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9話

 あの夜から、ハリムからの依頼はなくなった。帝国の間者と接触したことで、慎重を期する為にも、しばらく様子を見るらしい。それは良い。が、問題がある。


 金がない。


 ニコラスには貯金がない。訓練校の寮費や食費はいくらか割り引かれているが、それでも生活には金がいる。


 ハリムの依頼で稼げなければ、忽ち赤字に陥る。


「…仕事、探さないとな」


 その日の夕方、ニコラスが街を歩いていると、見覚えのある店の前を通りかかる。デネブ食堂だ。


「よう、ニコラス」


 デネブが店先に立っていた。


「…デネブ」


「仕事、探してるんだろ?」


「…なぜ分かる」


「“あいつ”から聞いた。しばらく依頼は止めるってな」


 “あいつ”はハリムのことだろう。


「それで、だ」


 デネブがニコラスを見る。


「うちで働かねぇか?」


 店の中に入れられ、カウンターの席に座る。客はいない。食堂から酒場に変わる準備時間なのだろうか。ニコラスふぁ物珍しげに周囲を見ていると、デネブがグラスを磨きながら言う。


「実力はある。閃きもある。だが、それだけじゃ足りねぇ」


「…何が足りない」


「“商会”でやってくなら、人との関わり方がなってねぇなってことだ」


 デネブが鋭い目でニコラスを見る。


「お前は無愛想すぎる。それじゃ潜入任務は無理だ」


「潜入もするのか」


「ああ。貴族の集まり、商人の宴会、そういう場に紛れ込む。情報を盗む。それも商会の仕事だ」


「…ふむ」


「そのためには、使える武器なんでも使う必要がある。例えば“女”ってのも武器だ。分かるか」


「女、女性らしさ、か」


 ニコラスが眉をひそめる。


「私は、そういうものを捨てて生きてきた」


「捨てたんなら拾えばいい」


 デネブが頷く。


「一度捨てた。だから今のお前がいる。それは否定しねぇ。だが」


 デネブが一杯水を含む。


「お前が商会で活躍するには、それだけじゃ足りねぇ。武器の一つとして、身につけろ」


「…武器になるのか?」


「ああ。女性らしさってのは、使い方次第で最強の武器になる」


 ニコラスが黙る。


「嫌なら訓練だと思え。お前には必要になる」


「…それなら考えてみるよ」


 ニコラスが小さく頷く。


「よし。それじゃあ、給仕の仕事をやってみねぇか」


「…給仕?」


「ああ。笑顔で接客する。客の話を聞く。場の空気を読む。どれも必要だ。あって困ることはねぇ」


「…どれも苦手だな」


「それにな、一応お前向けのこともある」


 デネブがニヤリと笑う。


「私向き?」


「酔っ払いに絡まれたり、スリが紛れ込んだり、色々あるんだよ」


「…なるほど。“発散”も出来るんだな」


「ははっ、そういうことだ」


 デネブが声を出して笑い、ニコラスの目が少し輝く。そして少し考えた後にデネブに伝える。


「…条件がある」


「言ってみろ」


「言われた通りだ。あって困ることはない。だけど、私の良さも潰しかねない。完全に変わらないのなら、教えてくれ」


「…いいだろう」


 デネブが頷く。


「お前のペースで構わねぇ。ただし」


「ただし?」


「真剣にやれ。中途半端は認めねぇ」


「…分かった」


 ニコラスが手を差し出す。


「よろしく頼む」


「ああ」


 デネブがその手を握る。


「明日から来い。教えてやる」


 その夜、ニコラスは寮の部屋で考えていた。


 女性らしさ。ずっと避けてきたものだ。それは弱さだと捨てたつもりだ。だけど、“武器になる”。デネブの言葉が蘇る。使い方次第で、生きていく武器になる。それはニコラスが必要としたいものだ。


 ニコラスは小さく笑う。また、新しいことを学ぶ。強くなるために。それが、ニコラスの生き方だ。


  ――――――――――――


 数日後。ニコラスはデネブ食堂で白いエプロンを身につけていた。普通の街着に羽織る程度だが、随分と印象が柔らかくなる、らしい。当の本人がいまいち分かっていない。


「いらっしゃいませ」


 扉が開き、客が入ってくる。ニコラスが声をかける。最初よりは自然になってきた。


「お、可愛い子が入ったねぇ」


 中年の男が座り、目線が顔から徐々に下がっていく。


「…今日のおすすめは魚の煮付けです」


「じゃあ、それを」


「かしこまりました」


 ニコラスが厨房に向かう。後ろを向けても、不快な視線をまだ感じる。


「…硬い。力を抜け」


 デネブが小声で言う。


「笑顔、もう少し柔らかく」


「…難しい」


「そのうち慣れる」


 陽も落ちて、夜になる。デネブ食堂にも酒飲みが入り始め、賑やかになった。


「いらっしゃいませ」


 ニコラスが顔を上げる——そして、固まる。


「よう、ニコ」


 ハリムが微笑み、柔らかい顔で立っている。他所行き用の顔だ。


「頑張って働いてるか?」


「ああ。お前の依頼が止まったからな」


「そ、そうか…」


 ハリムが少し申し訳なさそうにする。


「冗談だ。それに良い訓練になってる」


「訓練?」


「なんだ。デネブから聞いてないのか?」


 ニコラスが淡々と言う。


「人との関わり方、な。私がこれから生きてくのに必要だとさ。デネブが教えてくれてる」


「それは………」


 ハリムが何かを言いかけて、止める。


「どうした?」


「いや…」


 ハリムが小さく笑う。


「君らしいな、と思って」


「…何がだ」


「訓練だと思えば、何でもやる。その姿勢がな」


 ハリムが席に座る。


「それで、おすすめは?」


「…本日のおすすめは魚の煮付けです」


「じゃあ、それを」


「かしこまりました」


 ニコラスが厨房に向かう。視線は感じる。けれど不快ではなかった。デネブが厨房でニヤリと笑っている。


「すこし笑えたな」


「…笑った?」


「なんだ、気づいてねぇのか」


 デネブが料理を盛りつける。


「いい傾向だ。自然な笑顔が一番だからな」


 ニコラスは無性に恥ずかしさ覚え、何も言えなかった。


 料理を運ぶと、ハリムが言う。


「ニコ、少し話せるか?」


「…仕事中だ」


「そうか。じゃあ、終わったら」


 返事を待たずに、ハリムが料理を食べ始める。ニコラスは他の客の対応に戻る。


 “自然に笑った、か…”


 ニコラスは心の中で呟く。仕事が終わりまでの間、訓練の成果を噛み締める。拙いながらも、少しでも前に進めている実感はニコラスには嬉しかった。

 

「で、何の用だ?」


 結局、閉店まで店で待っていたハリムにニコラスが声を掛ける。


「いや、特に用事があったわけじゃない」


 ハリムが苦笑する。


「デネブに会いに来たついでに、夕食を、と思っただけだ」


「そうか」


「それに…少し誰かに会いたくなってね」


「…そうなのか」


 ハリムが少し照れたように言い、ニコラスが少し驚く。


「最近、忙しくてな。あまり話せてなかったから」


「まぁ、そうだな」


 二人は少し沈黙する。


「ニコ」


「ん?」


「ここでの仕事、楽しいか?」


「…楽しい、かは分からない。が、充実はしてるかもな」


 ニコラスが空を見上げる。


「そうか」


 ハリムが安堵したように笑う。


「それなら良かった」


「…ハリムは? 最近どうなんだ」


「俺?」


 ハリムが少し考える。


「…色々と、複雑でね。少し疲れたな」


「複雑?」


「ああ。まぁ、そのうち話すよ」


 ハリムが手を振る。


「今日はもう遅い。戻ろう」


「…ああ」


 二人は並んで歩き出す。


「ニコ」


「ん?」


「また、ここに来てもいいか?」


「…好きにしろ。客は歓迎だ」


「客、か」


 ハリムが少し寂しそうに笑う。


「そうだな。“客”として、また来るよ」


 二人は別れた。


 ニコラスは寮に戻りながら、考える。


”ハリム、何かあったのか?“


 少し気になったが、彼のことだ。私がお節介をする前には声を掛けてくれるだろう、とニコラスは深く考えるのはやめた。

 

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