの悪い笑みを浮かべて言った。
「ソフィア様、御巫様。お客様がいらっしゃられたのですが……」
あからさまな不穏な空気と早速訪れてしまった臨時試験に、ソフィアはただため息をつく事しか出来なかった。




