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10話

 北西区の貴族街。その一画の特に煌びやかな屋敷の中にハリムはいた。民衆から貴族への反乱の予兆ありと、ハボリム商会が掴んだ情報。特に標的と噂される貴族、ヴィオラ・ノビスリムの護衛がハリムの任務になる。


 王国の名が混じる貴族。建国の礎となった歴史ある家。持っている権力は並大抵のものではなく、王族に連なる者でも、繰り出される命令は反故には出来ない。その下に連なる小さな組織なら尚のことだ。


 貴族が契約している労働者の一部の集団が、反乱を企てている。そんな商会からの報告を国の上層部は信頼していない。その上で、護衛を押し付けられたハリムが、どうにもやる気が上がらないのは、こうような事情が影響しているのだろう。裏ではそれなりに自由に動けるが、表では首輪に繋がられたようなもどかしさが付きまとい、それがハリムの弱みになっている。


 それにこの屋敷は、貴族という階級がどのようなものかを、良くも悪くも目立たせている。横暴でありながら慈悲を込めている。張り詰めていながら弛緩している空気。どうにも居心地が悪い。


 ハリムが悶々としながらも屋敷を警邏していると、中庭から執事の怒声が聞こえた。

 

 「おい、動けと言っているだろう!」


 ハリムが柱の影から中庭を覗き込むと、年若い少年が地面に倒れている。身体は痩せ細り、どうにも呼吸が荒い。体調が悪いのだろうと予測できる。


「す、すみません…」


「すみませんで済むか! 今日の作業はまだ残っている! 早く起きろ!」


 執事が何かを振り上げる。鞭だ。


「少しお待ちください」


 ハリムが割って入る。


「…何だ、貴様」


「失礼、ハリムと申します。ヴィオラ様から、館内の警備を任されています」


「…ふん」


 執事が鞭を下ろす。


「なら知っておけ。これは我々の"教育"だ」


「教育?」


「ああ。契約労働者への、な」


 執事がさも当然という顔で言う。


「契約を守れない者には、それなりの教育をしなければならない。それが契約だろう」


 そう言って執事が再び鞭を振り上げる。ハリムは何も言えなかった。この横暴が罷り通るのがノビス王国の現実だ。力ある貴族には逆らえない。目の前の少年が、折檻と言うには生温い言葉では済まされない仕打ちを受けていても、ハリムには止める力がなかった。


 その日の夜、ハリムは執務室に呼び出された。執事に何か吹き込まれたのだろうか。他に何かしら失敗があっただろうか考えながらノックする。


「ハリム様、お疲れ様です」


 執務室内に入ると、ヴィオラ侯爵夫人が一人、ソファに座っていた。優雅な微笑みを浮かべている。煌びやかで露出が多いドレスが、婦人の妖艶さを際立たせる。


「…失礼します」


 扉が閉まる音が、やけに大きく聞こえた。


「護衛、ご苦労様ね」


「いえ、任務ですので」


「ふふ、かしこまらないで。座って?」


 夫人が隣のソファを指す。


 ハリムが座ると、夫人が紅茶を注ぐ。


「お飲みになって」


「…ありがとうございます」


 ハリムがカップを受け取る。


「まだ若いのに、とても優秀みたいね。高い評価を受けていると聞いたわ」


「…恐縮です」


 夫人がゆっくりとハリムに近づき、ハリムが座るソファの肘掛けに座るように寄りかかる。


「それに」


 夫人の目が細くなる。


「容姿も、私好みだわ」


「………」


 ハリムが警戒する。


「聞いたわよ。あなた、王族の血を引いているのでしょう?」


「…それは」


「けれど、庶子、なのよね」


 夫人の声が、甘く囁くように変わる。


「大変でしょう? 立場も不安定で」


「………」


「でも」


 夫人がハリムの頬に手を置く。


「私なら、力になってあげられるかもしれない」


「…それは、どういう」


「ヴィオラ家の後ろ盾があれば」


 夫人が耳元で囁く。頬に置かれた指がなぞるように下に落ちていく。


「あなたの立場も、ずっと安定するわ」


「………」


 ハリムの背筋に冷たいものが走る。


「私の"お願い"…聞いてくださる?」


 夫人の指が、ハリムの下腹部を撫で回す。


 ハリムは息を呑む。拒否すれば任務に支障が出る。商会への報告が行く。王族への報告も行くだろう。それは立場がさらに危うくなる事を示す。


「…どのような、お願いでしょうか」


 ハリムが搾り出すように言う。


「ふふ」


 夫人の指がさらに下へと落ちる。


「今夜は遅いわ。また、ゆっくりお話ししましょう」


 夫人が立ち上がり、ハリムから手が離れる。


「随分と“立派”みたいね。楽しみにしているわ」


 扉が開き、夫人が去り、ハリムは一人部屋に残された。紅茶の湯気が、まだ静かに立ち上っている。


「…くそっ」


 ハリムが拳を握りしめる。屈辱だった。権力を笠に着て、立場の弱い者を弄ぶ。それが、貴族のやり方なのか。


「俺は、何を守ろうとしている」


 ハリムは自問する。だが答えは出ない。ただ、胸の奥に、冷たく重いものが沈んでいく。


 それから数日が経った。任務は続いている。そして夜になれば、ヴィオラ夫人からの呼び出し。もう、何度目か。


 夜の執務室。夫人が待っている。


「いらっしゃい」


 ハリムが夫人に促されるまま、ソファに座る。夫人も座る。ハリムの膝の上に。


「今日は、ご褒美をあげようと思っているのよ」


 耳元で夫人が囁き、ハリムの手を取る。


「遠慮しないで」


 夫人の手が、ハリムの手を導く。柔らかい起伏のある夫人の身体を隅々まで撫でるように、ハリムの手が動かされていく。


「そう、いい子ね」


 夫人が満足そうに笑う。ハリムは目を瞑り、ただ耐えるだけしかできない。もて遊ばれている事ぐらいは分かる。


「あら」


 夫人が気づき、ハリムが顔を背ける。ハリムの身体が、意思から離れて反応してしまっている。ハリムの反応に満足したのか夫人が楽しそうに笑う。


「ねぇ、寝室に行きましょう?」


「…お断りします」


 ハリムが、きっぱりと言った。


「あら、まだ我慢するの?」


 夫人が不満そうに言う。


「でも、いいわ。また、明日ね」


 夫人が艶めかしく去っていき、扉が閉まる。


 屈辱だった。遊ばれて、弄ばれて。それでも、拒否し続けている。


「…ふざけるな!」


 残された部屋で、誰にも聞こえないようにしか毒付けない現実が、ハリムを更に惨めにさせた。


 ある朝、ハリムは中庭で立ち止まった。あの、少年がいる。鞭の痕が、さらに増えている。


「…これを、守るのか」


 ハリムは呟く。貴族を守る? でも、その貴族が労働者を虐げている。そして、俺自身も弄ばれている。心が、限界に近づいている。


「ここから離れなければ、俺は…」


 そう思うと同時に、脳裏に浮かぶ顔が見えた。ハリムは、一つ決心した。


 ハリムは、すぐに報告書を書いた。商会への、定期報告。そこに、一文を加える。


 『一時交代を要請する』


 理由は書かないが、それだけで充分だろう。伝令に報告書を託し、ハリムは待った。


 翌日の昼、交代要員が屋敷に到着した。商会からの返答は、簡潔だった。


 『了承。三日間の休暇を与える。ハボリム』


 三日間。それだけあれば十分だ。ハリムの顔が晴れる。引き継ぎを手早く済ませて、屋敷を出る事にした。1秒たりとも長居はしたくなかった。


 その日の夕方、ハリムは街の中を歩く。目的地は決まっている。頭の中は、国を守ることの意義が葛藤している。今のハリムには見出すことが出来ない。屋敷から離れても、見た全て、置かれた状況が好転した訳ではない。


 店の灯りが見え始める。温かい光。ハリムの胸にも、少しだけ温かいものが灯る。


 扉を開ける。


「いらっしゃいませ」


 ニコラスの声。


 その声を聞いた瞬間——


 ハリムの心が、少しだけ軽くなった。


「よう、ニコ」


 ハリムが微笑む。が、いつもと違って、表情が上手く作れない。他所行きの顔。でも、ニコラスの前では少しだけ、本当の自分でいられる気がした。

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